第11話 天の岸辺

文字数 5,682文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第十一話 天の岸辺


 玖遠は、もうずいぶん、都会から遠ざかっていた。
 今いるところは、広い河原を川が流れているだけの場所だった。その土手に、那魅と肩を並べて腰をおろし、今は星空を見上げていた。
 川の両岸は、荒れ果てた田畑があって、その向こうは山だ。あたりに家灯りはなかった。土手の上には車一台が通れるだけの砂利道があったが、ここに腰を下ろしてからずっと、車も人も、往来はなかった。
 寒さもない、暑さもない夜更けだった。
 ただ、星が空を埋めている。
 深遠たる闇に、宝石のかけらが撒かれていた。一つずつ、浮かんだ深さが違った。そしてその中を、銀の粉を噴いたように、川が流れていた。天の川だ。
 玖遠は、その天の川の岸辺に、いくらか赤みを帯びた星を見ていた。
 そして、川を挟んで、青白い星があった。
 どちらも、目立つ星だった。
 そして、輝いて見えた。

 玖遠はふと、右の肩を見た。
 そこでは、那魅が、玖遠の肩に頬をすり寄せて眠っていた。
 閉ざした目元には表情がなかった。
 眠っているからだ。
 けれど玖遠には、見えていた。
 その那魅の寝顔には、笑みの気配が感じられた。
 そう感じるのは、最近の那魅が、感情らしいもの、意思を現すような行動をするようになったからだった。
 那魅は、自我を失う以前の、彼女らしい姿を取り戻そうとしていた。ものもろくに言えず、笑顔をすることもできず、それでも最近は、変わりはじめていた。
 ひな祭りの頃には、アパートの窓辺に見かけた子どものところへ上がり込んだし、田植えの頃だって、消え去る運命の田んぼの神に代わって足を水につけた。そんな風に、考えを、行動で現すようになっていたのだ。
 那魅に、まだ、笑顔はないけれど、もう、そう遠くない未来のことだと、玖遠は期待を膨らませていた。そう思うと、左の手が自然と持ち上がり、眠る那魅の髪をなでていた。起こさないように、そっと……。
 兄妹でありながら、那魅の髪は柔らかい。
 そういえば昔、さみしくなった夜、こうやって髪をなでていた日があった。
 玖遠は、ささやきかけた。
「……今日は、七夕の夜だよ」
 玖遠は言って、また空を見上げた。
 僕たちは恋人ではないけれど、再会を待ち焦がれる気持ちは、那魅の心に届いただろうか。
 そう思って星に目をやった。
 そのときだった。
「やあ!」
 突然、背後から声が掛かった。
 びっくりして振り向くと、土手の道から人影が下りてくるのが見えた。
 痩せ型の、少年の、黒い影だった。それと、和服の影の、髪の長い女性だった。
 玖遠は立ち上がろうとしたが、那魅が眠っていて顎を引くことしかできなかった。
 月もない夜、星影だけが川面に落ちる中で、やってきた少年の面差しは、仄かに青白く、水の中の光のように青白く、玖遠に、その端正な面差しを報せた。やさしい笑みをたたえた口元、切れ長の目、スッと引いた眉に、少女のように揺れる前髪……。
 中性的な繊細さを持った顔立ちの少年だった。
 しかし玖遠は、危険な予感を深めていた。
 なぜなら、その彼の瞳が、この夜空のどこよりも暗く、深く、黒くあったからだ。
 星の一つもない、闇の世界の黒に見えたのだ。
「どうしたの、ずいぶん警戒してるね」
 彼は言うと、玖遠の隣、土手の斜面に脚を投げ出して座った。
 女性は立ったままだった。そして、玖遠は敏感に感じた。彼女の顔は淡々として表情がなく、切れ長の眼は、玖遠と那魅のことをつぶさに観察していた。
「はじめまして、僕は玉髄。キミは?」
 少年が丁寧な挨拶をして、玖遠は目を泳がせた。
 返事をして良いものか、それとも、この場を離れるべきか……。
 すると、少年はいった。
「玖遠…でしょ?」
「……え?」
 なぜ、名を知られているのか。
 その疑問を目で訴えると、少年、玉髄はさらりと笑って答えた。
「最近、九尾になった狐……だよね? 確か、そうなる前は、どこかの稲荷の神使だったとか……」
「なんで、知ってるんだ」
「僕にはね、妖怪の友達がいっぱいいるんだ。この国の、随所にね。だから知っているのさ。キミは、九尾狐の英雄。人間をたったひとり喰らっただけで、今、この国で、一番有名な妖怪になった」
「……英雄?」
 疑問を深めると、玉髄は玖遠の向こうで眠る那魅のことを、軽くのぞき込んだ。
「その子、那魅ちゃんだね。彼女が持っているスマホが、キミが九尾になった瞬間を世界中に報せたんだよ。そして、殺された妹を取り戻すために旅をはじめたことも」
 玖遠は那魅の寝顔を確かめた。
 深く眠っている。
