第4話
文字数 3,120文字
僕が東京に戻ることになったのは、祖母の死から一週間後だった。会社の夏期休暇は大幅にオーバーしてしまったが、続けて忌引き休暇扱いにしてもらえた。
親戚中に連絡をし、葬儀屋を手配して、通夜と告別式の日取りを決め――本当に目まぐるしい一週間だった。
喪主は長女である母が務め、葬儀を取り仕切った。葬儀屋との打ち合わせから弔問客のもてなし、手伝いに来てくれた近所の人たちへのお礼まで、身内の死の悲しみを感じる余裕がないほど多忙だったが、母は気丈にやるべきことをこなしていた。父の葬儀の時にはほとんど役立たずだった僕も、今回はずいぶん母を手助けできたと思う。
出棺の直前に、祖母のお気に入りのスカーフを棺に納めていた母の姿が、とても印象に残った。その小花柄の古いスカーフは、母が初めての給料で祖母にプレゼントしたものだったという。
重いスポーツバッグを肩にかけて玄関を出ると、朝の外気はすでに蒸し暑かった。八月も下旬だと言うのに、まだ酷暑は収まりそうにない。エアコンのない生活に馴染んだせいか、初日ほど汗は掻かないようになっていた。
すぐに嫌な臭いが鼻を突いた。
低く茂った南天 の木の向こうに母の姿があり、異臭はその方向から漂ってくる。何かを燃やしているらしい。
「もう帰るの?亮輔 」
母は僕に気づいて寂しそうに笑った。彼女の前には、昔落ち葉などを焼くのに使っていた古いドラム缶があって、そこから黒煙が立ち上っていた。焦げ臭さよりも灯油の臭いが強烈だった。
「駅まで送ろうか?」
「いや、大丈夫、歩いて行くよ」
僕は錆びたドラム缶を眺めて答えた。灯油をかけられ中で燃やされているものについては、あえて触れなかった。
母は軍手をはめた手で額を拭う。もともと細かった彼女はさらに痩せたように見えたが、顔色はよかった。葬儀の一切を取り仕切って肩の荷が下りたのかもしれない。
介護の必要な気難しい祖母はいなくなり、広いこの家には母だけが残った。厚かましい叔母とも今後は疎遠になっていくのだろう。
この家に生まれて初めて、母は自由な暮らしができるのだ。
「母さん、相続の手続きが落ち着いたら、東京に来る? 一人じゃ心細いだろ?」
返事は分かりきっていたが、僕はいちおう訊いてみた。案の定、母は首を振った。
「いやあね、まだそんなに耄碌 してないわよ。今さら住み慣れた土地を離れたくないし……またパートにでも出て気楽に暮らすから、心配しなくていいの」
強がりでも何でもなく、本心から出た台詞のようだった。疲れを滲ませてはいても、表情が晴れ晴れとしている。
僕たちはしばらく沈黙した。
アブラゼミに混じってツクツクボウシの声も聞こえるようになった。夏も終わりに近づいているのだ。
「母さん」
僕は腕時計に目をやった。そろそろ駅に向かわなければ、本数の少ない電車に乗り遅れてしまう。
「納戸の冷凍庫の中を見たよ」
「……そう」
「子供の頃に聞いた昔話を思い出した。母さんは……信じてたの?」
「昔……うまくいった例 があったから」
母は手にした火バサミでドラム缶の中を掻き回した。ぱあっと火の粉が上がる。異臭の混じった熱気を感じつつ、僕の背中はなぜか冷たくなった。
「おばあちゃんにとって大切なのは宏隆 だけだったの。弟さえいなくなれば私も……愛してもらえるんじゃないかと思ったこともあったけれど、そういう問題でもないのね」
跡取りとなる長男だけを偏愛した祖母。そんな祖母に従順に尽くしてきた母。しかし祖母の眼中に母はなく、彼女が必要としていたのは死んだ長男の代わりに家を継いでくれる娘婿であり、孫であった。
