第10話

文字数 9,413文字

 公演を見に来る獣たちが、当日に暴れる可能性はないと、二人は判断したが、その理由は二つある。
 一つは、その会場の安全面だ。
 篠原家の財閥と言っても過言ではない企業が、名は売れていないが才能はある者のために、毎月様々なコンサートやイベントを行っている施設で、小さいながらも数百人を収容できる会場は、この日も観客で埋まっていた。
 小さいとはいえ、人が密集する場は、それだけで余計に襲撃者を隠しやすく、攻撃を防げるか難しいものだが、その観客たちの一部に、その心配を軽く吹き飛ばす人物が混じっていたのだ。
「……そういえば、志桜里君、篠原家の会社に就職したんでしたね」
 正式な会社名は思い出せない。
 関係ないから聞いていない可能性の方が高いが、エンはその事実を思い出して観客たちを見ていた。
 石川志桜里が、演奏者に名を連ねているのを、会場に貼られているポスターで知った。
 言わずと知れた、誉の今の主だ。
 こちら側からすると、底の知れた誉の実力を恐れ、獣たちにはいるだけで抑止力になるらしい。
 だから、思わせておくだけ思わせておこうと、早々に決まった。
 もう一つは、ここに観客としてやってくる獣たちの、目的だった。
「……デート?」
「はい。所謂、ダブルデートです」
 答えたのは、石川家に仕える、酉の獣だった。
 ほっそりとした、同種の小柄な女を連れている。
「お友達の有志を見守る主の付き添いを言い訳に、楽しんで来いと。当主より言いつかりました」
 そう言ったのは、鬼塚家に仕える雉の獣で、目つきの鋭い同種の男を連れていた。
「この間は、うちの一族の者がお世話になったと聞いた。迷惑をかけて申し訳ない」
 雉の男に謝られ、事情を聞いた。
「ただ、命を狙って攻撃していたんじゃないんだ。それだけは、誤解しないで欲しい」
「それでは攻撃の意図が、分からなくなるんだが? 一体何故、あんな子供を?」
「それは……」
 言い淀んだ雉は、躊躇った後断りを入れた。
「まず、あくまでもわが一族が、狙っていた事であるし、もうその必要がないと納得してもらったから、一族が今後、あんたたちの手を煩わせることはないと、言っておく」
 前置きをした男は、一族が目論んでいた事を暴露した。
「早い話、勢力争いの戦力に、その子を加えようとしていたんだ」
 血縁に鳩が混ざってはいるが、限りなく薄い、人間の血の方が濃い混血。
 そういう者は探せばいる。
 だが、自分たちを凌駕する可能性を秘めた者は、意外に少ない。
「そういう、力を持つ者が味方に付けば、勢力的にも強くなれる。だから、今の内に取り込もうとしたんだ」
「つまり、命を狙ったんではなく、拉致が目的だったのか?」
「ただの拉致じゃない。洗脳込みの拉致だ。勿論、術としての洗脳ではないぞ。刷り込み、だ」
「……雉の方は刷り込み程度だったけど、他の種はもっと、耳を疑う目論みをしているらしいね」
 そちらの方が問題だと、酉の連れの女が呆れ声で付け足した。
 聞き流せない含みだ。
「……それはもしや、性加害も目論んでいたと?」
「過去形じゃない」
 酉が、探るような目を二人の人間に向けながら、付け加えた。
「恐らく今でも襲ってきている奴らは、それが目的だ。力づくで、身も心も支配する気で、連れ去ろうと襲っている」
「まだ、乳児の子を?」
「しかも、男児を?」
 晴れ渡る空の下で、どんよりとした空気を纏う二人の男を前に、人間の主を持つ獣二人は、目を交わす。
「……この調子だと、知らされてないね」
「ああ。という事は、オレたちは、足止めの意もある、のか?」
 溜息を吐く二人の連れ二人は、天を仰いで考える。
 主持ちではないが、連れが番となる場合、同じような立場となる。
 それを一族に告白して、自分たちは難を逃れた。
