第1話

文字数 8,198文字

 森口水月(もりぐちみづき)、現在十九歳。
 大きな会社になりつつある、警備会社の社長である森口(りつ)の跡継ぎとして引き取られた、優しく整った顔立ちの男である。
 現在の男としては小柄で細身ではあるが、その内側に隠れた力は未だに計り知れず、父親である律も目が離せない。
 引き取られたのは五歳になった頃で、落ち着いてきた数年後、この国の義務である学校に通い始めた。
 成績は平凡で、体育の授業でも目立たぬようにしていたため、地味な印象を植え付けていたのだが、それが逆に侮られる原因となり、実をいうとその頃から男子にも女子にも揶揄われることが多かった。
 男子ならば、少しつついてやれば黙るが、女子はそうするわけにはいかない。
 だから、やんわりとこちらの意を示しつつ、ここぞと言う時のための準備を着々と進めていた。
 男子の場合も女子の場合も、揶揄い方の違いはあれど、揶揄うネタは一緒だ。
 水月の姿かたちが中性的で、成長してもそれがあまり変わっていないことが、揶揄いの元となっていた。
 男子からは、女みたいだから云々と、女子からは可愛い云々、などだ。
 その上、中学校に上がった頃から、その揶揄いに男好きだと言う不名誉なネタまで、増やされてしまった。
 新学期が始まり、新しい級友たちと巡り合うたびに、そのネタが芽吹き、男子は一学期中に制圧し、女子はやんわりと嫌って無視することを繰り返していたのだが、それが一気に解決したのは、高校に上がった時だった。
 県立の高校に入学した水月は、またしても同じクラスに見知った女子を見つけた。
 いい加減、腐れ縁が過ぎるとうんざりする少年は、気づかぬふりで普通に友人を作り、学校生活をしていたのだが、ある日その女子が、友人の女子たちを連れてこちらにやって来た。
「森口君、すごいっ。もう男の子に手を出してるの?」
 引いた顔をする男子に構わず、少女は水月を見つめて笑う。
「中学の時のお友達も、こういう子だったよね。好きね」
「……友人としては、気楽なんだ」
 入学したばかりだ、堪えろと心に言い聞かせ、水月はやんわりと答え、静かに窘めた。
「そういうの、いい加減やめた方がいいよ」
「嫌だ、むきになっちゃって。怖い」
 一緒に来た女子たちと笑いながら、少女は怖がってみせ、周囲に聞こえる程度の小声と言う、器用な声音で内緒話のように友人たちに言った。
「森口君、小さい頃に今のお父さんに引き取られたでしょ。でも、お母さんたちが言うには、全然似てないらしいの。だから、養子縁組か、里親かなんじゃないかって。それって、おかしくない?」
「うんうん、おかしいよね?」
「? 何が?」
 訊いたのは、水月と話していた男子だった。
 聞いちゃいけない話を聞いたと、慌てていた少年は、それ以上の違和感があるとは思えず、素直に訊いただけだ。
 その問いに嬉々として飛びつく少女は、昔から空気を読まないところがあった。
「だって、縁も義理もなさそうな子を、まだ独身の男に人が引き取ったってことなんだよ? これは、森口君自身を気に入ったからに他ならないじゃない。もう、本当に罪作りなんだからっ」
 まくしたてるように言い切り、少女は友人たちと黄色い声を上げて笑い合う。
 それを見つめながら顔を引きつらせていた男子が、黙り込んだ水月の顔を伺った。
 心配そうな級友に、優しい笑顔を返しながら、声を出した。
「……おい」
 若干どころかかなり籠った、低い声が出てしまった。
 ゆっくりと顔を上げ少女を見やると、驚きと期待を込めた目が見返した。
「お前、これ以上嫌われたいのか? こっちは今までの事で既に、底辺まで嫌ってるのに? 世間的に、抹殺されることが願いか?」
「や、やだ、怖い」
「ちょっと、男子の癖に、我慢強くないの、かっこ悪い」
「冗談を真に受けるなんて、最低じゃない?」
 口々に言われても笑いを浮かべたままの水月は、ゆっくりと返した。