うまくいった例、と母は言った。
男が早死にする家系だと思っていた――父の死はそう ではないと信じたかったが、確かめることはできなかった。
母は言葉を失う僕を見て、にっこりと笑った。その面差しは僕を宏隆と呼んだ祖母にひどく似ていた。
「私、おばあちゃんが大嫌いだったのよ」
「……もう行くよ。元気で」
僕は短く挨拶して逃げるように踵を返した。母は肯いただけで火の傍を離れなかった。
飛び石の上を渡って門を出ると、後ろから僕を追い越していくものがあった。足元を擦り抜けて駆けてゆくそれは、茶色い犬の後ろ姿だった。先端だけが白い脚を元気に動かして、一目散に外へ飛び出していく。
犬は、陽炎の立つ田舎道の向こうへ消えていった。
イヌガミという古い呪術がある。
飢えさせた犬の首を切り落として殺し、頭部を土に埋める。その上を多くの人間が往来することによって、埋められた犬の首は妖 へと変わるという。愛情を注いだ犬であればあるほど強い力を持ち、術者はそれを手足のように使役する。
幼児の頃「怖い話をして」とせがんだ僕は、母からその話を聞かされた覚えがある。その夜は牙を剥いた黒い犬に襲われる夢を見てうなされた。
とはいえ、その記憶が蘇ったのはつい先日のことだ。僕はそんな気味の悪い昔話はすっかり忘れていた――祖母を襲う首なしの獣を目撃するまでは。
祖母が死んだ朝、僕は、冷凍庫の奥で犬の頭部を見つけた。念入りに新聞紙で包まれ、三重のポリ袋に入れられたそれは、ずいぶん腐敗の進んだ状態で白く凍っていた。一部骨が見えるほど損傷していたが、ハヤトの頭だということは一目で分かった。
あの黒い獣は、ハヤトだった。可愛がってきたハヤトの成れの果ての姿だった。
憐れなあいつは、自分の頭を探して家の中をうろついていたのだろう。そして、頭を隠し持った術者の命令に囚われたのだ。
その術者は、十二年もかけて使役するイヌガミを育てた。たったひとり、憎い相手の息の根を止めるために。毎日穏やかに微笑んで愚痴ひとつ零さず、自らの務めをこなしながら――忌まわしい呪術の方法よりも、その静かに煮え滾る執念に僕は戦慄する。
大願を成就した術者は、これからもあの旧い家で暮らしてゆくのだろう。残りの人生をごくごく平穏に、平凡に。
家の中に満ちていた不穏な気配の正体を、僕はようやく理解した。あれは祖母の狂気ではなく、何十年もに渡って堆積した憎悪だったのだ。
東京でもまだまだ酷暑が続いていた。
アパートへ帰ると、紗央里 の姿が消えていた。
携帯に連絡しても一向に出ないので嫌な予感はしていたのだが、あまりにも想像通りの展開で、僕はかえって可笑しくなってしまった。窓が閉め切られた2Kのアパートには、淀んだ空気が籠っている。
家具や電化製品は残っていて、使っていた食器や小物類もすべてそのままだった。ただ紗央里の衣服やアクセサリーや化粧品、それにお気に入りのクッションだけがスーツケースと一緒になくなっている。
僕との生活をすべて置き去りにして、新しい相手の元へ去ってしまったのがよく分かった。
僕は力が抜けて、荷物を放り出すとフローリングの床に座り込んだ。
同棲していただけで、何か将来の約束をしていたわけではない。でも僕は紗央里のことが大好きで、いつまでも一緒にいたいと願っていた。だから、気の多い彼女が他の男と会っているのを知っていても、気づかない振りをしていた。彼女を責めれば、本当に彼女を失ってしまうと思った。
けれど駄目だった。どんなに僕が愛しても、許しても、結局彼女は去ってしまったのだ。
