第2話

文字数 4,974文字

 去年の年末頃から、祖母の様子はおかしかったという。
 最初は物忘れが頻繁になり、勘違いのようなことを口走る程度だったのが、徐々に悪化していった。食事をしたことを忘れて腹が減ったと文句を言い、知らない人が家に入ってきていると不安がり、家に帰らせてと泣き喚く。物がなくなったと訴えることも度々だった。しかもその度に母を疑い、鬼の形相で母を罵るのだ。

「ほとんど一日寝たきりだから、刺激が少なくて、認知症が進みやすいんだって」

 疲れを滲ませた母の呟きに、僕はアイスコーヒーのグラスをテーブルに置いた。かつては四人で囲んだこのテーブルで、今は母がひとりで食事を摂っているのだろう。台所の隅では扇風機が回っているが、暑い空気を掻き回しているだけでちっとも涼しくなかった。

「施設のデイサービスとか使えないの? 車椅子に乗せてさ」
「何度か試したけど、お母さん、ああいう性格だから馴染めないらしくって」
「昔から大勢と付き合うのが苦手なタイプだったよね」

 母と祖母、実の親子である二人の仲が必ずしも良好でないのは知っていた。
 祖母は古いタイプの女性で、跡取りとなるべき末っ子の宏隆(ひろたか)叔父さんを偏愛していたらしい。対照的に、母や裕子(ゆうこ)叔母さんに対しては冷淡で、とても厳しく躾けたのだという。
 もちろんこれは母や叔母の口からの伝聞だが、祖母の彼女らへの態度を見ているとさもありなんと納得できる。特に母に対しては厳しくて、血が繋がっているからこその残酷な物言いが多かった。

 母は色白で線が細くて、若い頃はたいそうな美人だった。勤めに出ていたからか身なりも小奇麗で、いかにも農家の女将さん然とした近所の主婦たちとは異なっており、子供心に甘酸っぱい優越感に浸ったものだった。そんな母だったからこそ、祖母は何かと厳しく接したのかもしれない。
 叔父が早逝して母が家に残ることになっても、祖母の母に対する態度は変わらなかった。父が生きていた頃までは農業を営んでいたので、平日は仕事をしながら家事の一切を受け持ち、休日は畑や田んぼに借り出される。農繁期に手伝いに集まってくる親戚一同へのもてなしも母の仕事だった。
 祖母は些細な不注意や作業の遅延をいちいち指摘していた。祖母にとってそれらは、完璧にこなせて当然の仕事だったのだろう。

玲子(れいこ)、あんたのためを思って言ってるんだからね」

 これが祖母の口癖であった。婿養子の父は無口で大人しい人で、母を庇ったり感謝の意を示したことはなかった。
 それでも母は、僕や父の前では愚痴ひとつ零さず、祖母の小言も笑顔でハイハイと受け流せる人だったので、家庭は表面上平穏を保っていたのだ。
 だから、父の死後、僕が東京の大学へ進学を決めた時に起こった衝突が、初めての揉め事らしい揉め事だった。おまえは跡継ぎなんだから、と猛反対する祖母を押し切って、僕を上京させてくれたのは母だった。

「母さんは、ばあちゃんと喧嘩してまで僕の上京を応援してくれただろ。あれは、僕をこの家に縛りつけたくなかったから?」

 コーヒーを飲み干した後、ストローでグラスに残った氷をかき混ぜつつ、僕は言った。母は懐かしそうに笑う。切れ長の目尻に小皺が目立った。

「あんたはまだ若いんだから、一度外の世界を見て、それから決めればいいと思ったのよ」
「跡継ぎが戻って来なくなってもいいの?」
「無理して継がなきゃいけないほど立派な家じゃないわ。お父さんが死んで畑もやめてしまったし……亮輔(りょうすけ)が必要ないと思うんなら、処分したっていいのよ」
「でも……母さんは生まれてからずっとここで暮らしてきたんだよな。言い方悪いけど、貧乏くじばかり引いてる気がする。ばあちゃんの介護だって、裕子叔母さんがもっと面倒見るべきだよ。あっちだって実の娘なんだから」
「結婚して家を出た人に無理は言えないでしょ。裕子が時々来てくれるおかげで助かってるのよ」
「どうせ二人して母さんの悪口言ってるだけだろ? いっそのこと施設に入れちゃえばいいんだ」
「亮輔」