「……まあ、私たちは、意外に数が少ないし、種族争いだとか権力争いだとかには、興味はないから、そこまではなかったけど、雉の方は……」
「ああ。本当はな、オレは相手が主持ちであるのを隠して、婚姻する気だったんだ」
 既に、雉の方は縁談話にまでなっていると暴露しつつ、男は続けた。
「鳩の子供の件は気になったが、先に言ったように、可愛がる形での洗脳ならば、問題ないだろうと思って、放置するつもりだったんだが……」
 ある人物の、集落への訪問が事情を変えた。
 巡り巡って依頼されてやって来たと言う若者が、とんでもない疑惑を持ってきたのだ。
「年端もいかない子供を、性的な束縛のために連れ去ろうとしていると誤解を受けるのは、ちと我慢できん」
 それをあけすけに言って確認して来たのは、若者と連れ立ってやって来た猫の男だったが、雉たちは天敵の前でも、ついついいきり立ってしまった。
「……猫?」
「返答によっては、このまま破滅をと暗に仄めかしながらも、そんな疑いをかけてきたんだっ。全員、全力で否定したともっ」
 それが功を奏し、本当に破滅を回避できたと知ったのは、昨日のことだ。
 二日前訪ねてきた若者の名で、この公演のチケットが送られてきたのだ。
「ここに、実害を良しとしないカップルが、集められることになっているから、その相手を頼むと、オレの方にも恐らくは同じ奴の名で、チケットが届いた」
 酉も頷き、黙ったままの二人の様子を伺う。
「……我が主の下にいる、既婚者の獣たちも、別な場所に向かったよ。一族の意に含みがある者やその家族を、集落から引き離すのが、目的みたい」
 雉の女も付け加え、慎重に続けた。
「急な病で外出できない対象外の事も把握して、今動いているみたいだ」
「……誰が?」
 穏やかな声が、やんわりと尋ねたが、それを聞いた酉が、びくりと肩を跳ね上げた。
「……」
「誰が、動いているんだ?」
「落ち着け。そんなこと聞いても、事後の話になる。早朝から動くと言う話だったから、最悪もう終わっている」
 身を縮める女を庇うようにしながら、酉が言い返すと、雉の女も震えながらも頷く。
「そ、そういう事だから、あなた方は、ここでお仕事に専念して。お願いっ」
 そんな様子に呆れながら、水月もやんわりと言った。
「ここまでコケにされているのに、文句の一つも言ってはいけないと?」
「あ、あんたたちの仕事は、元々護衛だったんだろ? 種族の殲滅じゃない」
 それはそうだが、その後はどうなるかと楽しみにしていた男は、もう遅いと知って少々落胆気味だった。
 その様子に気付きながらも、エンは穏やかに頷いた。
「そういう事なら、仕事に専念しましょうか、水月さん」
「……そうだな」
 溜息を吐く舅候補を宥めながら、男は二組のカップルを会場の方へと送り出した。
 安堵している二組の男女を見送りながら、水月に呼び掛ける。
「水月さん」
「ああ、分かっている。仕事を始めよう。オレは、外周りを……」
「いいえ。鳩の坊やの元に、今すぐ行ってください」
 意外な言葉に振り返ると、婿候補は変わらぬ笑顔のまま言った。
「取りこぼしが来るとしたら、二か所です。ああいう獣たちは、弱い立場の個体に八つ当たりして、逃げる傾向があるんです。オレは、もう一つの場所に向かいます」
 勿論、この仕事の上に立つ者が、その取りこぼしすら許さないなら、既にどちらにも人はいるだろう。
 だが、一斉に本日、全部の襲撃者の集落を襲うならば、取りこぼしの方に割り振られる人数も少なく、逃げる数によれば厳しい戦いを強いられる。
 勿論、それを考慮した割り振りをしているだろうが……。
「少しでも、溜飲が下がることを、お祈りしています」
 では、と言って踵を返すエンの腕を、水月はあっさりと捕まえた。
 反射的に振り払おうとする力をものともせず、そのまま問う。
「そのまま、逃げる気か?」
 思ってもいない疑いに、エンは目を見張って首を振る。
「そうではありません。ちゃんと、戻りますから」