ブーン……と低い唸りが聞こえる。
キッチンの隅の小さな冷蔵庫が唸ったのか、それとも自分が唸ったのか、僕には分からない。ただ自分の身体の一部が小さく破れ、そこから何か黒いものがドロドロと流れ出すのを感じた。
堆積してゆく――この部屋にもそれ が堆積してゆく。
母にできて僕にできないことがあるだろうか。
僕も犬を飼おうと思う。
―了―
親戚中に連絡をし、葬儀屋を手配して、通夜と告別式の日取りを決め――本当に目まぐるしい一週間だった。
喪主は長女である母が務め、葬儀を取り仕切った。葬儀屋との打ち合わせから弔問客のもてなし、手伝いに来てくれた近所の人たちへのお礼まで、身内の死の悲しみを感じる余裕がないほど多忙だったが、母は気丈にやるべきことをこなしていた。父の葬儀の時にはほとんど役立たずだった僕も、今回はずいぶん母を手助けできたと思う。
出棺の直前に、祖母のお気に入りのスカーフを棺に納めていた母の姿が、とても印象に残った。その小花柄の古いスカーフは、母が初めての給料で祖母にプレゼントしたものだったという。
重いスポーツバッグを肩にかけて玄関を出ると、朝の外気はすでに蒸し暑かった。八月も下旬だと言うのに、まだ酷暑は収まりそうにない。エアコンのない生活に馴染んだせいか、初日ほど汗は掻かないようになっていた。
すぐに嫌な臭いが鼻を突いた。
低く茂った
「もう帰るの?
母は僕に気づいて寂しそうに笑った。彼女の前には、昔落ち葉などを焼くのに使っていた古いドラム缶があって、そこから黒煙が立ち上っていた。焦げ臭さよりも灯油の臭いが強烈だった。
「駅まで送ろうか?」
「いや、大丈夫、歩いて行くよ」
僕は錆びたドラム缶を眺めて答えた。灯油をかけられ中で燃やされているものについては、あえて触れなかった。
母は軍手をはめた手で額を拭う。もともと細かった彼女はさらに痩せたように見えたが、顔色はよかった。葬儀の一切を取り仕切って肩の荷が下りたのかもしれない。
介護の必要な気難しい祖母はいなくなり、広いこの家には母だけが残った。厚かましい叔母とも今後は疎遠になっていくのだろう。
この家に生まれて初めて、母は自由な暮らしができるのだ。
「母さん、相続の手続きが落ち着いたら、東京に来る? 一人じゃ心細いだろ?」
返事は分かりきっていたが、僕はいちおう訊いてみた。案の定、母は首を振った。
「いやあね、まだそんなに
強がりでも何でもなく、本心から出た台詞のようだった。疲れを滲ませてはいても、表情が晴れ晴れとしている。
僕たちはしばらく沈黙した。
アブラゼミに混じってツクツクボウシの声も聞こえるようになった。夏も終わりに近づいているのだ。
「母さん」
僕は腕時計に目をやった。そろそろ駅に向かわなければ、本数の少ない電車に乗り遅れてしまう。
「納戸の冷凍庫の中を見たよ」
「……そう」
「子供の頃に聞いた昔話を思い出した。母さんは……信じてたの?」
「昔……うまくいった
母は手にした火バサミでドラム缶の中を掻き回した。ぱあっと火の粉が上がる。異臭の混じった熱気を感じつつ、僕の背中はなぜか冷たくなった。
「おばあちゃんにとって大切なのは
跡取りとなる長男だけを偏愛した祖母。そんな祖母に従順に尽くしてきた母。しかし祖母の眼中に母はなく、彼女が必要としていたのは死んだ長男の代わりに家を継いでくれる娘婿であり、孫であった。
うまくいった例、と母は言った。
男が早死にする家系だと思っていた――父の死は