「冗談なら、しつこく言い続けるもんじゃないだろう。こちらが嫌がっていることを、いつまでもしつこく言い続けるなど。それとも、自分たちが楽しいだけで、冗談ととらえるものなのか? ならこれも冗談でいいだろう。楽しいぞ、オレが」
 笑いながら言い、水月は制服の胸ポケットから、細長いものを取り出した。
 ボイスレコーダーだ。
「既に、数年分の証拠がたまっているんだ。今日の事は、完全に名誉棄損だからな、親に報告する」
 少女は青ざめた。
 小学生の頃から同じだったこの少女は、水月の父親の職業を知っていた。
 大手の会社や、それこそ重鎮の政治家を顧客としている警備会社の社長に、そんな誹謗中傷をしたと知れたら、当人が動く前に、その客たちに家族ごとどん底に落とされかねない。
 そう言って笑った水月は、本当に軽く脅したつもりだったのだが、後に見ていた級友曰く、充分怖かったらしく、三人で揶揄って来た女子たちは全員、しくしくと泣きながら謝って来た。
「これじゃあ、完全にオレの方が、加害者じゃないか」
 と不服な水月は、その後男子からの好感度は上がった。
 逆に、事情を知らぬ女子からは、最低な男と認識されてしまった。
 弟子や周囲の者からは、女好きと認識されてはいるが、十代は対象外であるため、本人は全く気にならない。
 それは、今でも変わらない。
 だが。
 社会人になってもう一年経った。
 そろそろ女遊びを始めたいなと、秘かに考えていた。
 それは、企画倒れに終わるのだが。

 企画倒れに終わった理由は、多岐にわたる。
 その一つが、予期せぬ男を預かる羽目になったことだ。
「……そのせいで、昔を知る奴がいるここに、身を寄せる羽目になったんだ。恨むぞ」
「そう言われましても……」
 目的地に行く道すがら、数年前の話を持ち出して森口水月が毒づくのに、後ろに付き従っていた長身の男が苦笑して流した。
 綺麗に整った顔立ちの若い男と、それよりも年嵩だが優しい顔立ちの男は、格好のネタになりかねない取り合わせだと、水月は苦い顔で言う。
「自分で言い切るところも、その娘さんたちの思惑を煽っていたのでは? それに、取り合わせとしては、オレよりもロンや、凌さんの方が……」
「想像させるなっ。鳥肌で動けなくなったら、どうしてくれる」
 ひと月ほどの療養の後、意外にたくましく立ち直った男が穏やかに指摘すると、若い男は本当に身震いして叫ぶように言葉を遮った。
「大体な、昔も今も、顔の事は言われ続けているんだ。これで自覚するなと言うのがおかしい。と言うより、自覚できない奴の方が、絶対におかしい」
 水月が、自覚できない者を一人思い浮かべながら吐き捨てると、優しい顔立ちの男は少しの間だけ顔を強張らせてから、小さく笑った。
「……まあ、そういう人も、中にはいますね」
 その心の機微を、正確に察し、水月は苦い顔を戻せない。
 男エンは、一人の自覚なしを思い浮かべ、つい感傷に浸りかかったが、水月の親しい自覚なしを思い出し、何とか気を取り直した。
 あいにくと、その水月と親しい方の自覚なしは、破格な自覚なしではない。
 だから実は、水月が思い浮かべた人物も、エンが思い浮かべた同じ自覚なしだったのだが、それは言わずに丁度辿り着いたそこを見上げた。
 不認可の保育園の、一つだ。
 立ち上げたのは水月の養父の律だが、今は人に任せている保育園の一つで、人間側に近い妖の子が主に通う園だった。
「どの時代でもあるんだが、望まれず生まれた混血の子が、無事に育って人として生き、更に人間と子を儲けた結果、どんどん人間側に近くなっていく。そんな中で、時々、元祖返りのような状態になる子が出てくる。勿論、そんなこと滅多にないんだが、妖どもはそれを恐れて、ここの子供くらいに血が薄まった者を、手にかけようとする傾向があるんだ」
 所謂元祖返りした子は大概、退治する側についてしまう傾向があるからだ。
そんなことは滅多にないが、楽観視していた一族が、成長したその手の術師に滅ぼされる話が、いくつか残っているため、特に同じ種族の血を引く子を、弱い内に片づけようと目論む。
