「STYLE HB」宴の後
文字数 3,569文字
深大寺という土地の片隅に、一軒の、暖簾も出していない看板もない、知る人ぞ知る定食屋がある。
空はその定食屋の二階に部屋を借りて住んでいた。
元々はちゃんとした店構えを持ってやっていたらしい。しかし数年前に主人が店のお客と口論にな
り、刺されて他界してしまった。残された若い妻は一人娘を育てようと必死になって働いてみたもの
の、世間の噂が後をたたず、改装して常連の親しい人だけを相手にと商売方針を変えて、生活に足り
ない分を下宿屋として身を立てている。
下宿に住んでいるのは、空以外には皆大学生だった。年の頃はほとんど変わらない。
男は空を入れて二人、あと女が三人住んでいる。
春香姐さん。そう空は大家さんを呼んでいた。
他の下宿人は素直に大家さんと呼び、皆暇があれば店を手伝ったりもしていた。
いつもながら遅い時間に帰ってきた空は、手に一本のビデオテープと、下宿のみんなへ差し入れるお菓子の詰まった袋を持って、裏の勝手口から店の方へと入っていった。
店内は客がひけていて、春香姐さんと下宿の女の子が二人だけでカウンターを片付けている。
春香姐さんが忙しそうに手を動かしながらそう言うと、もう一人の学生も頭を下げて笑顔を向ける。
空が手にしたビデオをカウンターに置くと、片付けを終えたのか学生さんが気を利かせてビールを取り出してカウンターへとおいた。
しかしグラスは二つしかなかった。
へへ、私明日一現から講義があるので今日は付き合えません
そっか。
じゃあこれ、上に持っていって明日にでもみんなで食べてよ。
空はそう言って学生さんに、お菓子の入った袋を差し出した。
はい、みっちゃん。今日は最後までありがとうね。
ちゃんと下宿代から引いとくからね。
あら、そう言えばけっこう割ってたわね。どうしようかしら・・・
本気とも冗談ともとれるような口調で春香姐さんが言う。
じ、じゃあ、帳消しってことで。
おやすみなさ~い!!!
学生さんは素直な笑顔でそう答え、カウンターから出てトントントンと階段を上がっていった。
その音を聞きながら春香姐さんはこうつぶやいた。
ほんと、良い子。
うちにいるみんなみたいな人ばかりの世の中だったら気楽に生きていけるのにね...
あら、空君もそれなりに良い子よ。
でも、生きていくんなら夢とか霞みたいなもの追いかけてないで、ちゃんと足元を固めないとね。
口ばっかりだからね、空君は。
ま、今が楽しいんだろうからそれもありかな。
春香姐さんの言葉を聞いているのかいないのか……
空は店にある 古いテレビデオ に、持って帰ってきた VHSのビデオテープ をセットし始めた。
空がビデオの再生ボタンを押すと暫くして、20インチのテレビ画面にタイトルが流れる。
「Style HB」と描かれたタイトルに、春香姐さんは頭から意見を言った。
うーん、ハードボイルドと鉛筆のHBを掛けてみた。
大地の原案がそんな感じの主人公だったから。
そして画面には一ヶ月かけて作り上げた30分ほどの映像が流れてゆく。
空も春香姐さんもじっと作品を見ていた。
ビールはそろそろ温かくなりはじめ、グラスはカラのまま……
最後のシーンが終わる頃、画面にスタッフロールとキャストが申し訳なさそうにパッと映って消えた瞬間、春香姐さんがまた一言いう。
大地のこだわりで、本当に興味を持った人ならビデオ止めて見るからって。
言いながら春香姐さんは温まってしまったビールを手にカウンターの奥へと向かい、そうして代わりに冷えたビールを持って戻ってくる。
グラスに注がれてゆくビールの泡を見ながら、空はニコニコと笑顔。
そしていよいよという顔つきで春香姐さんを見ながら、作品の感想を聞きはじめた。
春香姐さんが自分のグラスにビールを注ぐのを待ちながら、空は自分のグラスを手に次の言葉を待つ。
あと倉庫を走っていく二人、緊張感のある場面だったわ。
あれどうやって撮ったの?
確かにハードボイルドとは言い切れなかったわね、あの男。
演技してたのは空くんでしょうけど、そうじゃなくて映画の中の話。
あと、最後のシーンがよくわからなかったんだけど、二人はあの後どうなったの?
見終わってね、なんか結局この先どうなるのかしらってイメージがわいて来ないのよ。
どうせなら私は、見終わった後も登場人物のその後をあれこれ考えて、幸せな気分になれる映画が好きね。
海も本読みした時にそんなこと言ってたな・・・。
これ男が自分勝手すぎて、私だったらとっととこんな男見限るとかって。
物思いにふけりはじめた空の様子に気がつき、春香姐さんはそっとビールを継ぎ足す。
今日出来上った作品をもらいに行った後で、三人でちょっと飲んできたんだ。
なんだ、ここへ来ればよかったのに。そうしたらあの子とも会えたでしょう。
無茶言わないでよ春香姐さん。大地が来たら店の酒全部飲まれちゃうよ。
タンマタンマ。
次回作撮りはじめるのは秋頃だって言ってたから、その間にまともに働いてちゃんとツケは払います。
その言葉を受けて春香姐さんはカウンターの下から一枚の紙を取り出し、筆ペンをどこからか取り出すと何かを書き始めた。
空君がちゃんと生きてゆけるように、おまじないの文書。
・・・はい。
私、三船 空は現在までお借りしている・・・ってこれ、念書?
ふいぃ・・・。
でも、春香姐さんの言うことだから素直に聞くか。
そう言いながら空はその紙に自分の名前を書き、小指の先を爪楊枝で刺して血を出すと、その血を親指につけて拇印を押した。
春香姐さんはお手拭のきれいなものを持ってくると、更に一旦浄水器の蛇口で洗い、空の手を取って血が出ている小指を拭く。
まったく、どんな育ちをしてきたんだか。
うちの子供の前ではそういうことしないでよ。
朱肉ぐらい探せばあります。
面倒くさがってるのかカッコつけてるのか知らないけれど、親からもらった体を自分で傷つけるなんて駄目です。
でもさ、春香姐さん。俺たぶんだけど、大地や海と三人で一緒になって夢追っかけるのが好きなんだ。
そん中で必要があれば、ちょっとぐらい傷ついても良いって思ってるよ。
そういうのは、はた迷惑になるのよ。
特にそれだけ大好きな友達ができたのなら、あなたが傷つけばその友達も傷つくわよ。
まったく、我が家で一番年上なのに、考える事は一番子供なんだから。
春香姐さんは空のグラスに残ったビールをついで言う。
でも、その覚悟は良し。
実際に無理しすぎないこと。
怪我なんかしたらみんなと一緒に過ごせなくなるかもしれないわよ。
そう言いながら壁を見る春香姐さんの視線を、空も追う。
そこには笑顔の男性が写った写真が飾られていた。
写真を眺めながら飲むビールの味をしっかりと記憶し、空は自分がこれから先何を求めてゆくのだろうかと考えていた。
脚本と役者、どちらも好きな作業ではある。
けれど何か今ひとつ、燃えるような思いが足りないなと、酔った頭で考えている。
(頑固に突き進む大地と、勝ち気だけど人情の通じる海……)
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