 玖遠は密かに安堵しつつ、玉髄を振り返った。
「僕は、英雄になんてなったつもりはない」
 すると、玉髄は軽く笑った。
「自分から英雄だなんて言う英雄がどこにいるの? そんなやつ、偽物さ。
 キミを英雄だと言っているのは、僕の仲間たちさ。もちろん僕も、キミのことを英雄だと思ってるよ。神を神とも思わない傍若無人な人間を、晒し刑に処したんだからね」
 それは違うと、玖遠は言いかけた。あれは、怒りにまかせてしまったことだ、と。
 それを封じるように、玉髄が目を丸くして言った。
「だけど、残念だね」
「え?」
「那魅ちゃんのことだよ。一度死んだ者は、たとえ神の使いだとしても、生き返ることなんてないんだよ」
「な……」
 何を言うかと怒鳴りそうだった。
 けれど、そのとき、那魅が何かを言った気がして言葉を飲み込んでしまった。
 しかし、見ると、那魅はまだ、眠りに落ちたままだった。
 玉髄が続けて言った。
「その姿をとどめることができているのは稲荷の力、そして体を動かしているのは、人の力。那魅ちゃんは、神と人の狭間に浮かんでいるだけの存在さ」
「なん…だと?」
 玖遠は牙を見せて玉髄を睨んだ。
 けれど、玉髄は慌てることもしない。それどころか、黒い瞳に力を込めた。
「言いそびれていたけど、僕は冥界の狐なんだ。つまり、そうだね、死者の国から来た、妖怪なんだ。死者の国には、人間だけじゃなく、不幸にして輪廻転生から外れた生き物もいるんだ。人に関わり、生や死の意味を知ってしまった動物たちもそこに渡っていくってことさ。僕は、そんな中のひとりなんだ。
 ただ、他の死者たちと違うのは、この、生ある世界に強い未練を持っているってことさ。だから川を戻ってきた」
「か…川?」
「この世と、あの世を、隔てている川のことさ」
 玉髄は言うと、玖遠から目をそらし、夜空を横切る川を見上げた。
「その川は、簡単には渡れない。向こうに行くのは簡単だけど、戻ってくることは難しい。とても、難しいんだ」
「………」
「僕は、ほんとうだったら川を戻ってくることはできなかった。誰もが、そうのように、ね。だけどね、僕の愛しい人が、身代わりになってくれてね、僕は渡らずに済んだんだ。一度は死んだにも、関わらず、ね」
「愛しい人って……?」
「母親さ」
 玖遠は目を丸くした。
 玉髄は、夜空を見たまま言った。
「僕を殺したのは、人間。
 母さんは、僕を救ってくれた。
 結果的に母さんを死に至らしめたのも、人間。
 僕は母さんにお礼を言いたいし、抱きしめても、もらいたい。
 だから、僕は、川のこちら側で力をつけて、いつか、母さんを向こう側からこちら側に連れ戻す。そう思って、生きてきた。もう、ずいぶん、長いこと……ね」
 玉髄は話し終わると、夜空にため息をして、それから玖遠を見た。
 玖遠は、玉髄の黒い瞳に気持ちを掴まれてしまった。そして、茫然と言った。
「似てる……僕たちと」
「そう?」
 玖遠は、黙って頷くと、那魅を見ながら玉髄に打ち明けた。
「母さんが、僕たちを追い払わなかったら、僕たちは死んでいた。
 ほんの子狐だったぼくらは、そのままだったら死んでいたんだ」
「そうなんだ。でも、生きてるね。神使になったのは、どうしてだい?」
「死にかけた。そこを、お稲荷様が拾ってくれた。
 僕と那魅は、神の使いになって、生きることができた。
 僕は、人間が好きではなかったけれど、那魅は人のことが好きだった。いつだって笑顔で、楽しそうにしていたんだ。なのに」
「殺された」
「………」
「那魅ちゃんは、もう、死んでしまってる」
 玖遠の言葉を、玉髄が遮った。
 玖遠はそれまでの気持ちが裏返り、怒りがわき上がり、つかみかかる勢いで玉髄を睨み、拳を握りしめた。唇も噛んで血がにじみ、血の味がした。けれど、玖遠は玉髄につかみかかることができなかった。体が震えて、できなかったのだ。
 玉髄は憐れみの眼をしていた。
 玖遠は、それを拒むように目を背け、那魅の寝顔を見ると、那魅に言い聞かせるように、そして玉髄にもきかせるために、言った。
「那魅は、死んでなんかいない。少し、心が痛んでいるだけなんだ。それにもう、魂を取り戻そうとしている。借り物の魂ではなく、本物の魂さ。笑顔だって、もうすぐ、取り戻す」
「ほんとうに? ほんとうにそんな日が来ると思っているかい?」
「思っているさ。それに、証拠だってある」
「証拠?」
「那魅は最近、自分から行動するようになった」
「……それだけかい?」
「………」
「キミに笑いかけたり、そういうことは?」
「………」
「ないんだ」
 玖遠は、唇をほどくと言った。
「ないさ。だけど、僕は信じてるんだ」
 突っ張って言った。
 すると、玉髄はしばし黙った後に、「なるほど」と、合点がいったような口ぶりをした。
