第7話 桃色のクレヨン

文字数 7,777文字

 妖かし玖遠*九十九奇譚

 作:玖遠@第六文芸

 第七話 桃色のクレヨン


 僕と那魅には、住む家がない。
 僕が人を喰ってしまったせいで、住処だった稲荷神社を去ることになってしまった。
 けれど、那魅は文句一つ言わない。
 自我が壊されて、失われてしまっているからだと思う。魂だって、スマホが与えた借り物だ。
 だから僕は、日々、浮き草のようにさまよう中で、那魅が何かを望んだときは、拒まずに受け入れようと思っている。
 それは、今日も……。

 人々が多く住む街の、コンビニエンスストアで、僕は那魅の様子を見守っている。那魅は、淡々とお菓子売り場の棚の前に立ち、表情のない顔でお気に入りのお菓子を探している。
 お気に入りは、きのこの形をしたチョコスナックだ。
 那魅は、僕たちがまだ、生きた狐だった頃から、茸が好きだった。そのお菓子を見ると、その頃を思い出すのだろう、那魅は十中八九、そのお菓子を買う。
 もちろん、お金は払う。僕は妖怪で、那魅は自我を失った状態だけれど、人の道に外れたことはしない。今だって、黙っていても那魅は、茸の描かれた小箱を大事そうに持ってレジに行った。
 それを店員の前に出し、白いパーカーのポケットからスマホを取り出す。理屈は、よくわからないけれど、どこからともなく貯金される残高で、那魅はお菓子を買うことができる。大きな金額ではない。けれど、スマホは、那魅にとって、賽銭箱のようなものかもしれない。
 その賽銭箱を、店員に言われるままにセンサーにタッチすれば、お金は支払われる。いつもはその段取りで終わりになるのだが、今日、那魅のその手は、センサーの手前でピタリと止まった。
「………」
 店員がいぶかる。
 那魅の顔を見ると、目が、レジ脇に出された棚を見ていた。
 そこには、赤やピンクで彩られた棚があり、造花の梅に囲われて袋入りの【ひなあられ】が陳列されていた。白い砂糖を纏ったお米のポン菓子だ。豪華に、ピンクや黄色の大玉も混じっている。
「………」
 そうか、と僕は思った。
 気づけばもう、三月だった。
 そして今日は、ひな祭りの日だった。
 那魅は、無表情に、じっと、ひなあられを見た後、その袋を二つ、そっと取ると、レジに差し出した。

「行こうか」
 コンビニを出て、いくらか春らしい陽射しの中に出た僕は、小声で那魅を促した。それをすぐに切り出さないと、那魅はどこででもお菓子の封を開けてしまう。とりあえず、どこか落ち着ける場所を探したかった。
 那魅は、ジッと僕を見てから、胸に抱えたお菓子を自分で見下ろした。雛あられを二袋も買ったおかげで、完全に両手が塞がっている。
「お菓子を、買い過ぎだよ。無駄遣いはダメだよ」
 僕は軽く叱る。けれど、那魅はきょとんともしない。なにを考えているのか、なにを感じているのか、わからない目で僕のことを見る。
 自我が壊れてしまっているからだ。
 けれど、僕は最近、少し思い始めていた。
 実は、那魅の心の中には、はっきりと自我が残っていて、時々は僕のことを心配したり、わがままをしてみたり、ただ口に出して言うのが下手になっただけで、もうすでに、心の中では自我を取り戻しているのではないのか、と。
 そう思う理由だってある。このあいだは、追っ手にやられた僕の手を握っていてくれたし、クリスマスの時には、拗ねたような仕草をして、最後には僕の肩で眠っていた。
 僕が、気づいていないだけで、那魅はもう、自我を取り戻しているのかもしれない。
 そう思っていると、まるでその予想をなぞるかのように、那魅が、胸に抱えたひなあられの、二つのうちの一つを、僕に差し出した。
 無言のまなざし。
 僕は、期待を込めて尋ねた。
「くれるのかい?」
 那魅は、ゆっくりと頷く。
 僕は、うれしくなって、もしかしたら笑みをこぼしたのかもしれない。けれど、那魅は、目を細めることもなかった。ただ、僕のことをジッと見る。その目には、なにか意思らしいものが感じられた。
 僕は差し出されたそれを受けとると、パーカーのポケットにしっかりと入れた。
 那魅は、荷物が減った手でキノコのスナックをポケットに入れると、もう一つ残ったひなあられの封を切って、砂糖を絡められたポン菓子を指先でつまみ、口に放り込んだ。
 僕は、雛あられの封を開けようとは思わなかった。雛あられは女の子のものだし、後で、那魅と一緒に食べればいいと、そう思ったからだ。

