第12話

文字数 9,471文字

 世の中が平和すぎる弊害か、半端な作り方をされた弊害かは分からないが、決定的な隙を作ってしまったようだと、水月はあれから大いに反省していた。
 例の公演日の後の休日、岩切家の道場を訪れ、道場の片隅で座禅を組み、現在懺悔の真っ最中だ。
 親世代とは違い、その子供世代が、親に対して遠慮がないのは、凌とその子の話を聞いていて知っていた。
 当然だろう。
 誰かも言っていたが、自分も凌の旦那も、ぽっと出の親なのだから。
 そう納得もしていたのに、自分がそういう場面を経験してしまうとは。
 あの日、水月が眠っていた時間は、約一時間。
 通常ならば、三時間は目覚めないはずなのにと、雅は悔しそうだったが、その一時間がこちらとしては命とりだった。
 水月としては命よりも、心身にダメージを受けることの方が、恐怖だったが。
 小さくそう呟いた舅候補に、エンは穏やかに笑顔で頷いた。
「それは、幸いでした。こちらの話が収まっても目が覚めなかったら、雅さんがお姫様抱っこで社宅まで送ってくれることに、なっていたので」
「そこは、止めろ」
 まだ、エンの肩に担がれた方が、ましな案件だった。
 久しぶりにぞっとした水月に、婿候補は困ったような笑顔になった。
「……」
 その後の沈黙が、嫌な予感を孕む。
「……まさか、外からここまで運んだのは……」
「水月さん」
 話しながら布団をたたみ、部屋の隅に積んだエンが、言いかける男を遮った。
「不可抗力、です。覚えていなくて幸いだったと思って、その考えには答えを求めない事です」
 始終穏やかな声音に、ああこれは、嫌な予感的中かと、無言で頭を抱え込んでしまった。
 憂鬱なまま社宅に戻り、今日の休日にまでそれを引きづっているのだが、一人瞑想にふけっても、気分は晴れない。
 久しぶりに、大暴れしたい。
 岩切家の道場を訪ねたのは、休日ならば誰かしら、道場生がいるのではと考えての事だったが誰もおらず、大勢の屈強な連中相手に暴れまわる計画は、霧散してしまった。
 仕方なくただ瞑想に打ち込んでみたのだが、反省と共にその時の羞恥も思い出してしまい、集中力は散漫だった。
 暫く目を閉じて集中することを試みていたが、諦めた。
 溜息を吐きつつ目を開く。
 ちらりと入り口付近を見ると、岩切家の娘が、そっと中を覗き込んでいた。
「……まだ、何か用か?」
 若干冷たくなった声は、その後ろに投げられた。
 岩切家の娘、静の後ろから、同じような姿勢でこちらを伺う女がいたのだ。
「暇そうだなって」
 高校生の少女と共に道場内に入って来たのは、エンの腹違いの姉シュウレイだった。
「まあ、今日だけ暇だと言うわけでも、ないがな」
 そっけなく言った水月は、あの公演の日以来、仕事でも暇を持て余していた。
 あれだけ毎日やってきていた獣類の連中が、保育園にもぱったり姿を見せなくなってしまったのだ。
 エンの監視の仕事は継続中なので、上司でもあり父親でもある律の元に戻ることも出来ず、保育園の小さな運動場や、遊戯場の雑草を切ったり不具合を直したり、今ではすっかり用務員さんとして園児たちと馴染んでいた。
「こういう暇さが続くと、余計暴れたくなってしまう。困ったものだ」
「……暇って、何?」
 日常の話をした水月に、シュウレイはつい疑問を口にしたが、気を取り直して好戦的な笑顔を向けた。
「暴れたいの?」
「ああ。勿論、夜遊び関係はいらんぞ」
「分かっているよ、流石にここでは、ね」
 釘を刺されて苦笑し、シュウレイは水月が完全に忘れ去っていた事を、遠回しに切り出した。
「じゃあ、私と、手合わせしてくれる?」
「ん?」
 ようやく目を向けた男に、女はにっかりと笑った。
「私、叔父上の弟子。意外に、筋はいいと言われて、剣は人並み以上極めてるよ」
「ああ、そうだったな。愛弟子は鏡月で、一番弟子はランだったが、あんたも、肩を並べるくらいには、使えると言う話は、聞いていた」
