第1話

文字数 1,098文字

「ねぇ、他にもっと良いアルバイトなかったの?」
 飯田橋に立つ小さな事務所で、四十がらみのオジサン社員が顔をのぞき込んできた。窓から差し込む8月の夕日が、僕の履歴書を照らした。

 「はい、やっぱり4月から就職となると、なかなかとってくれるクチがなくて……」
 僕は、てらわずに答えた。大学4年で単位も取り終わり、先月には希望通りの大手から内定をもらった。百円ショップで買った履歴書の甲斐英介という名前の下には、いちおう、有名な都内の大学名を書いてある。
 「大学生って、塾講師とかやるもんじゃないの」
 「いやぁ、さすがに1年も在籍できないと生徒に申し訳ないですし……」
 これも本心だ。自分は嘘を上手につけないと、就活の間に嫌というほど思い知っている。

 そりゃ僕だって、同じ働くならオシャレな場所がいいと思っていた。目鼻立ちのくっきりした美人が資格の勉強をするようなカフェとか、同い年のオシャレな子が沢山働くアパレル店とか――。でも、就職先が決まった途端、バイトの選択肢は狭まった。面接にこぎ着けても「来年やめます」と言えば渋い顔をされ、そこから連絡は来なかった。
 警備員のバイトは、流れに流れ着いた先の島だ。何をどう間違えたのかなと、僕はひっそり首をひねった。

 「ふぅん。この大学、うちの社長と同じだなぁ。今度研修でも来れば会えると思うよ」
 「本当ですか。うちの大学は経営者希望の学生も多いですからね……」
 会いたいとも会いたくないとも言わず、適当にあしらう。社員の男は履歴書と僕の顔をジロジロ見比べて、
 「わかった」
 と一決した。
 「じゃあ研修から始めるから、来られる日を教えて?」
 「えっと……」
 手帳を開く。7月までは筆記試験や面接がびっしり入っていたが、今月はもう真っ白だ。
 「いつでも大丈夫です」
 社員は「じゃあ、明後日の午後にまた事務所に来て」と告げた。1時間ほど動画を眺めるらしい。

 事務所を出た。日は傾いたが、アスファルトから放射される熱気はますます強い。面接で出されたアイスコーヒーの味を、喉元が勝手に思い出した。
 「警備員かぁ」
 僕は頭の中で反芻した。仕方ない、2年越しの彼女は諦めるしかないだろう。
 僕は視界の隅で銀色に光る腕時計を眺めた。内定が出たことを喜んだ父が買ってくれた、十万円のアルマーニ。遠慮した僕を「社会人は時計も見られるぞ」と押し切って、その場で支払ってしまった。まだ慣れていないが、困ったときや考え事をするとき、つい見てしまう。
 飯田橋駅へ、とぼとぼ歩いた。イヤホンで音楽を聞いてもまだ、蝉の声がうるさかった。
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