「それを阻止できるよう、律がオレを配属した」
 ついでに、保育園の給食も、担当してもらえると助かると、園長からは言われていた。
「最近、職員が居つかないらしい。昼食の調理と護衛、それがお前の課された仕事だな」
「資格を持っていないんですが、大丈夫ですか?」
「それは、おいおい、だ。今の所は調理師も在籍しているが、定年した料理人で、高齢なんだ。今の内に、若い者に引き継いでおきたいと言うのもある。免許取得の制度もあるから、存分に活用しろ」
 それは、いいのかとエンは首を傾げた。
 それに頷き、水月も言う。
「戸籍の獲得が、まずは必要だが。それもおいおいだ。オレも、(みやび)に聞いているだけで、知らないからな。お前が、どのくらい使えるか」
 玄関の前で立ち止まり、振り返った。
 久しぶりに、目が合う。
「期待できるくらいには、使えると信じているぞ」
 言う水月の目は、半信半疑の色をしていた。

 目が覚めて一週間がたつ頃、水月から切り出された質問が、ここに来るきっかけだった。
 今まで、家事全般をこなす生活をしていたため、隙を見て世話になっている邸を掃除しようとしては止められ、調理場に立とうとしては自室にあてがわれている部屋に放り込まれる日々を過ごすエンに、水月が先に辟易したのだ。
「お前、子供は何人欲しい?」
 第一声が、それだった。
 質問の意図が分からず、それでもエンは正直に答えた。
「養える財力があれば、何人でも欲しいです」
「……」
 エンが押し込められている部屋にやって来た水月は、天井を上げてしばし考え、畳に直に正座する男を正面から見る。
「雅が、早く子供が欲しいと、訴えてきた」
「そ、そうですか」
 弟子である女の名を出され、及び腰になったのに気づき、その女の血縁上の父親は目を細める。
「お前の様子だと、子供は欲しいが、雅とは寝たくないように見えるんだが」
「そ、そこまで、はっきりとは拒絶していませんよ」
 慌てて首を振るエンは、最大限に疑われていることをひしひしと感じていた。
 一週間前の所業で、この人の自分に対する評価は地に落ちた。
 我を失っている自分を、あっさりとひっくり返す驚異的な存在は、畏怖をまた一人増やした形になるのだが、この男の娘も恐ろしい。
 ここではっきりと答えてしまっては、言質を取られたと思われ、今度こそ逃げられなくなりそうだ。
「ただ、この邸内のこの部屋に、そういう目的で入られるのは少し、躊躇いが……」
 雅はこの日も、エンの様子を見に訪ねてきた。
 意識がない間は入り浸ったが、起きて話をした後は、日に一度一時間ほど訪ねるだけで、すぐに辞して行く。
 だが、昨日から少し、様子がおかしい。
 何もできずに、逆に消耗しているエンと話す間、雅の目は狩人のようだ。
 いつか、恐ろしい話を切り出されそうで、怖い。
「……暇なら、子作りでもするかと訊かれたら、軽く頷いてしまいそうで、恐ろしいです」
「昼間からか?」
 それは、問題だなと、水月は真顔である。
 真顔で、至極冷静だ。
 それが、エンはいつも不思議だった。
「オレは、まだ子を持っていないので、世間の親子と比較するしかないのですが、娘に恋愛事の相談より先に、色事のそういう生々しい相談をされて、平然としているのは、おかしくないですか?」
「? お前、子は持っていないが、子供同然に育てた子はいたんだろう? そういう相談は、されなかったのか?」
 つい尋ねたら逆に問い返され、エンは詰まった。
 まだ、一週間だ。
 悲しみよりも、焦燥の方が上回り、それを気づかれたくなくて、必死に笑顔で取り繕う。
「オレに相談するような子では、なかったんです。それに、その子も父親には同じようなことを尋ねていましたが、尋ねられた方は大いに取り乱してましたよ」
「その父親の経験が、浅すぎたせいだろう」
 一般の高野家でも、似たようなことになったと聞いた気がするのだが、経験値の問題なのか?