母は言葉を失う僕を見て、にっこりと笑った。その面差しは僕を宏隆と呼んだ祖母にひどく似ていた。
「私、おばあちゃんが大嫌いだったのよ」
「……もう行くよ。元気で」
僕は短く挨拶して逃げるように踵を返した。母は肯いただけで火の傍を離れなかった。
飛び石の上を渡って門を出ると、後ろから僕を追い越していくものがあった。足元を擦り抜けて駆けてゆくそれは、茶色い犬の後ろ姿だった。先端だけが白い脚を元気に動かして、一目散に外へ飛び出していく。
犬は、陽炎の立つ田舎道の向こうへ消えていった。
イヌガミという古い呪術がある。
飢えさせた犬の首を切り落として殺し、頭部を土に埋める。その上を多くの人間が往来することによって、埋められた犬の首は
幼児の頃「怖い話をして」とせがんだ僕は、母からその話を聞かされた覚えがある。その夜は牙を剥いた黒い犬に襲われる夢を見てうなされた。
とはいえ、その記憶が蘇ったのはつい先日のことだ。僕はそんな気味の悪い昔話はすっかり忘れていた――祖母を襲う首なしの獣を目撃するまでは。
祖母が死んだ朝、僕は、冷凍庫の奥で犬の頭部を見つけた。念入りに新聞紙で包まれ、三重のポリ袋に入れられたそれは、ずいぶん腐敗の進んだ状態で白く凍っていた。一部骨が見えるほど損傷していたが、ハヤトの頭だということは一目で分かった。
あの黒い獣は、ハヤトだった。可愛がってきたハヤトの成れの果ての姿だった。
憐れなあいつは、自分の頭を探して家の中をうろついていたのだろう。そして、頭を隠し持った術者の命令に囚われたのだ。
その術者は、十二年もかけて使役するイヌガミを育てた。たったひとり、憎い相手の息の根を止めるために。毎日穏やかに微笑んで愚痴ひとつ零さず、自らの務めをこなしながら――忌まわしい呪術の方法よりも、その静かに煮え滾る執念に僕は戦慄する。
大願を成就した術者は、これからもあの旧い家で暮らしてゆくのだろう。残りの人生をごくごく平穏に、平凡に。
家の中に満ちていた不穏な気配の正体を、僕はようやく理解した。あれは祖母の狂気ではなく、何十年もに渡って堆積した憎悪だったのだ。
東京でもまだまだ酷暑が続いていた。
アパートへ帰ると、
携帯に連絡しても一向に出ないので嫌な予感はしていたのだが、あまりにも想像通りの展開で、僕はかえって可笑しくなってしまった。窓が閉め切られた2Kのアパートには、淀んだ空気が籠っている。
家具や電化製品は残っていて、使っていた食器や小物類もすべてそのままだった。ただ紗央里の衣服やアクセサリーや化粧品、それにお気に入りのクッションだけがスーツケースと一緒になくなっている。
僕との生活をすべて置き去りにして、新しい相手の元へ去ってしまったのがよく分かった。
僕は力が抜けて、荷物を放り出すとフローリングの床に座り込んだ。
同棲していただけで、何か将来の約束をしていたわけではない。でも僕は紗央里のことが大好きで、いつまでも一緒にいたいと願っていた。だから、気の多い彼女が他の男と会っているのを知っていても、気づかない振りをしていた。彼女を責めれば、本当に彼女を失ってしまうと思った。
けれど駄目だった。どんなに僕が愛しても、許しても、結局彼女は去ってしまったのだ。
ブーン……と低い唸りが聞こえる。
キッチンの隅の小さな冷蔵庫が唸ったのか、それとも自分が唸ったのか、僕には分からない。ただ自分の身体の一部が小さく破れ、そこから何か黒いものがドロドロと流れ出すのを感じた。
堆積してゆく――この部屋にも
母にできて僕にできないことがあるだろうか。
僕も犬を飼おうと思う。
―了―