第1話

文字数 3,992文字

 ハヤトが死んだと知ったのは、帰省したその日だった。
 ハヤトはいつも、僕が敷地に足を踏み入れるや否やすぐに飛び出してくるはずだった。なのに今日はその無邪気な歓迎がない。
 駅から二十分歩いて汗だくになった僕は、庭の植栽に水を撒く母にハヤト不在の理由を尋ね、そして死を告げられた。

「ええっ、どうして教えてくれなかったんだよ!?」

 思わず非難の声を上げると、母はホースを巻き上げながら悲しそうな表情を見せた。水分を吸った地面がますます湿度を上げて、むせ返るほどの暑さだ。

「ごめんね。亮輔(りょうすけ)には言い辛くて……」
「いつ? いつ死んだの?」
「一週間前かしら。急に元気がなくなって……暑かったからねえ」

 僕はあまりに驚いて、重いスポーツバッグを肩にかけたまま立ち尽くした。玄関脇のハヤトの定位置には、空の犬小屋と鎖が残されていた。殺人的に明るい真夏の日差しの中で、色褪せた赤い屋根が寂しい。

 ハヤトは十二年間飼っていた犬である。柴の混じった雄の雑種で、頭のいい奴だった。庭に繋いで飼ういわゆる『番犬』だったが、愛嬌があって、僕にとっては中学生の頃から一緒に暮らしてきた弟分だ。
 会えるのを楽しみにしていたのに、僕はがっくりと項垂れた。犬の十二歳は人間なら還暦を過ぎているという。老犬には間違いなく、動きは多少緩慢になっていたが、正月に帰省した時は元気いっぱいだった。

「さ、お父さんに挨拶して、それからおばあちゃんの顔を見てらっしゃい」

 母に促されるまま、僕は玄関の高い(かまち)を上がって、とりあえず荷物を廊下に置いた。




 玄関から続く長い廊下はぼんやりと暗く、床にはさらに濃い闇が落ちている。外界から届く滝の音のような蝉しぐれが、耳の奥に遠く響いた。
 外の眩しさに慣れた目が、薄暗い室内に順応するまで時間がかかった。それでなくても古めかしい造りの日本家屋は奥まで光が届かず、常に薄闇を内包しているのだ。かつては当たり前の環境であったのに、八年も都会のアパート暮らしを続けた今ではそれが珍しく感じられた。
 古い家屋独特の、不思議な臭い――黴臭いのではない、古い建具に染みついた時間の臭いだ。これも外で生活するようになったからこそ気づく感覚かもしれない。
 懐かしいはずの空気は、なぜか重苦しいものに思えた。

 板張りの床を軋ませながら、僕は座敷へ向かった。家の南側には六畳の和室を田の字に四つ繋げた座敷がある。普段は襖で仕切られていて、人が大勢集まる際にはそれを取り払って大部屋にできる造りだ。
 今は(ふすま)がすべて開け放たれていて、縁側から真夏の日光と暑い風が入ってきていた。僕はいちばん奥の仏間へ進み、仏壇の前に正座した。盆が近いからか、黒塗りの祭壇には果物や菓子類が豪華に備えられ、普段はしまっている遺影も脇に飾られていた。

「父さん、ただいま」

 僕はそう声をかけて、線香に火をつけ、(りん)を叩いた。色褪せた写真の中では、十二年前に交通事故で他界した父親が穏やかに笑っていた。
 仏壇の前にはあと二枚、別の遺影が飾られている。どちらもモノクロの古い写真で、一人は五十歳くらいの中年男性、もう一人はまだ若い青年だった。僕の祖父と、早逝した叔父である。
 男が早死にする家系なのだと思う。長男と当主を相次いで失い、長女である僕の母が婿養子を取って家を継いだが、その夫も四十代で亡くなってしまった。息子の僕が高校卒業と同時に出て行ってしまって、今やこの広い家には母と祖母の二人きりである。

 蝋燭の炎を消していると、ふと、小さな音が耳朶を打った。
 パタパタパタ……と、軽やかな足音だった。畳の上を渡ってゆくそれは、人間が立てるものではない。
 首筋の皮膚が引き攣る感覚がする。見てはいけない気がしたが、僕は好奇心に抗い切れずに背後を振り返った。

 日に焼けた畳の上を、四本の小さな脚が歩いている。短い茶色の毛に覆われたそれらは犬の脚だ。先端だけが足袋を履いたように白い。僕はその特徴に見覚えがあった。

「ハヤト……」

 僕が呟くと、その脚は立ち止まった。そしてこちらに向かってまっしぐらに駆け寄ってきて――途中でふっと消えてしまった。
 それがハヤトなのかどうか分からずじまいだった。なぜなら、僕に見えたのは脚だけで、胴体から上は黒い(もや)に包まれていたからである。

 暑さのあまりの幻覚というには、それはあまりにリアルだった。これまで幽霊やオバケを見た経験がないからこそなのか、動物の存在感をはっきりと感じた。
 不思議と怖くはなかった。いつものようにハヤトが出迎えてくれたんだと思うと、少し嬉しくさえあった。




 父に挨拶を終えてから、僕は祖母に顔を見せに言った。

「ばあちゃん、帰ったよ」

 そう声をかけると、介護ベッドに横たわった祖母はゆっくりとこちらに顔を向けた。
 もともと祖母が布団で寝起きしていた和室だったが、介護が必要になってベッドを入れた。レースのカーテンを通して入ってくる日差しは明るく、エアコンのおかげで廊下の暑さが嘘のように涼しい。