 長く生きている割に、経験が浅いエンは、判断が出来ない。
 疑問はそのままに水月に意識を戻した男は、相手が真顔のまま自分を見つめているのに気付いた。
「……」
「まあ、動いていた方が、気は紛れるのは、オレも同じだ。そろそろ、手伝いは許可するか。だが、外出は、不可だ」
「あ、ありがとうございます」
 不可、とはっきり言うところを見ると、監視は全く緩められないという事だ。
 仕方ないかとも思う。
 少しずつ隙を見つけ、何とかここから逃げたいと、今でもそう思っているのだ。
 たかが一週間、大人しくしていたからと、諦めたとは思ってもらえないだろう。
 それこそ、長く時間をかけなければ。
 だが、そんなに長くここにいたくない。
「今日は、戸籍の件と、その財力をつけてもらうための手はずを持ってきた」
 ……でないと、本当に森口家の監視下で、落ち着く羽目になる。
「雅の方も、何処かに籍を作ったら、いい時期に婚姻でもして、環境のいい状態で、百人でも二百人でも、子を作ればいい」
「オレが、死んでしまいます」
 恐ろしく寛大な水月に、エンは逆に恐怖を覚えて、そう言ってしまった。
 百人も二百人も、子を作るための種は、自分一人から絞り出される言い方で、それも恐ろしい。
「どうせ、死ぬ気なのなら、生きた証くらい残して逝け」
「生きた証は、そんなにいりません」
 真顔の男の言い分に、その娘婿候補も真顔で返す。
 水月は舌打ちした。
「本当に、往生際が悪いな。お前、雅が嫌いなのか?」
「ですから、そういう質問は、返事が難しいんです。好き嫌いだけでは、この心境は言い切れません」
「じゃあ、どういう質問なら、答えられるんだ?」
 睨む男に、エンは真顔のまま答えた。
「弟子としても、女性としても、魅力的な人で、時々浮かぶ本当の笑顔はいつも見ほれてしまうほど、好きです」
「……」
「それだからこそ、あなたが言うように、オレでは役不足です」
 それなんだよな、と水月は深く頷いた。
 役不足だと言うのは、この父親も承知しているようだ。
 ほっとする反面、そこまで納得してくれなくともと、釈然としないものも胸に浮かぶ。
「だが、お前がどう思おうが、あの子が決めた相手だ。オレが反対するのもおかしい。だから、全面的な協力をすると決めている」
 言いながら、珍しく持ってきていた手提げ袋から、書類を取り出した。
 受け取ったA4サイズの茶封筒の中には、同じサイズの用紙が数十枚入っていた。
 そのどれにも、身長体重などの個人情報と、名前や住所が添えられている。
「この数年で死亡した、年齢一歳から五十歳までの男の資料だ。家族や親族、遠縁の存在がある者は、全て弾いておいたから、誰を選んでも大丈夫だ。子供からやり直すと言うならば、母親も見繕った上で、十数年は大人しくしておく必要はあるが、どうする?」
「……っ」
 思わず、悲鳴が出そうになったのは、森口家の情報網の広さがありありと分かったからというのもあるが、本当に取り込まれる寸前にいると感じたためでもあった。
 ここで下手に話に流されてしまったら、取り返しがつかなくなる。
 今では、この作業も難しくはないだろう。
 だが、どう考えても犯罪の匂いがするこの情報のはじき出しを、記録が残るものに頼ったとは到底思えない。
 つまり、自分が来てから一週間で、必要な人材を割り振る作業を、誰かが行ったのだ。
 という事は、傘下に入った後、姿を消した者を探すくらい、簡単にできる人材も、いるという事だ。
 何とか、断れないかと頭を働かせる男に、水月が若干籠った声を出す。
「律のこの一週間の働きを、無にしないでほしいんだが。それに、なぜこうも戸籍獲得を急いでいると思う?」
 エンが目を覚まし、雅がようやくこの邸を辞す時、真顔で言った台詞が、少々気に障ったのだと、父親は言った。
「お前の逃走能力を、高く買っているようでな、雅はお前の体力が戻ったらすぐ、子種を貰いたいと相談してきたんだよ」
 だから、実の父親に、何を相談しているのか。
 エンはぎょっとして顔を上げ、目の据わった男を見てしまった。
「いくら、オレが絶対に逃がさないからと、口を酸っぱくして言い聞かせても、絶対に隙を見つけるからと、信じてくれん。後を追う事が許せないなら、生きる目的をくださいと、真顔で頼まれた。父親としては、ここまで馬鹿にされて、黙ってはいられん」
 言いつくろう事も反論も出来ない男が、顔を引きつらせて口をパクパクさせる様を見ながら、水月は優しく笑った。
「こうなれば、早めにこちらの傘下に引き込んで、逃げられなくしてやろうじゃないか。その上で、あの子の婿として十分なほどに、調……更生させる」
 今、調教、と言おうとしなかったか?