「お前、そこまで信用を得ていると、思っているのか? 本当に?」
 自分の立場を完全に忘れていたらしい男は、それを思い出して僅かに顔を引きつらせる。
「そういう場合では……」
 何とか取り繕おうとする婿候補に呆れながら、水月は空いた片手で携帯機器を取り出した。
 焦燥して何とか手を振り払おうとしているエンに構わず、相手の番号に着信し、出た相手に呼び掛ける。
「雅、今から言う場所に、至急向かってくれ。こちらもすぐに向かう」
「ちょっ、あの人、携帯機器なんか、持ってたんですかっ?」
「? 何で、そっちで驚く?」
 思わず言ってしまったエンを見る水月の耳元で、雅が苦笑気味に答えた。
「分かりました。……スイッチボタンや、タッチパネルくらいは、問題なくなったんだよ」
「そ、そうだったんですか。いつの間に……」
「? 少なくとも、こちらの家族割で購入した時は、問題なかったが?」
 水月からすると意味不明な驚きから覚めたエンは、電話を切って懐に戻した舅候補に促されるまま、後について移動を始めた。
 いつの間に、家族として電話を持たせたんだと言う疑問が、脱力を生んだためだ。
 行先は、先程自分が指名した、件の子供の住居だった。

 そこで出迎えたのは、青ざめた顔をした青谷と、優しい笑顔を浮かべた雅だった。
「この人たちは、二回目ですか?」
 問う女と青鷺の足元には、二匹の獣がいる。
 一見猿のようだったが、黒々とした毛並みの頭には、二本の角があった。
「……この国特有の、異国の猿と人間の混血が鬼化した獣、ですね」
 その特徴を見て、エンがその正体を告げた。
 日本の鬼は、殆どが憎しみや、色恋の嫉妬から生まれる。
 そのうちの鬼女には、獣に凌辱されて孕まされた女が、恨みを持って変化することも多々あると聞いていた。
 元々人に近い猿の異国の種は、日本の固定種と違い大きく、賢すぎる者がおり、そんな獣と鬼女となった女から生まれた子供は、意外に強力な力を持ち、より凶悪な性格だと聞いているのだが、雅の足元にいる二人は、完全に気を失っていた。
 青ざめている青鷺は、そんな凶悪な猿に襲われたことより、それを圧倒して見せた女の方に、慄いているようだ。
「……一度も、見たことがない獣ですが、報告漏れではないですよね?」
「ああ。一度もないな。だが、もう気兼ねはいらない。こいつらも、殲滅対象だろうからな」
 言った水月に首をかしげたのは、何も聞かされずに呼び出された雅だった。
「殲滅とは、穏やかではないですね。これから、襲撃するんですか?」
「いや。もう、終わっているらしい」
 ますます話が見えない女は、辛抱強く尋ねた。
「もう少し、詳しくお願いします」
 詳しくも何も、エンがこちらの思惑を察するふりをして、逃げようとしていたことくらいしか、分からない。
 そう答えるとエンは、否定の意で慌てて首を振り、そんな二人を見比べて雅は目を細めて天を仰ぐ。
「その、襲撃の話は、何処から出たのか、誰が行うことになっていたのか、それを教えてください」
 内心いらいらとしていた水月は、その静かな言葉で我に返った。
 危うく己の失態未遂への怒りで、冷静な思考を忘れるところだった。
 娘に暗に宥められてしまい、恥ずかしく思いながらも、ようやく冷静になった頭で考え、順を追って先程聞いた話を聞かせた。
 雅は立ち尽くしたままその話を聞き、怪訝な顔をしてエンを見た。
「……君が、あの人相手に、何ができるつもりなんだ? この人にも、全然歯が立たなかったのに」
 その言葉は、水月には意味不明だった。
「? 何のことかは知らんが、オレにもとはどういう意味だ? オレは、この男以外の者にも、負ける気はないぞ」
「はいはい。あなたが私の中では最強の男の一人だと言うのは、承知しています。ですが、今はそのことを問題にしているんじゃないんです」
 今、何気に褒められたか?