 忘れていたが。
 暗にそう言われ、シュウレイは少し顔を顰める。
 要は、興味の欠片もないのだろう。
 凌の弟子の自慢話の中身にある名を、聞き流すほどに。
 内心悔しく思いながらも、女は笑顔を戻した。
「私、あなたが叔父上の好敵手と言う話を、実感したい」
 水月は、前に立った女を見上げた。
 要はまだ、その話を信じてはいないという事だ。
 それは仕方ないと思う。
 大昔の話である上に、今ではあの旦那との絡みはあれども、角突き合わせていないお陰で、殺伐とした事態になることもない。
 凌と水月が好敵手同士と言うのは、本人たちの口と昔を知る者たちの証言だけで、現在になって実際に見た者は、未だにいない状態だった。
「実感しても、意味はあるまいに。大昔の話だ。今では、あの旦那もさらに精進して、オレでは足下にも及ばないかもしれん」
「ならば、私でもあなたを満足させられるかもしれない、そうでしょ?」
 確かにと思いつつ躊躇っていたが、シュウレイの横に立った少女が、わくわくと表情を浮かせているのに気づき、苦笑した。
「何だ、お前さんは、手合わせを見るのが好きか?」
「はい。私自身は、武道の心得はありませんが、見ているのが楽しいです」
 言い切った静を見て、不思議に思う。
 岩切家の道場があり、道場主がその主だと言うのは前もって知っていた。
 当然、娘も武道を習い、それこそ段持ちだと思っていた。
 それほど、静の物腰も落ち着いており、だから鏡月も弟子としているのだと思っていたのだが。
 憶測だけで判断してはいけないなと反省しつつ、水月はシュウレイの提案に乗ることにした。
 そう告げると静はすぐに動き、壁にかけてある木刀を二本持ってきて、二人に差し出す。
「これで、違和感はありませんか?」
「ああ。手に収まる物なら、何でも大丈夫だ」
 蘇ってからずっと、武器を片手に精進してきたが、本当は一抹の不安がある。
 手に馴染んでいる物の方が、もろもろの加減もうまくできるのだが、これはシュウレイ側へのハンデとするつもりだ。
これも、驕りになるだろが。
 ちらりと思ってしまい、苦笑してシュウレイを見ると、同じような木刀を手渡され、真顔でその使い勝手を確かめているところだった。
「使えそうか?」
「大丈夫。振り回せれば、どういかなるもんだよ」
 ああ、あの旦那の教え方は、そうだった。
 どういう動きを教える場でも、全てが雑。
 大昔、鏡月の修行の場に立ち会ったことがある水月は、自分の師匠たちは、まだ丁寧な方だったんだなと、しみじみと思ったものだった。
 群れから離れても、それは変わらなかったんだなと、湿った気持ちになったが、それを強引に振り払った。
「やるか。お前さんは、離れていろ」
「はい」
 静に一声かけ、馴染まぬ木刀を軽く構えて見せる。
 シュウレイも真面目な顔になって、木刀を構える。
「合図は、いりますか?」
「いらない。……ちょっと待って。何で、それで隙がないのっ?」
 控えめな問いに短く答えた女が、水月と向き合って一分も絶たずに喚く。
「? 隙を作る必要が、あるのか? なら、作ってやろうか」
「やめて。そういうの、本当に傷つくんだからっ」
 焦ったシュウレイが、男と真剣に向き合う。
 その凛とした姿に、水月は感心した。
 意外に、様になっている。
 つい笑ってしまったが、すぐに真顔を作った。
 先程からののんびりとした動きからは想像できない素早さで、シュウレイが突進してきたのだ。
 その真剣な様子に、こちらも返してやるのが礼儀だろうと即座に思い、攻防の仕方を変えた。
 本当は、ある程度打ち合った後に、一気に打ち据えるつもりだったのだが、相手の思うように攻撃させる方向に変えたのだ。
 余裕は十分にあるのに、それを他者に分からせぬように、逆に余裕がないように防御に重点を置きながら、相手の体力だけを削る。