 そうして歩き出してしばらく。
 ふと、那魅の足が止まった。
 どうしたのかと振り返ると、那魅は、ひなあられの袋に指を突っ込んだまま、なにかを見上げて立ち止まっていた。
 視線を追ってみると、そこには、アパートの窓があった。
 ちょうど、二階の小窓のカーテンが開いて、ガラスの向こうで小さな手が、窓辺になにかを立てかけようとしているところだった。
 注目するとそれは、手のひらくらいの大きさの、赤い、折り紙だった。おむすびのような三角形に見えるけれど、正体はわからない。そうこうしていると、その赤い折り紙の隣に、青い、これもおむすびみたいな三角形の折り紙が並べられた。
 そしてチラッと見えたのは、まだ十歳にも満たないような女の子の幼顔だった。前髪の一部を赤いヘアゴムで結んでいる。おでこが出て、明るい印象だったけれど、表情はどこか、沈んでいた。
 それが、どうかしたのかと、僕は那魅を見た。
 那魅は、僕の視線には答えず、口の中に残っていたひなあられを、シャクシャクと噛んで静かに呑み込むと、袋から指を抜いてアパートの方へと足を向けた。
 その歩く姿が、サアッと白く光を帯びる。
「那魅!」
 僕は慌てて追いかけた。けれど那魅は立ち止まらず、ほのかに光を纏いながら、アパートの階段を上がっていった。その途中で、那魅は光の中のシルエットになり、二階の部屋の前に立ったときには、きらびやかな十二単を纏った姫の姿になっていた。
「那魅! こんなところで化けたらダメだ!」
 廊下には四つのドアが並んでいる。今にもどこかの部屋のドアが開くのではないかとヒヤヒヤだ。
 しかし那魅は、慌てる僕にはお構いもせず、廊下を奥までいくとドアをノックした。
「ダメだってば…!」
 言うことを聞かない。
 そうこうするうち、ドアの向こうで人の気配がして、のぞき穴に瞳が見えた。
「あ…けて」
 那魅が、紅を塗った唇を動かした。
 すると、ガチャッと鍵の開く音がして、ドアが、恐る恐る開いた。
 玄関には、踏み台に上って呆気にとられている女の子がいた。
「こん……にちは」
 那魅は無表情に言う。
 女の子はポカンといった。
「おひな……さま?」
 いくら三月だからといっても、おしろいをして赤い紅を引き、豪華絢爛な十二単を着た、現代の町なかには場違いな姫が扉をノックしてきたら、誰だってポカンとなるだろう。
「いれ……て」
 那魅は、淡々と言う。
 女の子は、操られたように踏み台をおりると道を空けた。
 那魅は、足音もなく狭い玄関に入り、十二単を薄衣のようにひらめかせて女の子の家へと上がり込んだ。化け方があまり上手じゃない。十二単はひらひらなんてしない。だが、狭い玄関に入っていくには、それが都合が良かったかもしれない。
 僕は廊下を振り返り、誰にも見られていないことを確認してドアを閉めた。すると、そう教えられているのだろう、女の子が手を伸ばして鍵を閉めた。ただ、目がまん丸になっていた。
 僕は、怖がらせないようにしながら詫びた。
「びっくりさせるつもりはないんだ。あの子は僕の妹で那魅って言うんだけど、ちょっと心が壊れてしまっていて、口が、あまり上手にきけないんだ。
 でも、悪さはしないよ。それは僕が約束する」
 女の子は、僕のことと那魅のことを交互に見て、それから、恐る恐る頷いた。物静かな、大人しい子だ。
 那魅は、ずい、ずいと部屋の奥へ行った。
 キッチンを抜けたところに、六畳間があった。他に部屋はない。隅の方には一間の襖と、そのそばに置かれたハンガーラック、子供服の他に、女性ものの衣類が掛かっていた。それからグレーの作業つなぎが室内干しにされていた。その下には、ピンク色のランドセルがきちんと置かれていた。
 部屋には小さなちゃぶ台があって、その上には玄関の鍵が置いてあった。首からかけられるように長い紐がついている。飾りっ気のない鍵だった。
 僕は、置いてけぼりになっている人の子の姿を見た気がした。そしてもしかしたら、那魅はそのことに、いち早く気づいていたのかもしれないと思った。
 那魅が、口を開いた。
「お…るすばん?」
 すると、女の子は頷いた。
「お…なまえは?」
 那魅が珍しく質問を重ねた。
 女の子は、少し困って見せてから、言った。
「知らない人と、お話ししちゃダメって」
「………」
 那魅は黙って待つ。
 沈黙が続く。
 僕が口を挟もうとしたとき、女の子が上目遣いに言った。
「もも」
「も…も……?」
「もも」
「……おいしそう……」
 いや、【もも】というのが、名前なのだろう。僕が言い聞かせようとすると、すうっと、那魅の手が動いた。
 十二単に袖を通した手が、そっと、ももの頭をなでる。
「いいこ……いいこ……」
 ももが目を丸くする。
 那魅は、笑みもない。
 けれど僕は、那魅の自我が、確実に戻りつつあることを感じて、手に汗を握った。