 優しく、しかし恐ろしく軽く言い切られ、一瞬考える水月の前で、雅はエンを一瞥してから確認した。
「その、石川家と鬼塚家の方の話の襲撃、誰が中心になって行うのか、想像できているんですよね?」
「ああ」
「先程、この二人が口走っていたんで、そういう目的もあったのかと、ついやり過ぎてしまったんですけど、その事も、話に出た、と」
 苦い顔で頷いた父親に頷き返し、女は言った。
「その、雉の里の面々の元に行ったのは、恐らくはキィでしょう。オキだったら、この段階で悠長に話し合いの場を、持とうとは思わないと思います。もし、律さんが休養を取っていなかったら、日時を決めての襲撃には、なっていなかったでしょう」
 それは、何故か。
 二日前の雉との会合の前に、既に他の獣たちの里とは、話し合いが持たれていただろうと思えるからだ。
 つまり、雉の里には、最後に向かった。
 喧嘩腰だったキィの態度で、それは明確だ。
「……子供を、懐柔目的ではなく、力で押さえつけようと考えているような輩は、キィと共にやって来たその主も、格好の餌食と考えるでしょう」
 この件に、どのくらいの獣の一族が係わったのかは分からないが、乱暴な方法で勢力争いを制しようとと考える輩が、話し合いにやってきた若者を見て邪な心を抱き、交換条件にその身を、などと切り出さない可能性は、ないに等しい。
「言い切るか」
「ええ。言い切ります。だからこそ、あの温厚なキィが、喧嘩腰だったんです。そのために、余計な犠牲を心配したキィの主は、早々に襲撃の計画を立てた」
 幸い、人間の姿を取ることに自尊心を持つ獣は、鬼畜道を忌み嫌っている。
 急遽かき集めた人材で、襲撃を決行できるくらいだから、この猿の獣と同様の凶悪な者は、そこまで多くはなかったのだろうが、それでも安心できない。
 その理由が、エンを現場に向かわせようとしていた。
「? 逃げるためじゃあ、ないのか? 本当に?」
「当たり前でしょうっ。今更逃げて、どうするんですか。セイは、確認するまでもなく、元気なんでしょうっ?」
「ああ、やっぱり。ようやく気付いたんだ」
 思わず言ったエンに、雅は優しく頷いたが、頷かれた方が一瞬身を固くした。
「あ、あの、あの節は……」
「うん、それは、後。私は、本当に不思議なんだよ。凌さんが、あの子を侮辱されたと知った場合の防波堤を、君が買って出るのは自殺行為だと、分かっているだろう? こういう時こそ、この人は使われるところのはず。どうして、君自身が行こうとするんだ?」
 言い方はきついが、その通りだった。
 当然雅は、その自殺行為なエンの動きに、心底不思議そうにしていたが、水月は色々と思い当たって深い溜息を吐いた。
「お前、あの旦那かウサ坊に、何か吹き込まれたな?」
「……」
 返事がないのを見ると、図星だ。
 つい、舌打ちをしてしまった。
「それは、お前が気にするどころか、好都合と喜ぶところだろうが。謎な動きをするより、さっさと旦那が行きそうな場所を、吐け」
「……あなたまで、この人を泣かせる気ですか」
「心配せずとも、そこまで気にされていない。お前が、ものになれば、解決する話だ」
「そんなはず、ないでしょうっ。オレはまだ、監視が必要な人間です。それを放っていくのは、無責任すぎます」
「大の大人が、いつまでも監視下にいて、楽しいか? そろそろ自立しろっ」
 自分で監視下に置いたくせに、勝手なことを言う。
 流石にむっとしたエンが言い返す前に、二人のやり取りを聞いていた雅が言った。
