第10話 雨の誘い

文字数 5,212文字

妖かし玖遠*九十九奇譚 第十話

 作:玖遠@第六文芸

 第十話 雨の誘い

「ねえ! この雨は、しばらくはやまないよ」
「君たちさ、ここで雨宿りしていきなよ!」
 降りだした六月の雨、玖遠と那魅は口々に呼び止められた。
 山白く煙る、田畑の中を行く道の端、ぽつんと一本立つ鬼胡桃の下で、その男女は、人々に小さな屋根をかけられて佇んでいた。
 そのふたりは、横並びで立って、仲睦まじく抱き合っていた。そしてもう、この場所で長いこと、道行く人々を見守っていた。彼らは、一抱えほどの一つの石に彫り込まれた、恋人たちの像だった。そして折しも降り出した雨の中、パーカーのフードで頭を隠しただけで、肩を雨に濡らしながら、どこへゆく目的もなく歩き続けている玖遠と那魅を見て、呼び止めたのだ。
 だが、それはもう、三日も前のこと。
 今日も雨はサアサアと降り続いていた。
 道祖神は最初に口をきいたきり、三日間、黙り続けて、ただただ抱き合うふたりの姿で、ひとつ屋根の下にあった。
 そして、玖遠も那魅も口を開かなかった。
 玖遠と那魅は、呼び止められて以来、道祖神を挟んで右と左に別れ、小さな屋根の下に収まっていた。人が収まるには窮屈な場所だったが、生まれが狐のふたりには苦にならなかった。それどころか、玖遠は、記憶の奥底にある、母親と過ごした窮屈な巣穴のことを、おぼろげに思い出してさえもいた。
 玖遠は、目を閉じて、顎を引いて、もうずっと、動かないでいた。
 その様子を、那魅は、わずかに顔を向けて、淡々と見ていた。
 玖遠は、今日は朝からずっと、目を覚ますことも、身じろぎ一つすることもなく、眠っていた。ただ、呼吸に合わせて揺れる前髪だけが、その命を伝えているようだった。
 まるで、時が流れていないかのようだった。
 那魅は、密やかに、心配を目に浮かべた。
 そのとき。
 ブルルルと、パーカーのポケットの中でスマホが振動した。
 その振動音が、雨音よりもずいぶん大きく感じて、那魅は玖遠の横顔を気にしながらポケットに手を入れた。
 取り出した画面には、SNSの通知が入っていた。
 那魅の投稿が引用されたのだ。
 引用された先では、丈の伸びた稲の苗が、しとしととした雨に濡れている画像が貼ってあった。添えられている言葉は……。
『お爺さんの田んぼ、今日は雨。でも、鴨たちは元気に雑草を食べてます』
 よく見ると、数羽の鴨が苗の間を縫って泳いでいる。
 那魅は、わずかに目を細めた。
 そのとき、前触れもなく声がかかった。
「那魅ちゃん、君の呼びかけが田んぼを救ったんだね。すごいよ」
 優しげな声だったが、那魅はギョッとなって顔を上げた。
 すると、こうもり傘を差した黒髪の少年が、気配もなく立ち現れていた。
 那魅の唇が震えた。
「ぎょく…ず…い……」
 それは、正月の神社で那魅の唇を奪おうとした少年、そして花魁の憑いた桜の梢で笑っていた彼、冥界の狐、玉髄だった。
 黒い傘を差して佇む姿は、人間の少年のようでありながら、那魅は知っていた。彼の腰には、九本の黒い尾が隠されていること、そして恐らく、九尾となった兄玖遠とは比較にならないほどの力を持っていること。
 その証拠に、那魅は、玉髄を瞳に映した途端、視線をそらすことも、手にしたスマートフォンを隠すこともできなくなってしまった。
 玉髄は、優しげだけれど、人を食った余裕の笑みを浮かべながら、傘で雨をしのぎつつ、那魅の手の中のスマートフォンをのぞき込んだ。
「便利な時代だね。『タスケテ』って書き込むだけで、誰かが助け船を出してくれる」
 黒い瞳には、水を張った田んぼと濃い緑の稲の苗と、数羽の鴨が映り込む。
「那魅ちゃん。君は、この田んぼの面倒を引き受けてくれたのが、どこの誰だか、知っているかい?」
 玉髄は、画面を見下ろしながら言った。
 那魅は、返事ができなかった。
 玉髄は優しく笑みかけた。
「いや、そんなこと、知っている必要はないんだ。結果が、君の希望通りになれば、それでいいんだ。そうだろう?」
「き…ぼう?」
 那魅は声を絞り出した。
 玉髄は笑みを崩さなかった。
「希望。願い事とも言えるかな。
 君は、稲の子たちの未来を案じたし、消えていく稲荷の神の願いを叶えたいと思った。けれど、君の兄さんは、稲荷の願いを聞き入れなかった。願いを聞き入れなかった理由は、他でもない、君のためだよね。
 わかってるよね?
 君の兄さんは、もう、住処を亡くした根無し草ではなくて、君が正気を取り戻すための、そのきっかけを拾い歩く旅に出ているよ。本人は、そこまで思っていないかもしれないけどね」
 玉髄は言い、傘を持っていない方の手を玖遠の額に伸ばした。
 那魅は、息をのんだ。
 玉髄は、手を止めた。
「大丈夫。実は僕、君の兄さんが目を覚まさないように、術を使ってるんだ。だから、こんなことをしても大丈夫さ」
 玉髄は、玖遠の額に指はじきをした。
 しかし、玖遠はピクリともしない。
 那魅は、玉髄をわずかに睨んだ。
 玉髄は、那魅の視線を無視した。
「話を元に戻すよ。実は、僕は君のことが気になってる。君の力になりたいと思っているんだ。例えば、君が守りたいと思った田んぼを、どこかの誰かが引き受けてくれたみたいに、ね」
 玉髄は、玖遠の額を弾いた手で、今度は那魅の頬を撫でた。そして、那魅の前にしゃがみ込むと、那魅の視線を捉えて語った。
「君はまだ、気づいてないかい? それとも、もう気づいてる? 君自身の、魅力に」