 ひとしきり、ももの髪をなでつけたあと、那魅の興味は、女の子から、腰高の窓辺に向いた。通りから見えた、あの窓辺だ。
 その窓辺には、ガラスを背にして、建設会社の名前の入ったデスクカレンダーと、ひと組の折り紙人形が立てかけられていた。折り紙人形は、三角形のおむすび型に折られた、おひな様とお内裏様だった。ピンクの紙で折られたおひな様と、青い紙で折られたお内裏様だ。ふたりとも、幼い筆の運びで、ニッコリとした顔が描いてあった。
 ほかに飾りらしいものはない。ささやかなお菓子のお供えもない。しかし、それでも、家具もろくにない、素っ気のないこの家では、そこだけは確かに、ひな祭りの景色になっていた。同時に、大人から置き去りにされたこどもの世界が見えて、僕は痛々しく思った。
「こ……れ?」
 那魅が疑問を口にする。
 ももは、警戒しているのか、返事をしない。
 那魅は返事を求めない代わりに、その折り紙に手を伸ばそうとした。
 すると、ももが慌てて口を開いた。
「ママと作った」
 その言葉に、那魅の手がピタリと止まり、目が、振り向いた。
 視線を受けて、ももは付け加えた。
「ずっと、前……」
 そう言われてよく見ると、確かにその折り紙人形は、少し日に焼けて色あせていたし、白いところは黄ばんでいた。ふと、気づけば、壁際のカラーボックスの手前に、蓋の開いた菓子折の箱が出されてあって、その中には、チューリップや鞠や、いろいろな折り紙が積み重なっているのが見えた。
 那魅が、訊いた。
「おも…いで?」
 ももは、考えてから頷く。
 那魅が、ジッとももを見る。
 ももは小さくなってしまった。
 それを見て、那魅は、窓に背を向けると、十二単をひらひらさせながらその場に座り込んだ。振り袖が畳に落ち着くと、ひな人形のようだ。
「わぁ……」
 ももが小さく声を漏らした。
 横顔を覗き込むと、目が輝いている。
 座り込んだ那魅は、視線がももと同じ高さになり、本人はそういうつもりはないのだろうけれど、すました顔になった。
 ももは、幼い仕草で、遠慮がちに、那魅のことを見て回った。錦の衣が襟元で幾重にもなった様子、膝の上にしとやかに置いた手、綺麗にまとめた髪、白く化粧をして紅を引いた口元……。
「ほんものの、おひな様…!」
 ももが初めて笑顔を見せた。それを那魅は淡々と横目で見て、それから突っ立っている僕を見上げた。
「くおん…も」
「え?」
「くおん……ここ」
 そう言って、右手を空いた畳にやってパタ、パタ、とやった。
「くおん……ここ」
 淡々としたまなざしだったが、僕は察した。おひな様の隣に招くということは、そういうことだろう。
 僕は那魅の誘いに頷いた。そして、軽く念じて一歩踏み出すと、袖を通していたパーカーを黒い着物に変え、烏帽子を被ったお内裏様の姿になった。そして、呆気にとられているももの視線を頬に受けながら、那魅の隣に胡座をかいた。
「わ……あ」
 ももは居並んだ僕と那魅の真ん中に立って、右を見たり左を見たり、目を輝かせた。僕は顔を上げ、視線を遠くに向けて、すました顔をした。それを見て、那魅も正面を向き、僕と同じように遠くへと視線をやった。