 母は優しく僕を睨んだ。小さな子供を(たしな)めるような表情だ。
 分かっている。実家を出て、盆と正月にしか帰って来ない息子が偉そうに言えた義理ではない。直接手助けできないのなら、無責任な傍観者と同じである。
 台所に気まずい沈黙が下りて、僕はひたすら氷を掻き回した。飲んだ分だけ汗になって流れ落ちる。生まれ育った家に帰っていながら、僕はひどく居心地の悪さを感じた。

 その時、玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。

「こんにちはー。姉さん、いる?」

 鼓膜を刺すような高い声とともに、呼び鈴も鳴らさずに上がり込んできたのは(くだん)の裕子叔母さんだった。母の妹にあたる人で、父が生きていた頃からちょくちょく里帰りをしていた。今は、たまに祖母の顔を見に来ているらしい。

「暑いわねえ……あらま、亮輔くん、お久し振り」
「ご無沙汰してます、叔母さん」

 僕がぺこりと頭を下げると、叔母は艶々した丸顔に笑みを浮かべた。

「お盆にちゃんと帰省するなんて親孝行で羨ましいわ。うちの達矢(たつや)なんて忙しい忙しいって帰って来やしない。どう? そろそろこっちに戻って来る気になった?」
「いや、僕は仕事があるから……」
「駄目よ、一人っ子の跡継ぎなんだから。早くいい嫁さん見つけてさ。彼女くらいいるんでしょ? 今日は連れて来てないの?」

 無遠慮な質問攻めに遭って、僕は困ってしまった。慎ましやかな母の妹とは思えない(かしま)しさだ。口下手な父の性格を受け継いだ僕は、こういう時にうまい受け答えができない。

「そんな……まだそんなんじゃないよ……」
「あ、やっぱりお嫁さん候補がいるのね!」

 叔母はにんまりした。

「よかったわね姉さん、息子が同居してくれたら老後は安泰じゃない。実の母親に苛められた分、お嫁さんには優しくしなくちゃ駄目よ」

 実にあけすけに、悪気なく、叔母は冗談を口にする。ずいぶん際どい言い草で、僕はさすがに嫌な気分になったが、母は笑顔で受け流した。

「お母さん、今日はご機嫌斜めみたいよ。裕子の顔を見ればきっと落ち着くわ」
「はいはい、じゃあ愚痴でも聞いてあげますか。あ、これアイスクリームね」

 叔母はテーブルの上にスーパーの袋を置くと、台所を出て行った。
 決して悪人ではないのだが、がさつな人だ。頑固な母と無神経な妹の間で、母が若い頃から我慢を強いられてきたことは想像に難くない。僕も母に似て神経質なところがあるから、その気持ちは理解できた。しかし五十歳を過ぎた母は、嫌悪の色を示すこともなく、叔母に出すお茶の準備を始めた。

「裕子の言うこと真に受けないのよ。母さんのことは気にしなくていいんだから。でも、いい人がいるんだったら一度連れて来なさい」
「うん……これ冷凍庫にしまっとくよ」

 これ以上この話題に触れられたくなかった僕は、叔母の手土産のカップアイスを持って、台所の隣にある納戸に向かった。
 台所の冷蔵庫にももちろん冷凍室はついているが、納戸に専用の冷凍庫があるのだった。畑で取れた季節の野菜を保存したり、宅配で冷凍食品を纏め買いしたり、母はうまく活用しているようだ。

 廊下に出ると、祖母の部屋の方から大きな話し声が聞こえてきた。姉さんに泥棒する度胸なんてないわよ、遺産は狙ってるかもしれないけどね、などと叔母が笑っている。
 家に残った母には辛く当たるくせに、祖母は嫁いだ叔母とは妙に仲がいい。普段会えないからこその依怙贔屓かもしれなかった。それは分かるが、祖母を(なだ)めるためとはいえ他に言い方はないのか、と僕はうんざりした。母に会話が聞こえていないことを祈りつつ、納戸の引き戸を開けた。

 窓のない小部屋は薄暗く、壁面に棚が並んでいるせいで余計に狭苦しい。棚には乾物や調味料の買い置き、それに普段使わない食器類が保管されている。子供の頃、お仕置きの最終段階としてここに閉じ込められた覚えがあった。

「うわ」

 思わず声が出てしまった。
 入ってすぐに、またもや四本の脚が見えたのだ。
 先端だけが白い、茶色い脚――黒い陽炎のような胴体から生えたそれらは、納戸の床をうろうろと歩き回っている。短い爪が床板を擦る乾いた音がした。