「み……りょく?」
「そう、魅力。それは、不思議な力だよ。人の心を捉えることができる不思議な力さ。
 君は、そのスマホの中の世界では、九尾の狐に守られている幼気な妹だよ。九尾の狐は、君を殺した男を、喰い殺した英雄。なのに君は、その英雄に礼を言うこともできない。
 でもね、みんな知ってるんだ。もちろん、僕も。
 君が投稿しているたくさんの写真には、時々、その英雄の姿が写ってる。君のことを心配する顔で、時には、君を守ろうとして傷ついた姿で、ね。それでも彼は、君を引っ張って歩いて行く。その姿が写っている。そこには、君の思いが投影されてる。だからわかるのさ。僕も、人間たちも、ね。
 そして、どこの誰ともわからない人間たちは、君たちの成り行きを気にしている。楽しみにしているんだ」
 玉髄は、優しい笑みをたたえる。幼い少年のような、あるいは少女のような、中性的なその笑みは、見る者の心を惑わせるようだ。そして、漆黒の瞳は、見る者の思いを映すようだ。
「でもね、僕にはわかっているよ。君は、人間たちを楽しませたいんじゃない。君の兄さんと一緒にいたいだけなんだ。
 でも、だけど、どうだろう?
 君は、君の兄さんが望むような妹に、戻ることができるだろうか?
 一度、魂を失った君が、借り物の魂で、兄が望むような妹に、戻れるだろうか…?」
 那魅の瞳が震える。
 それをなぐさめるように、玉髄の空いた手が那魅の頬に添えられた。
「だけど、もし、僕が手助けをしようと言ったら、どうだろうね? もう、なんとなくわかってるかもしれないけど、僕は、強いよ。長いこと生きてきた間に、たくさんの力を蓄えてる。だから、君の魂を元に戻すことも、できるんじゃないかな。
 ねえ。
 想像してごらん。
 もしも君が、笑顔を取り戻したら、君の兄さんは泣いて喜ぶんじゃないかな。
 でね。
 もし、今、君が、僕のことを仲間にしてくれたら、僕は君の力になってあげられるような気がするんだ」
「な…かま?」
「実を言うとね、僕も君の魅力にとりつかれてるんだよ。たすけてあげたいって思ってる。だから僕も仲間にしておくれよ。そしたら助けてあげる。
 僕のことが怖いっていうのはわかってるよ。だから、友達からはじめようか。そうだな、試しに僕のことを撮ってくれない? その手の機械で、僕のことを写真に撮ってくれたら、きっと緊張も解けるんじゃないかな。そしてみんなに、トモダチできたって教えてあげてくれないかな? そしたらみんなはきっと喜んでくれるよ。そしたら安心できるでしょ?
 さあ。
 簡単なことだよ?
 君が兄さんを、もう一度、笑顔にすることを願うなら」
 玉髄は、冷めた手で那魅の頬を撫でた。
 けれど那魅は、その手にぬくもりがあるように錯覚していた。
 那魅の目はかすんでしまっていた。表情も失われていた。そして手が、スマートフォンを、ゆっくりと顔の高さに持ち上げ、筆で描かれたように端麗な玉髄の笑顔に向けた。
「………」
 親指が、震えながら、カメラを立ち上げる。
 手のひらの大きさの画面には、人の心を惑わせる笑みで、玉髄が映し出される。
その黒い瞳が、真正面から那魅のことを見ている。
「さあ。君に、笑顔をあげるよ。キミの兄さんが、望むような、笑顔を……ね」
 玉髄の、薄く、けれどどこか艶のある唇が、囁いた。
 かすんだ目の那魅は、画面に浮き上がった丸いシャッターボタンに、親指で触れようとした。
 そのときだった。
「待って!」
「黙ってられない!」
 それまで喋る気配もなかった二人の道祖神が口々に言った。
「玉髄って奴、聞いたことあるわ!」
「何百年も生きている悪い狐!」
「その悪狐はあなたをだまそうとしているのよ!」
「そいつが欲しいのは画面の向こうの人間たちで、君の願いなんて関係ない!」
「だいたいね、あなたが無くしたって言う魂を他人が取り戻せると思う?」
「そんなことができる奴がいるなら、僕たちをもう一度、この世に生まれ変わらせてほしいよ!」
 息もつかせぬ勢いで言葉が叩きつけられた。
 那魅の親指が止まる。目の霞も消えた。
 玉髄は、相変わらず画面の中で笑顔をたくわえていたが、その目は横に逸れて、那魅と玖遠の間の道祖神を睨んでいた。そして、唇だけを動かして唸った。
「うつつに添い遂げられなかった者どもが、ずいぶん偉そうな口をきくね」
 その声は冷徹で、一つの石に姿を変えた二人の魂は震え上がり、そこに彫られた姿以上に互いを抱き合った。
 玉髄は、道祖神を黙らせると、ゆっくりと那魅の目を見つめた。そして深くのぞき込んだ。
「那魅ちゃん。この二人が、何を考えて君と兄さんをここで雨宿りさせているか、教えてあげるよ。
 この二人はね、君と兄さんのことを、石の像に変えようとしていたんだ。思い出に縋って、ただただ、抱き合うだけの、石の像にね。
 親切なふりして、ひどい奴らだよ。そんな姑息な奴らの言うことと、この僕が言うことと、どちらが君たちのためになると思う? そんなこと、決まりきってるよね?」
 玉髄はニコリとした。
 その途端、那魅の目はまたかすんでしまった。意識が呑まれていく。
 それを見て、道祖神はたまらず叫んでいた。
「玉髄は人を誑かした獣の子!」
「穢らわしい獣の子!」
 その声を聞いた途端、玉髄は目を剥き、ふたりを睨みつけた。そして漆黒の瞳の奥に、夜空の闇を作るような、暗い紫色の光を揺らめかせた。
 その直後。
 バァン!と耳をつんざく音と共に閃光が辺りを真白く塗り込めた。