 これは、弟子を取った後に身に着けた、一種の気遣いだった。
 やる気と自信を失わせぬよう、徐々にこちらの実力を解き放っていく。
 水月としては、病弱で弱かった白狐を気遣うために見つけた術だったのだが、ただ一人だったその弟子を見るに、どうやら成功ではあったようだ。
 シュウレイと手合わせることになった今、その時の気持ちが蘇った。
 相手が女だと言うのも理由の一つだろうが、その真剣な様子が、律と被って見えた。
 当時は、顔が見えていたわけではないのに、向けられる熱意を懐かしく感じてしまい、さらに力を引き出してみようなどと、つい思ってしまったのだった。
 真剣に見える二人の手合わせを、岩切家の娘は目を輝かせて見守っている。
 その後ろから、低い声が小さく歓声を上げた。
 振り返ると、長身で大柄な弟子仲間の一人が、更に大柄な男を連れて立っている。
健一(けんいち)さん」
「あれ、師匠の伯母さんと、水月さんか?」
「はい」
 こちらに見向きもせず、手合わせを続ける二人を見やり、金田(かねだ)健一は溜息を吐いた。
 その後ろに立つ大男も、険しい目を精一杯丸くして、呟いた。
「やっぱ、随分差があるんだな。あの二人」
「え?」
 驚いて見上げた二人の高校生に、市原葵は驚き返す。
「ん? 何だ?」
「差があるって、同等に打ち合っているように見えますが?」
「そうか? でも水月さん、楽しそうに笑ってるぞ」
 きょとんとした指摘に、二人は食い入るように打ち合う二人を見つめたが、どちらの動きも半端なく速く、どうしても表情までは分からない。
「ええー。何で、あんなのが見えてるんですか? 目が半端なくいいですね」
 そういえば、この人の二人の子供も、目は恐ろしくいい。
 これを目で追って、更に表情まで見て取れるかまでは、分からないが。
 血筋は侮れないなと、小さく慄く二人の目の前で、葵は困ったように呟いた。
「報告だけ済ませて、仕事に戻る予定なんだがな」
 刑事の大男は、日祝も変わりなく仕事だ。
 非番の時はあるが、今日は少なくとも休みではない。
 遅番だからと、この伝言と報告を水月に持ってきたのだが、余り待つわけにはいかない。
 水月とエンが住んでいる寮に、同僚を置いてきているのだ。
 偶々、別な用で水月を訪ねてきた金田健一が行きは一緒だったが、帰りは自力でそこまで戻らなければならないから、迷う時間も想定して葵は決断した。
「伝言だけ、置いて行ってもいいか?」
「はい」
「鳩の子の件は、問題なく解決したから、後は監視だけよろしくお願いしますと。凌の小父さんの方も、問題なかったので、お気になさらずと」
 子供二人には意味不明の伝言だったが、目を瞬いて聞き返す前に、背後から甲高い音と小さな悲鳴が響いた。
 見るとシュウレイが木刀を落とし、獲物だけ狙って払い落とした水月が、木刀を手にしたまま振り返っている。
「どう問題なかったんだ? あの旦那は、来なかったのか? それとも、来て大暴れしたが、八つ当たりで避難していた者たちにまでは、害がなかったのか? それとも」
 優しい問いかけに苦笑し、葵はゆっくりと手を上げ、その言葉を遮った。
「それ、です。なので、問題にまでは、なっていません」
「お前さんが、セイ坊と一緒だったんだな?」
「ええ、まあ。非番だったもので」
 子供たちにも、シュウレイにも意味不明な会話だったが、二人の中では成り立っていた。
「……そうか。オレとは違って、あの旦那が知ったのなら、大変だっただろう」
「はい。まさか、あそこまでの評価を頂けるとは……」
 思い出した葵の顔が、ひきつっているのを見ると、どういう評価を下されたのか、想像がついた。
 水月が気づいたのは、随分前だ。
 市原葵は、ただの鬼の混血の元武士ではない。
 極度の方向音痴と、生来の穏やかな気質のせいで、その本性を現す場は殆どないが、その気になれば、自分や凌すらも凌駕しかねない実力があった。