 思い出せば……。
 神社から見る景色に、まだ団地が立ち並ぶ前。
 三月になると、僕は村娘の姿に化けた那魅に引っ張られて、家々のひな人形を眺めて回った。
 どの家も縁側から見えるところにひな人形を飾っていた。立派な七段飾りをするのは、庄屋の家だけだった。農民の子の家では、藁で作った人形に、色の良い端布などを巻いて、ひな人形を飾っていた。そんな差はあっても、どの家も花を飾り、餅か、ささやかなお菓子を飾り、家の者皆で桃の節句を祝っていた。
 那魅は、村のこども達と一緒になって巡りながら、いつも目を輝かせていた。
 人間は、ひな祭りを、女の子の幸福を願って行うという。ひな人形は、女の子が健やかに育ち、幸福な人生を送るためのものだと、いう。だから僕は、ひな人形に目を輝かせている那魅を見ていると、いつか、那魅も、幸せになる日が来るのだという気がして、少し複雑な気分になった。さみしいような、誇らしいような、そんな気分だ。
 そして今日、町のアパートの窓辺を背にして、那魅と並んで、ひな祭りの飾りになりきっている今、僕は、そんな誇らしい気持ちを思いだして、口元がゆるむのを我慢しなければならなかった。

 しかし……。
「那魅。そろそろ行こうか」
 背にした窓の外が薄暗くなり、通りには帰宅を急ぐ足音や車の音が増えてきた。
 僕は横目で那魅に言ったが、那魅はジッと前を向いたまま、さっきから、まったく身じろぎもせずに座っていた。那魅は十二単のおひな様、僕は束帯衣装のお内裏様のままだ。そして幼い少女、ももは、僕と那魅の間に座って、ひな飾りの一員になって、けれど今は、こっくりこっくりとしていた。その横顔は幸せそうだけれど、僕は焦りを感じていた。
 もし、このまま、誰か、家の人が帰ってきたら、間違いなく目を丸くされてしまう。勝手に上がり込んでいるので泥棒騒ぎになってしまうかもしれない。
 しかし、那魅は前を向いたまま動こうとしない。
 もう、日が暮れ、部屋が暗くなり、うすら寒さも忍び寄ってきた。
 その時、外で、ゴム底靴の足音が階段を駆け上がってきて、そのまま小走りにドアの前まで来た。
 鍵が忙しくガチャガチャッ!と鳴り、扉が開く。
 那魅は微動だにしない。
 僕はゴクリとつばを呑んで、いそいそと上がってくる人影を見ていた。
「もも、遅くなってごめん。今日の現場、遠かったの」
 疲れて、申し訳なさそうな女性の声。同時にパッと電気がついて、その姿が明らかになった。
 くすんだ灰色の作業着に、手には鍵と、もう一方の手には黄色いヘルメットを提げていた。ほかに荷物はない。化粧っ気はなく、どこかほこりっぽく、髪を襟足で飾り気なく束ねて、日々の忙しさにやつれ果てて見えた。目元が、ももに似ている。母親に違いなかった。
 彼女は、案の定、居間の窓辺に鎮座した僕たちを見て目を丸くした。泥棒!と声を上げなかったのは、僕と那魅がひな人形のようだったからに違いなかったし、僕と那魅の間で、留守番をしていた彼女の娘が、幼気にこっくり、こっくりとしていたからかもしれなかった。
 僕は、今のうちにと那魅を見た。
 那魅は真っ直ぐに前を見ていたが、目線を上げると、帰宅した母親をじっと見た。那魅の、その目を見たとき、僕は那魅が、黙って彼女の帰りを待っていたことを知った。
 空気が凍りつくようだった。
 那魅が、口を開いた。
「もも…は、待ってた……」