 玖遠は、肌を打つような激しい音にも、穏やかに揺り起こされたように、ゆっくりと瞼を上げた。深い眠りから浮き上がる中で、耳では、あたりの山にゴオンゴオンと木霊する、たった一撃の雷鳴を聞いていた。
 瞼を上げた目は、雨で煙る景色を映した。そして、道の真ん中に落ちて転がるこうもり傘を見た。
 誰か来ていたのだろうか。
 怪訝に思って、道祖神の頭越しに那魅を見た。
 すると那魅は、スマホを誰もいない空間へ向けて、時が止まったような目をしていた。
「那魅? どうしたんだい?」
 雨の音が戻ってきたところで声を掛けると、那魅はゆっくりと力が抜けたようにスマホを下ろし、玖遠のことを見もせずに屋根の下を這い出ると立ち上がった。そして、この場から逃げ出すように、雨の中、フードを被ることもせずに早足で歩き始めた。
「……那魅? 那魅!」
 その態度には混乱が感じられた。いつもと様子が違って見え、玖遠は慌てて立ち上がった。その途端、凝り固まっていた節々が軋んだが、玖遠は雨宿りを誘ってくれた道祖神に頭を下げるのを忘れなかった。けれど、返事は待たずに駆け出した。
 道祖神は、玖遠と那魅を見送っているようだった。
 玖遠は那魅に道の先で追いつき、何かを言いながら頭にフードを被せた。那魅は立ち止まることもなく歩き続けて行く。

 ふたりの姿が、サアサアと降る雨の向こうに一対の影となったとき、道祖神の祠でビシッ!と鋭い音が立った。そして、ひとつの石で抱き合っていたふたりの間に、黒い割れ目が走っていた。
 石は、そのまま縦に割れ、ふたりの姿は二つに分かれて倒れ、屋根の下から水たまりの道へと転がった。そしてもう、声のひとつもなく、ただ転がって、雨に打たれはじめた。そんなふたりの後ろでは、鬼胡桃の木が、雷撃に裂けて白い煙に燻っていた。


  了
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み