 それに気づいた凌は、大喜びしたことだろう。
 最近では、成長したらきっと自分たちを凌駕すると思われる人物も出現し、楽しみだと喜んでいたところだった。
 思わぬところで、しかもこんな身近にいた好敵手に、先の怒りは吹き飛んだらしい。
 勿論、好敵手扱いされる方には、困惑しか生まれなかった。
 嬉々として手合わせを所望する凌を、セイは危惧していた事とは違う理由で、窘める羽目になった。
「買いかぶられ過ぎると、ちと困惑してしまいます。絶対、誤解ですって。単に、あの人が標的以外の奴に切りかかるのを、体当たりで吹っ飛ばしただけですよ」
「……まあ、そう言う事にしておこう。襲い掛かるあの旦那の姿を、正確に捉えている時点で、買い被りじゃないと、オレは思うがな」
 謙虚な姿勢の大男に頷き、水月は気を取り直して尋ねた。
「報告は、それだけか? 監視を続けていいという事は、オレの娘に、あの男を贄として差し出してもいいという事に、他ならないが。それでもいいのか?」
「贄……って、言い方はしてませんでしたけど、早く二人を、自分から遠ざけてほしい旨は、地口で口走っていました」
 それは、ある程度は遠ざけられるが、完全には無理だなと、水月は思う。
 つい天井を仰ぐ男を見下ろし、葵は小さく笑った。
「完全には、無理ですよね」
「ああ」
「まあ、どちらにしても、そちらでエンの面倒を見ていただければ、生活の問題も解決に導かれそうですから、お願いしたいんだと思います」
丁寧に言葉を選んでそう言った葵は、相槌を打つ水月の背後を見て首を傾げた。
 構えてもいない水月の背後で、木刀を拾い上げて再び構えていたが、間合いを掴めずに悔しそうにしているシュウレイがいる。
「……」
「間合いを、瞬時に見止められないほどの、玄人に毛が生えた程度ってところか」
 不思議そうな大男に、水月は優しい笑顔で言い切った。
「っ、馬鹿にするなっっ」
「ああ、済まん。矢張り、律と違って、張り合いがなさすぎる。飽きた」
 優しい声で言われた酷評にブチ切れた女が、勢いよく飛びかかるが、水月はやんわりと言い切って、襲い掛かる刃先を己の持つ木刀で受け、綺麗に流した。
 勢いあまって体制を崩したシュウレイが、こちらに倒れ込むのも上手に避け、床に転がった女を見下ろす。
「これで脳天刺されたら、終わりだぞ。よくこんなで、今まで生きてたな」
 不思議そうに言う今は未成年の男は、悔しそうに下から睨まれて、更に首をかしげている。
「いや、老婆心で言っているんだぞ。命の危機の話もそうだが、お前さんほどの器量なら、負けたら相手のモノに、って話もないことはなかっただろう? よく、そう言う輩から勝ちをもぎ取れたな」
 こういうところは、あの辺りの血縁者だな、と部外者三人が同時に思っているが、その言葉を向けられた女は、睨みながら答えた。
「あんたほど、力の差がある奴に、会わなかっただけだよっ。叔父上は、ああいう人だから、そう言う話にはならなかったしっ」
「そうか。まあ、惜しかったな」
「何処がっっ」
 優しい笑顔で差し出された手を掴みながら、シュウレイは当然の返しをし、立ち上がった。
「もう少し、手ごたえがあれば、気晴らしとして使えたのに」
 吐き捨てるような返しに答えた水月は、立ち上がった女の手から、己の手を抜き取ろうとするが、不意にその手を強く握られた。
「……やっぱり、夜の方が、気晴らしになる?」
 色を含んだ声に、水月は小さく笑った。
「この間も言っただろう。ああいう自分勝手なのは、外見がよくても、御免だ」
「うん、あの日は、申し訳なかったよ。だから今度は……」
 言いながら、空いた手で男の頬に触れる。
「私に、触らせてよ。存分に、満足させるから」
 撫でるその感触に水月は優しく微笑み、そっとその手を空いた手で乱暴に引きはがした。
「そういう趣味はない。すまんが、触りたいのなら、他を当たってくれ」