 言い返したかったが、その雰囲気にのまれ、言葉に詰まったエンにはそれは叶わなかった。
 結局、適度な戸籍を作る目途を立て、現在は職場へとやって来たのだった。

 玄関先で出迎えたのは、事務員らしき若い女性だった。
 二人分のスリッパを出しながら、その女性は大げさに溜息を吐いて呟く。
「本当に、あんたが来たんだ」
「来たくて来たんじゃない。こいつが、訳アリだと言うのは、連絡しただろう? オレは、監視役だ」
 ごく小さな声なのに、あっさりその呟きを拾った水月が返す。
「就職先でも顔を合わせるなど、予想外だ」
「……悪かったわよ。私も、就職先の上の上に、あんたがいるとは思ってなかったの」
 気まずそうな女が、それでも事務的に園長の待つ応接室へと案内してくれる。
 どうやら、水月とかなり親しいようだ。
 疑いを顔に出した覚えはないのに、水月が顔をしかめた。
「勘違いするな、知己ではあるが、お前が考えるような知己じゃない。証拠に、名前が分からん」
「ちょっ、小学生の時から、何度同じクラスになったと思ってるのっ? 分からないは、わざとらしすぎるわっ」
 むっとした女性の、涙ぐんだ表情を見て、エンはつい思い当ってしまった。
「まさか、この人を揶揄っていた女子って、あなたですか?」
「はっきり訊くな。……中学の時、まさかあんなネタを考え付くとは。あれは純粋に驚いた」
「そういう事は、高く買わなくてもいいからっ。名前を覚えてよっ」
 切実な女の言葉に、水月は目をそらしながら返した。
「聞いたら分かるが、すぐに忘れてしまうんだ」
「嘘ばっかり」
 所謂幼馴染の前では、年相応の仕草をする。
 エンは秘かにそう発見した。
 険悪な声音にはなっていない水月と、事務員の女性と共に廊下を歩き、奥の部屋へと案内された。
 応接室、と表札のついたドアをノックし、女性が予約の来客を告げて扉を開いた。
「どうぞ」
 室内には、老人がいた。
 細身で小柄な、つついただけで倒れそうな男だ。
 皴の刻まれた顔の、細い目を更に細くして笑い、二人に席を勧める。
「わざわざご足労頂き、恐縮です」
「ご無沙汰している。今の所、息災のようだな」
 二人が腰を下ろし、先の女性が茶を置いて行ったのを見計らい、老人が丁寧に頭を下げ、水月も静かに受けた。
 エンは黙ったまま頭を下げ、それを待った男に老人を紹介された。
「ここの園長で、隣接している孤児院の院長でもある、楠木(くすき)、だ」
「初めまして、カエン、と申します」
「資料は拝見しています。珍しい漢字を当てますな。炎のほうではなく、燕の方ですか」
 のどかに感想を述べられ、エンは曖昧に笑う。
 霞燕と当てる本名は、故郷では禁忌とされているのだが、どうやら母は、実父に見つけやすいようにと、あえてその字を当てたらしい。
 それを考えると忌々しく、使いたくない本名だが、記名を指示された時、偽りなく書いてしまった。
 いつもオキの傍にいたので気づかなかったが、森口律も水月の弟子と言うだけあって、威圧感が半端なく、脅されたわけでもないのに勢いに呑まれて、記名してしまったのだ。
 その時の事を思い出し、内心苦い気持ちになっているエンに構わず、水月が楠木と名乗った老人と会話を続けている。
「……という事なんだ。恐らくは大丈夫だろうから、長期での採用を考えてやってくれ」
「分かりました。それでは、こちらの相談も、お話します」
 一時間ほどの面談の後、二人はこれから住まう事になる寮へと、案内された。

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