「あのですね、あの子も、凌さんが出てくる心配は、しているはずですよ。保険は、きちんと準備して望んでいるはずです」
 この場合、若者本人が最強の防波堤になり得るから、そのつもりのはずだ。
 エンは、その若者の声すら聞こえなくなるのではと言う不安で、動こうとしていたようだが、そこまで暴走する前に、鬱憤を発散してくれる手ごたえのある敵が来ると判断されている可能性がある。
 詳しい事は、それこそ本人に確認するしかないが。
「だから二人とも、お仕事に戻っては?」
 いいながら、無造作に右手を振った。
 ぎゃっ、と短い悲鳴と共に、人型の男が足元に転がる。
 いつの間にか、転がっていた獣が、五人に増えている。
「ここは、任されておきますから」
 雅は会話を聞きながら、エンと自分の父親が、意外に仲良くやっているのを感じた。
 全く意味不明の会話で、二人の意思が疎通しているのが、何よりの証拠だ。
 良かったと思う反面、矢張り悔しい気がしている。
 その想いを、急遽頼まれたこれで、発散しておこうと思っている。
 その意を察したわけではないだろうに、水月は頷いて再びエンを見る。
「さっさと吐いて、お前は公演会場に戻れ。万が一の場合を考えて、確かめてくる」
「ですからっ」
「これ以上、言い渋るならば、それでもいい。お前には眠って貰って、手あたり次第捜す」
 あっさり言って、すぐに実行しようとする舅候補に身を竦め、それでも何とか身構えたエンは、ただ立ち尽くして成り行きを見守っていた青鷺の男が、小さく音を立てて空気を吞むのを見た。
 その横で、雅が大きく溜息を吐く。
「話は見えないですけど。本当に、全然」
 呟く声は、本当に優しい。
 だが、父親の背にぶつかる空気は、妙に不穏だった。
 戸惑って振り返る先にある娘の顔は、自分に似た顔立ちなのに、なぜか母親の方を思い出させる何かがあった。
「み、雅?」
「分かるように話をする気もないようですから、眠るのは、あなたの方ですね」
「は? 何を、言って……」
 突然、視界がかすんだ。
 前に立つエンが、軽く驚きの声を上げるのは聞いたか、それきりだった。
 一瞬にして意識を失い、崩れるように倒れ込んだ水月を見守ってしまったエンは、慌ててその身に駆け寄る。
 抱え起こす男の前に立つ女は、小さく声を上げた。
「あ。完全に、壊れた」
 見上げると、そこにはポケットから出した携帯機器を見つめ、悲壮な溜息を吐く雅がいる。
 いや、携帯機器にしては、やけに炭のようにもろい塊に見えた。
 今にも零れ散りそうなそれを手に、女は盛大に嘆いた。
「さっき、電話を受けてタッチパネルにふれただけだったのに、バッテリーが省エネモードに移行したんだよ。後で充電すればいいと思って、そのまま来たのに。つい、いらっとして、これに力を入れ過ぎた」
 何にイラっとしたのかは知らないが、そう言い訳しながらもう片方の手に持つ物を見下ろした。
 それは、一枚のお札だった。
 これも、黒く焼けたようになっている。
 事情が見えないエンに、雅は説明した。
「今の日本って、混血が術師だか陰陽師だかになって、妖怪と戦う話が多いでしょ? その話で、塚本家の元祖と盛り上がったんだよ」
 話だけの設定で、そんなのあり得ないと二人は意見を一致させたのだが、シロが試しにと、このお札をくれたのだ。
「睡眠作用のある、術を練り込んだお札。私や術師が標的を狙って念を込めれば、発動する仕掛けで、これならば、薬で眠らない相手でも、いちころと太鼓判を押されたよ」
「いちころ……」
 この人って、薬は効かない人だったか?