 きっぱりと言い切って踵を返し、目を丸くしている健一の方を見た。
「で、お前さんは何の用だ?」
「あ、速瀬から、あなたの住む場所を訊かれたんで、教えても大丈夫かの確認を、と思って」
「? 今更か? 会社の概要を調べれば、大体あの寮まで行きつくぞ」
「エンさんと、同棲しているんでしょ? あの人の居場所を、実の父親にまで知られるかもと、危惧しているみたいです」
「? 危惧も何も、この間当人が訪ねてきたから、意味がなくないか? と言うより、一体、あの二人に何があったんだ? 子供に心配されると言うのは、よっぽどだろう?」
「さあ、それは、言えないとか何とか……まあ、兎に角、教えてもいいんですね? お礼に伺いたいと、言ってましたので」
 今日一緒に来れればよかったのだが、本日は家族との顔合わせだから、来れなかったらしい。
「ふうん。急展開だな。礼はいいぞと、伝えてくれ」
 義理堅い少年の事だから、言ってもやってくるだろうが、水月は本音でそう言った。
 その時、岩切氏が自宅から直結している出入り口から、顔を出して言った。
「そろそろ、道場生がやってくる時間ですが、手合わせ、していかれますか?」
「いえ。そろそろお暇します。すみませんでした。長い間入り浸ってしまって」
 朝から昼過ぎまで、入り浸ってしまったと気づき、水月は丁寧に謝る。
 そんな男に慌てて首を振り、岩切氏は答えた。
「久しぶりに、いい立ち合いを見させていただけました。お礼を言います」
「いい立ち合いでしたか? 一方的な打ちのめしに見えたかと、申し訳ないと思っていたんですが」
 立ち合いの途中から秘かに見学していた岩切に、水月は居心地悪い思いで問うと、この家の主はにこやかに笑って見せた。
「一方的に見えぬように打ちのめす様は、見ていて気持ちがいいものです。そこまでの域に達することが出来ずにいるこちらは、身を引き締める思いです」
 そう言ってもらえると、少しだけ気は楽だ。
 小さく笑って暇を告げた水月は、先程から漂う不穏な空気の方を振り向く前に、葵が太い声を上げる。
「ご一緒させてくださいっ。同僚が、あなたの住まいで待機しているんですっ」
 恐ろしく響いたその声に、思わず目を見開きつつも頷く。
「下手に迷われても、後味悪いからな。一緒に戻ろう」
「あ、じゃあオレも、ご一緒させてくださいっ」
「? ああ?」
 健一も手を上げて主張されてそれにも頷くと、すぐ傍の女も口を開いた。
「じゃあ、私も……」
「シュウレイさんっ。お昼の後、ここの道場生たちと、手合わせして行かれませんかっ?」
 遮ったのは、目を丸くして成り行きを見守っている岩切氏の、娘だった。
 先程、健一と危機感を漂わせて目を交わしていたが、何事かと事の成り行きをみている養父の前で、静は必死にシュウレイを誘う。
「え? あ、でも、迷惑じゃない?」
 明らかに拒否したい女の様子と、少年少女たちの焦った顔、葵の鬼気迫る顔を見回した岩切は、温和な笑顔を浮かべてシュウレイに答えた。
「迷惑などとんでもない。どのような宗派であれ、対処できるようになるのも修行の内ですので、あなたとの手合わせもきっと、糧になる事でしょう」
「それはいいな」
 水月が優しく頷いた。
「あんたも、少し勉強した方がいい。手ごたえばかり求めていても、何も見えなくなるだけだ。一度、相応の修練生と手合わせして、自分の力を見つめなおしてみるのも、いいだろう」
 これは暗に、水月にはシュウレイの力量が、その程度にしか感じなかったという事だ。
 葵が口の中で、小さく悲鳴を上げた。
「み、水月さんっ。そろそろ、帰りましょうっっ」
「じ、じゃあ、お邪魔しましたっっ」
「? また、お邪魔するかもしれません」
「はい、お気をつけて」
 岩切親子は、わなわなと体を震わせる女を気にしつつ三人を送り出し、道場の中に残るシュウレイを振り返った。
「……意外に、性格の悪いお方だな」