 そう言って、ゆっくりと腰を上げ、相手の視線を遮って立ち塞がった。十二単が妖しくひらめき、相手は言葉をなくした。
 那魅は声を低めた。
「きょう……ひな……まつり」
「えっ?」
「わす…れ……てた?」
 相手がアッと動揺するのを見て、那魅は顎を引いた。
「わすれ…てた…の?」
 母親が気まずい顔をする。
 那魅が、声を低めた。
「こ…ども…には…、いま……しか……ない……のに」
 僕は急いで立ち上がった。
 那魅の言葉に、悲しみと批判の気配を聞いたからだ。
 横顔を覗き込むと、那魅の瞳はいつもと変わらず淡々としていた。面と向かった母親の目には、怯えと自己嫌悪があった。
「こ…どもには、いましかないの…に'」
「ご…ごめんなさい……」
「こども…には、いましか…ないのに…」
「今朝までは覚えてたんです。でも」
「こどもには……、いましかないのに…!」
 僕は震えた! 那魅が、声に力を込めたからだ! そんなこと、あの日以来、初めてだった!
 だけどそれは、僕が望むものではなかった。那魅は、喜びの声でも、笑い声でもなく、怒りの声を上げたのだ。明らかに良くない感情、批判だった。
 それでも僕は、期待した。
 怒りに震えるその唇から、もっと、もっと、那魅の心が、吐き出されてくるのを願っていた。
 しかし。
「わかって…る。いきる…の…たいへん」
 那魅は一転して母親に寄り添うようなことを言った。
 僕は、ギョッとした。
 僕は、母さんの記憶を断片的には覚えていたし、那魅もそれを覚えていると直感したからだ。
「那魅……」
 僕は
「く……おん」
 那魅は、一転して抑揚なく言い、スゥッ…と衣を揺らして片手を僕に差し伸べた。そして、言った。
「……あ…れ……」
「……え?」
「ひ…な……あ…られ」
 雛あられ……。
 僕は、ハッと思い出して着物のたもとを急いで漁った。そして出てきたのは、さっき、コンビニを出たところで那魅から受け取った、雛あられの袋だった。
「これかい?」
 僕が急いで差し出すと、那魅は黙ってこくりと頷き、もう一方の手も差し出して袋を大事に取ると、改めて相手に向き直って、もう、怒りの気配は隠して言った。
「おみ…やげ」
「え……?」
 那魅は母親の胸に雛あられをゆっくりと押しつけた。
 母親は戸惑いながら、ヘルメットを引っ提げたままの手で受け取った。
 那魅は、スッと彼女の前を退いた。
 すると、遮られていた窓辺の景色が、母親の目に飛び込んできた。
 窓辺に並べられた折り紙人形と、デスクカレンダーだった。
「きょう…は、ひな…まつり……」
 那魅が、静かに言った。
 デスクカレンダーには、きょうの日だけ、桃色のクレヨンで、花模様で、囲ってあった。


「ママ……?」
 僕と那魅が隣から消え、一人きりになったももが、目を覚ました。
 窓辺と向き合って立ち尽くす母親を見上げて、寝ぼけ眼をこする。
 母親の息を呑む音が聞こえた。
 そして僕には、もう一度、那魅の声が、聞こえた。
『こどもには、今しかないのに』
 那魅が、言いたかったことは、なんだろう。
 母親が、ももに駆け寄った。
 僕と那魅は、むせび泣ように謝る声を背中で聞きながら、振り向かず、手を取り合って、その家を出て行った。

  了
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