「ああ、おかえり……また大きくなって」

 ぼんやりしていた祖母の視線に、僕を捕らえた途端、生気が満ちた。
 少しばかり妙な挨拶に戸惑いつつも、僕は部屋に入った。ここはまた別の臭いがする。どんなに光を入れ換気をしても消せない、老人の臭いだ。綺麗好きな母がこまめに掃除をしているのは分かっていたが、どことなく空気が淀んでいる気がする。壁際に置かれたポータブルトイレから、僕は無意識に目を逸らした。

 祖母が脳梗塞で倒れたのは昨年の今頃だ。幸い命に別状はなかったが、一ヶ月ほど入院しているうちにすっかり足腰が弱ってしまい、ほぼ寝たきりになってしまった。
 以降、母は勤めていた信用金庫を退職して、祖母の介護をしながら暮らしている。ヘルパーを頼んでいるし、車で一時間ほどの距離に住む裕子(ゆうこ)叔母さんもたまに様子を見に来ているらしいが、基本的には母が主力になって祖母の世話をしている状況だった。

 リクライニングの背凭れに凭れた祖母は、にこにこしながら僕を眺めた。正月に会った時から比べて特段老け込んだ印象はなく、むしろ肌艶がよくて健康そうに見えた。ガーゼのパジャマは清潔で、白髪混じりの頭髪はきちんと短く整えられいる。

「元気そうじゃん、安心したよ」
「あんたは少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるの?」
「食べてるよ。自炊してる」
「まあ、料理ができるようになったのねえ。東京の生活は楽しいと思うけど、卒業したら帰ってきて母さんを安心させてちょうだいよ、宏隆(ひろたか)、大事な跡取りなんだから」

 僕は返事に詰まった。八ヶ月ぶりの再会を喜ぶ祖母の笑顔が幸せそうで――辛くなった。
 十八歳で上京した僕はもう二十六歳になっていて、とっくに社会人である。しかも『宏隆』は死んだ叔父の名前だった。

「僕は亮輔だよ、ばあちゃん。りょ、う、す、け!」

 少し大きな声で訂正したら、祖母はきょとんとした。

「あら、そうだったかしらねえ。じゃあ宏隆はまだ帰らないの?」
「宏隆叔父さんは、僕が生まれるずっと前に死んだだろ?」

 祖母はその言葉の意味を理解できないようで、怪訝な顔で僕を見詰める。どうしたものかと当惑する僕の前で、彼女はポンと手を打った。

「そうだ、あんたが帰ったら渡そうと思ってね。少しだけどお小遣い」
「いや、ばあちゃん……」
「ええと……」

 身を捩って、ベッド脇に置かれた机の抽斗(ひきだし)を開ける。中をごそごそと探って、

「嫌だ、ここに入れておいた封筒がない」

 と眉をひそめた。

「ない……ないわ! だ、誰かに盗られたのかも!?」

 祖母は皺深い顔をみるみる険しくして、乱暴に抽斗を引き抜いた。中に入っていた老眼鏡や薬袋が床に転がり落ちた。

「泥棒よ! 宏隆、警察を呼んで!」

 腕を掴まれると、老人とは思えないほど力が強くて、痛みを感じるほどだった。黄ばんだ白目に血管を浮かせて睨みつけられ、僕は困惑よりも恐怖を感じた。明らかに正気ではない、異様な顔つきである。

 その時、部屋の引き戸が開いて母が姿を現した。水の入ったコップを盆に乗せている。

「お薬の時間よ、お母さん……どうかしたの?」
「お金が……この子にあげようと思ってたお金がなくなったのよ。ここに入れといたのに!」
「まあ、本当に?」

 母は盆を机に置いて、床に散らばった薬の袋を拾い集めた。僕に向かって苦笑を見せる。いつものことなのだろう。

「後で私も一緒に探すから、今はほら、お薬を飲んで」
玲子(れいこ)! あんたが盗ったのね!」

 祖母はいきなり母に向かって喚いた。世話をしている実母から狂気じみた眼差しを向けられ、母は静かに首を振った。

「いいえ、盗ってなんていないわ」
「嘘つき! この泥棒め!」

 金切り声とともに、机の上のコップが母にぶつけられた。一瞬の出来事で止める間もなかった。

「ばあちゃん、何てことするんだ……!」
「いつか本性を出すと思ってたわよ。あんたはいい子のふりをして、いつだって母さんを嫌ってたでしょう!? 出て行け! 宏隆がいれば、あんたみたいな娘いるもんか!」

 聞くに堪えない罵倒を浴びせられても、母は冷静だった。水で濡れてしまった顔と首をエプロンで拭って、コップを盆に戻す。慣れているふうな動揺のなさに、僕は唖然とした。

 いったい、いつから祖母はこんなふうになってしまったのだろう。

「お金は後で一緒に探そうね。お水を入れ直してくるわ。亮輔、あんたもこっちへ来なさい。冷蔵庫にアイスコーヒーがあるわよ」

 母は穏やかに言って立ち上がった。
 引き戸を開けると、廊下はやはり薄い闇に沈んでいた。部屋の中では祖母がまだ抽斗を探している。家に入って感じた重苦しい何かは、祖母の狂気だったのかもしれない。
 エアコンの冷気とともに窓からの日差しが廊下へ届いたが、明るすぎる光はかえって深い翳を刻みつけるだけだった。
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