「ハヤト……?」

 僕はその場にしゃがんで手を伸ばした。低い位置で目を細めると、黒い(もや)の中にうっすらと輪郭が見える気がした。小さいががっしりした胴体に、くるりと巻いた尻尾――やはりよく知った愛犬の姿に違いなかった。
 脚は僕の手の先に近づいて来て、臭いを確かめるように立ち止まった。息はかからなかったが、指先に確かに何かがいるのは分かった。

 ――ブーン、と、やにわに低い音が響き渡って、僕は飛び上がった。

 持っていた袋を取り落とし、カップアイスがゴロゴロと床に転がる。それに驚いたのか、脚はびくりと立ち竦み、そのまま消えてしまった。

 音の正体はすぐに分かった。モーター音だ。納戸のいちばん奥に鎮座した冷凍庫が唸ったのである。幅六十センチ、高さ八十センチほどの白い立方体。旧式のワンドアタイプだった。
 いきなりとはいえつまらないことでハヤトを驚かせてしまって、我ながら情けなかった。せっかく会いに来てくれたハヤトの姿を、せめてはっきりと見てみたかったのに。
 僕は溜息をつきながらアイスクリームを拾い集め、冷凍庫を開けた。

 心地よい冷気が顔に触れた。中にはフリーザーバッグやタッパーがぎっしりと詰まっている。几帳面な母らしいが、二人暮らしでこんなに冷凍商品を常備してどうするのだろうか。僕は苦笑しつつ、アイスを入れるスペースを探した。
 手前のタッパーをどけると、奥に大きなポリ袋が入っていた。中身は新聞紙に包まれていてよく分からない。これが邪魔をして、ますます容量がいっぱいになっているみたいだ。
 四角いタッパーを奥に詰めてこいつを手前に出せば……と、僕が腕を突っ込んだ時、

「どうかした?」

 またしても心臓が止まるかと思った。
 戸口に母が立っている。彼女は怪訝な表情でこちらを凝視していた。

「大きな音がしたわよ」
「手が滑ってアイスが落ちたんだ。この冷凍庫いっぱい詰まってんなあ」
「ちゃんと考えて詰めてるのよ。入らなければ台所の冷蔵庫にしまって、早めに食べればいいわ」

 母の言い方は柔らかかったが、きっぱりとした響きがあって僕は諦めた。主婦としては、冷凍庫の中身を勝手にいじられるのは不愉快なのだろう。
 僕は溶けかけたアイスを手に納戸を出た。
 唸り声に似たモーター音はまだ続いている。




 その後、叔母はしばらく台所で世間話をして帰って行った。
 話題は主にご主人――つまり僕の義理の叔父への不満と、昨年結婚した長男――つまり僕の従兄の嫁への愚痴だった。興味もないし聞いていて楽しい話ではなかったが、母を一人で聞き手にするのも申し訳なくて、僕は仕方なく相槌を打っていた。
 ここにいない人たちの悪口ならば我慢できるとしても、

「そういえば、お母さんがさっき『花柄のスカーフを玲子に盗られた』って怒ってたわよ。まさかほんとにそんなことしてないわよね?」

 などと母に尋ねた時は腹が立った。本気ではないことは顔を見れば分かったが、それにしてもあんまりな軽口だ。
 母はただ笑って、汚れたから洗濯してるだけよ、と答えていた。




 その夜、夢を見た。
 母がハヤトの頭を撫でている。脚だけのハヤトではなくて、生きていた頃のハヤトだ。柴の混じった茶色い中型犬で、ピンと立った耳が凛々しい。巻いた尻尾をふさふさと振って、母に甘えているようだった。
 場所は犬小屋のある玄関脇ではなく、なぜか納戸の冷凍庫の前だった。ブーンと不気味な音を立てる白い箱の前にしゃがんで、母はハヤトを撫でながら言葉をかけていた。

 母は右手に布のようなものを持っていた。ベージュ地に紺色の小花を散らした模様の、それはハンカチかスカーフに見えた。
 彼女は手にしたその布をハヤトの鼻先に差し出して、しきりと何かを話している。ハヤトはくんくんとその臭いを嗅いで、神妙に母の言葉を聞いているようだった。

 ブーン……と、モーター音がひときわ大きくなった。冷凍庫が小刻みに震えている。
 ハヤトがそちらに向いて警戒の唸り声を上げた。
 ブーン……低い音は、白い箱と死んだ犬と、どちらのものか分からなくなった。
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