 つい考えたが、効く効かないよりも、そういう攻撃を食らう前に、敵を破る類の人だと、エンは今までの付き合いで感じていた。
「……」
「後ろからとは言え、私の攻撃をまともに受けるなんて。完全に驕っていたんだね」
「と言うより、あなたが攻撃しないと、信じていたのでは?」
 良心的な言い分に、雅は優しく首を振った。
「セイのあれも、知ってるのに? 警戒もしていないのは、どう見ても驕りだろう?」
 そう言われて、つい唸ってしまった。
 ある騒動で、セイは父親と対面した。
 初対面であったのにも拘らず、そんな場合ではないと動いた若者は、顎を砕くつもりで、当の父親の持っていた拳銃の口を、大男の顎に突き上げてしまったと、セイは申し訳ない気持ちを語っていた。
 だが当の凌は、隙をついたその攻撃に驚いたものの、無事組長と合流した。
 それを聞いた若者は、腕の力を強化するべきかもしれないと、大いに反省したらしいが、この場合、別なことを反省するべきだったのではと、エンを含む数人は思ったものだった。
 今回は場面は違うが、似たような気分だ。
「……一応、父上なんですから、手加減は必要では?」
「下手に手加減して、すぐに起きられても、私の溜飲は下がらない」
 何やら、まだいらっとした気持ちは消えていないようだ。
 戸惑うエンに、雅は取り繕いと分かる笑顔を向けた。
「この人は、最低でも三時間は目覚めない」
「っ」
 その間に、誰かに攻撃されてはひとたまりもない。
 警戒するエンに、雅は優しく言い切った。
「だからその間に、この人に訊きたかったことを、君に尋ねてもいい?」
 何となく次の言葉を予想した男は、神妙に言葉を探しながら頷く。
「いつから君とこの人は、阿吽の関係になってるんだ?」
「は?」
 全く、思いもしない問いかけだった。
 つい間抜けな声を出したエンに構わず、雅は笑みを濃くする。
「ほんの数日、顔を出さなかっただけなのに、何でそこまで、心を通じ合わせてるんだ? 一体、何がきっかけでっ」
「あの、ミヤ?」
「同棲するって話を聞いた時に、止めるべきだったっ。この人が、全く男に興味を抱かないと、そう高をくくって聞き流してしまったのが、ここで祟ってしまうなんてっ。この人が、瑠衣さんの作ってる本を、愛読している時点で、疑うべきだったんだっっ」
「ち、ちょっと、ストップっっ」
 思わず、普段使わないカタカナ語が、エンの口から飛び出した。
 それだけ慌ててしまっての事だったが、雅は笑顔のまま男を見据えた。
「同じ顔の私には、見向きもしないくせにっ。何で、よりにもよって……」
「ですから、一体何のことですかっ」
 聞きたくない。
 それはきっと自分にとっても、水月にとっても、屈辱的な疑いだ。
 だが、問いの形で叫んでしまったエンは、無情な答えを聞いた。
「私よりも、お父さんの方が好みなんだな、君は。そうなんだな?」
「違いますっっ」
 部外者が、二人を交互に見ながらも、動けなくなっているのだが、構わずエンは言い切った。
「こんな外見だけの無骨男、死んでも好きになりませんよっ」
「だったら、何で、あんなに親しそうにっっ」
「同居しているんですから、ずっと角突き合わせているわけにも、いかないでしょうっ?」
 悔しそうな雅に、エンは誤解を解こうと必死だった。
「大体、機嫌を取る相手と、どうしてねんごろにならなきゃいけないですかっ。単に、好いた人の父親ってだけの人なのにっ」
「……」
「大体、顔だけで惚れたわけじゃないのに、似てるからってだけで、好みと思われるのは、大いに心外なんですけどっ?」
 そこまで吐き捨てた時、女が静かなのに気づいた。
 我に返って雅を見ると笑顔が消え、呆然と自分を見つめている。
「……ミヤ?」
「惚れてたのか?」
「え」
 不意を突かれた問いに、目を見張ったエンは、自分の発した言葉を反芻した。
 そして、焦ってしどろもどろになる。
「あ、あの……それは、水月さんにと言う事ではなく……」
「私に? いつから?」
「そ、それは……」
 一度天を仰いで下を見下ろし、エンは水月が無反応なのを確かめ、思い切って言い切った。
「……オレは、何を見せられてるんだ」
 殺伐とした修羅場から一転、とんでもない甘い告白の場に変わったその場に立ち尽くした青鷺は、その間にも増える獣の気絶体を意識しながらも、ただ黙って見ているしかなかった。
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