「それだけ強く思っているからなんだね、那魅ちゃんが、向こう岸から消えてしまわないのは」
「え?」
「言っただろう、僕は冥界の狐だって。僕は、こちらとあちらを隔てている場所がどこにあるのか知っているし、いつだってそのほとりに立てるんだ。
 実はね、もうずいぶん、長いこと、冥界の岸辺に那魅ちゃんの姿があってね、ずっと泣きながらこちらを見やっているんだよ」
「!」
「声が聞こえてきたことはないけど、キミのことを呼んでいるんじゃないかな、不安そうに、ね」
「那魅……」
 玖遠は那魅の寝顔を見た。
 向こう岸から連れ戻すように、その眠りを覚ましたいという衝動があった。それを抑え込んで、また、髪をなでた。
「そんなことをしたって、だめさ」
 玉髄が嘆いた。
「川が流れている限り、死者はこちらへ戻ってこられない。あるいは強大な者が手を差しのべない限り、こちらへは戻ってこられない。でないと、道理が通らないからね。
 だけど、もしかしたら、僕なら、那魅ちゃんを連れ戻すことができるかも知れない」
「えっ」
 そのひと言は玖遠を振り向かせた。
 玉髄は真剣な顔をしていた。
「僕は、あちらのどこにいるとも知れない母さんのために、ずっと力を蓄えてきたからね、岸辺にいる子のひとりくらいなら、連れ戻せるかも」
 玖遠は、息をのんだ。
 玉髄は、真剣な眼をして言った。
「もちろん、絶対にできるとは言わない。
 だけど、玖遠、キミはもう、僕の力がどれほどのものか、肌で感じてるんじゃないのかい?」
「………」
 そう、玖遠は敏感に感じ取っていた。長く生きて、力を蓄えてきたという玉髄の、強さを、野生の勘で感じ取っていたのだ。
 そして、考え込んでから言った。
「キミには、那魅を連れ戻すことが、できるのか?」
「そうだね。僕はずっと、川のほとりに立ってきたからね。手はあるんじゃないかな。
 そうだね、たとえば……。
 ちょっと、見せてあげようか」
 そういうと玉髄は立ち上がり、黒々とした闇に揺らめく、仄かな紫色の炎を身に纏わせた。直後、風が息をひそめ、彼の、少年の腰から、黒々とした尾が、まるで湧き出でるように生えた。その数、九本。大きく広がり、怪しく揺らめく九尾だった。
「ちゃんと見ててよ」
 そう言うと、右の手をスッと空へ差しのべた。
 それを、黒い瞳が追い、そこに無数の星が映り込んだ。
 直後。
 動きを止めた空気が、ズッ!と体を押しつけてくるような感覚がして、土手の草がひれ伏し、川面の波が消えて鏡のようになった。
 玖遠は、愕然とした。
 口を切り結んだ玉髄が、わずかにつり上がった目で星空に手首を揺らしたかと思うと、世界がまるで彼の意のままになったかのように、夜空が歪んだ。そして、星の海を横断していた、銀砂を流したような天の川が、その無数の光が、尾を引きながら落下をはじめ、鏡のように鎮まった、目の前の川面に降り積もったのだ。
 天の川は、地に落ちて、玖遠の目の前に横たわった。
 地上に、星の川が生まれ、夜空には黒々とした帯が横たわった。
 玖遠は、震えた。
 そして玉髄は、手をゆっくりと下ろすと、軽く吐息をついて、玖遠を見下ろした。
「今夜、天の川は歩いて渡れるよ。あれも川だと言う限り、水の流れに過ぎないからね。つまりさ、今みたいに境の川の水を抜けば、那魅ちゃんはこちらに歩いてこれるんじゃないかな」
 玖遠は絶句して、天と地を、何度も見た。
 玉髄は黒々とした尾を揺らした。
 すると風が戻ってきて、彼は頭の上に耳を生やすと言った。
「ああ……、邪魔が入ったね」
「……?」
 玉髄が、川の上流を見た。
 すると、土手の道をこちらへ向かってくる光が見えた。
 パアァァァン!と乾いたエンジンの音も聞こえてきた。
 玉髄は、ため息をつくと、玖遠にニコリとした。
「僕のこと、覚えておいてね。また会えたときに、話をしよう」
 そう言って、黒い瞳を細めると、彼はパッと踵を返して土手の道を川下へ駆けだした。すると、控えるように立っていた和服の女性が、冷たく流し目をしながら黒髪を揺らして玉髄を追った。
 玖遠が唖然としていると、エンジンの音が飛ぶように近づいてきて、一台のジープが、砂利を跳ねながら土手の道を駆け抜けた。
 その一瞬、玖遠は見た。
 血走った目でハンドルを掴むポニーテールの女……。
 彼女は前方をにらみ据え、狂ったように咆えていた。
 その口の端から、赤く、鬼の血が、風に散った。
 彼女の血は、紅い星のように輝いた。
 けれど、それは一瞬に過ぎず……。
 赤い星は土煙にまみれ、茶色くくすみ、地面へとおちて消えたのだ。



  了
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