「ええ。鈍いふりして、止めを刺していきました」
 養父の感想に頷きつつも、高校生になった静は首を傾げた。
「雅さんの御父上なのなら、あのくらいの腹黒さも、あり得るのでは?」
「うむ」
 不思議そうな娘に頷き、岩切氏はしみじみと言った。
「どちらにせよ、今日はうちの道場生が、大怪我をしないように、注意は必要だな」
「お手伝いします」
 岩切親子が頷き合っている時、道場を後にした水月は家路を歩きながら、健一に盛大な文句を言われていた。
「駄目じゃないですかっ。ああいう人は、怒りを煽り過ぎたら、何するか分かりませんよっ」
「何の事だ?」
「……それ、本気じゃないでしょう? 駄目ですよ、オレたち、真正の鈍感を知ってるんですからっ。振りは通用しませんっっ」
 少年の鋭い指摘に、男はつい笑ってしまった。
「すまんすまん。ついつい、揶揄いたくなったんだ」
 お陰でようやく、気楽な笑いが出るほどに、気が紛れた。
「気を紛らさせるために、揶揄ったんですかっ? その代償が、余計に面倒なことを、呼んでるじゃないですかっ」
「その辺りは気にするな。適当にあしらう予定だから」
 幼い頃から憧れていた師匠を、手に入れるのを諦めたシュウレイが、本気で目を付ける男が現れるまでは、適当に相手にするのは構わないだろうと、水月は思っている。
 どうせ、長く相手してやれるわけでもないのだから、割り切った関係が築けるだろう。
「……まあ、意外に鋭いところをついてきたのは、少々不安だがな」
 シュウレイは何故、あんな考えに至ったのか。
 女の手が頬に触れた時、嫌悪感で固まりそうになった。
 その僅かな動きを悟られていたら、少々厄介だなと思う。
 実は元女房が、知らず情報を漏らしているのだが、水月本人が知る由は、今の所ない。
 事実を知るのはそれから更に数年後で、その時には完全に遅かった。

 恐ろしく濃厚な、一か月だった。
「……まさか、ひと月で仕事が監視だけになるとは」
 雑草を引き抜きながら呟く水月は、本日戸籍の上では二十歳となる。
「この草、食べられます」
「本当っ? 食べたいっっ」
 今日はエンも、園内の草むしりに参加している。
 連休中だが親が仕事の園児たちが、一緒に草むしりに参加していた。
「今日は、このお兄さんのお誕生日なんだよ」
「ミズにいちゃん、おめでとうっっ」
「いくつになったの?」
「五歳が、四回目だ」
「?」
「……掛け算の説明、面倒だからって、意味不明な謎かけに、しないでください」
 と言うか、普通に教えればいいものを。
 呆れるエンの横で、女の子が言った。
「あ、私と一緒っ。私、明日お誕生日。五つになるのっっ」
「おお、お揃いだな」
 優しい笑顔で女の子の頭を撫でる水月は、好戦的な雰囲気は皆無だ。
 このひと月の間に、園児の何人かが誕生日を迎えていて、その都度秘かにプレゼントの用意もしていることを、エンは知っていた。
 だから、水月本人の誕生日にも、こちらで何か用意しようとは思っていたが、まだ祝い事の夕食の内容は考えていなかったので、軽く尋ねてみた。
「何か、希望の物があったら、用意しますよ」
 料理全般の話のつもりで切り出したのだが、水月は真顔で答えた。
「孫の顔が見たい」
「それは、今日一日では、用意できません」
「なら、来年は見せろ」
「そんなに早く、生活力は付きません」
 同じように草むしりに駆り出されている従業員は、この会話を必死で聞き流そうとしながらも、つい毒づいた。
「……子供の前で、する話じゃないだろうっ」
「ああ……明日以降、この手の苦情が多発する未来が、はっきりと見える……」
「と言うか、何で孫なんだよっ。そんな年齢じゃないだろう? この人今日、二十歳になるんだろう?」
 平和な生活は、始まったばかりだった。
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