芽生えの年

文字数 30,320文字

一、

ワーワーと歓声が響く闘技場の中心には、昨年と同じ男と女。
「待たせたなぁユシャ! 今年こそ、お前のその首を落としてやるッ!」
 長い黒髪を一つに結いあげた女が、金髪の男の前に対峙している。女の赤い瞳は、目の前の彼の首を獲らんとギラギラと光を放つ。それを迎え撃つ男は、大仰な言葉に身振り手振りで偉大なる英雄としての振る舞いを完璧にこなしていた。
「アノニス、今年も君が勝ち上がってきたのか。ここで同じ人間と戦うことになるのは初めてだ」
昨年の大会では刃を交えている瞬間ですらすっかり忘れていたその名を叫んで、民が喜ぶように高らかな歓迎の言葉を述べる。そうして英雄然とした振る舞いを終えた男は、剣を引き抜き構えると空気を一転させ、常の誰からも愛される笑顔とは程遠い狂気的な笑みを浮かべて彼女を迎えた。男がこんな表情を浮かべるのは、彼女と対峙するときだけだ。
客席の熱が遠ざかり、この場にだけ張り詰めた静寂が訪れるような、そんな緊張感の中仕合が始まる。女が一歩踏み込むと同時に男もまた動き出す。刃を交え、互いに一歩引き、出方を窺い、隙をつき、刃を突き立てては防ぎ、交えては離れる。そんな攻防を繰り返し、繰り返し続けていた。奇策のような一手、単純に力でねじ伏せるような一手、互いに己の知恵と体をもって上手く攻めては上手く防ぎ、力強く攻め込んでは軽くいなして避ける。
男と対峙してこれほど長く拮抗した戦いを見せるのは彼女が初めてであった。観客は沸き立ち、かつてない程の盛り上がりを見せる。そして英雄である男の血もまた沸き立っていた。だが彼はまだそのことに気づいていない。彼は自分の感情を見極めることが苦手であった。与えられた英雄の役をこなす瞬間は、あれほどの笑顔を振り舞いているというのに、いざ舞台袖へと引き上げればその表情は驚くほど乏しい。そんな彼が、己の中に微かに芽生える愉悦に気づけるはずもなかった。
「そこまで! 」
もう少し、あと少し、続いてくれ。終わらないでくれ。そんな彼自身でも気づけないような小さな願いを裏切って、ついに戦いは勝者を決する。
四年目の英雄の座を死守したのは男、ユシャであった。切っ先を突き付けられた女は、まるで一年前のあのときのように悔しさと憎しみをにじませた赤い瞳で男を睨みつけている。その瞳は美しく、彼は少しの間その瞳に見惚れて英雄としての振る舞いを忘れてしまったほどだ。
「やはり、今年も最高の仕合だった。君ほど強い人と二度も戦えて嬉しいよ」
「私も、英雄様と二度も戦えるなんて光栄だ……次こそは負けない」
 ユシャが手を差し出す前にアノニスはさっさと立ち上がっていた。再び二人が中心で握手を交わすのを民達は称えたのであった。



 闘技会を終えたユシャとアノニス、そして新たに選ばれた三人の従者は室内へと引き返す。嘗て国が管理していた闘技場は、大会の運営業務と共に民間にまとめて任されている。つまり、英雄と従者に選ばれた者達の拠点となる事務所はこの闘技場に併設された施設の一室だ。古には王城であった建物が、見た目はそのままにそっくり国の政治活動の拠点として中身は最新のオフィスになっているように、この闘技場や併設の建物たちも見た目は古臭いが、中身はキッチリと最新式だ。仕合のためのシャワー室や更衣室なども用意されている他、事務所のおかれている塔には英雄役やその従者役の者達が住みこんでいるため、各部屋と生活に必要な設備が整っている。
 新たに加わった三人はこれからの生活や仕事について説明を受ける。結局今年もアノニス以外の三人の従者は全て一新されたのだ。アノニスは歴代で初めての女性従者であると同時に、従者の継続記録を更新することとなった。
この後に説明を控える三人とは別れ、廊下に残されたのは英雄ユシャと従者アノニスだけ。
「いや~相変わらず強いな、ユシャ。あーあ、動き回ったから汗がひどい。さっさとシャワーでも浴びに行こうぜ」
「そうだな」
 アノニスはいつも通りユシャへ気安く話しかける。これは昨年初めて従者に選ばれたときから変わらなかった。闘技会に出る者たちは大概ユシャに憧れを抱いた者達ばかりで、彼の従者になれることに心の底から充足することのできる者達ばかりだ。皆取り巻きのようにユシャ様ユシャ様と言う彼らから見ればアノニスは異端であった。昨年の大会を終えてすぐ彼女が発した『よぉユシャ! 人目のつかぬところだとこんなに不愛想とは、意外だな! 』という気安い言葉を聞いた周りのどよめきときたら、今思い出しても面白いぐらいだ。
余談ではあるが、観客の目につかない場所へ入ったとたん表情を消したユシャを見ても何も思わない男たちは、彼に対して尊敬を超え最早信仰の念すら抱いているようだった。一周まわって無関心を超えるほどの信仰の盲目を見たアノニスは、あれほど妬んでいたユシャ相手であっても同情せずにはいられなかった。いや、実際彼らはユシャという存在に関心などなかったのかもしれないけれど。
「そうだなって言うけど、お前ほんとに汗とかかいてる? 」
「かいているが? 」
「涼しい顔しちゃって。とてもそんなふうには見えないけどな」
 英雄ユシャにこれほど気安く話しかける者はアノニスのみであった。ユシャはそれに対し愛想の無い返事か、あるいは無言を返すのみ。それでもそこで引くのはアノニスのプライドが許さなかった。
そうして何度も声をかけ続けた結果、最近ではアノニスの言葉には必ず返事が返ってくるようになったのだ。相変わらず愛想はなかったが。
 どうしてあれほど憎み妬んだ男にこれほどまでに気さくに声をかけているのかと言えば、それもまた彼女のプライドの問題であった。負けた相手を邪険にするだなんて、すねた子供のすることだ。しかし愛想よくふるまうにしても、周りのように彼の下につくのはごめんだった。だからこうして親しげに話しかけ、対等な友人のような形を保ってきたのだ。もちろん形はどうあれ彼がアノニスをどう思っているのかなどわかりはしない。友人などとは思われていないだろうことだけは確かだが。そんなことはどうでもいいのだ。アノニスだって、彼を親しい友人だと思っているわけではない。
それでも彼女には自信があった。全ての感情を隠して、彼と友人になることを望んでいるただの一人として、すべてを騙し過ごしきる自信が。
「んじゃ、さっさと浴びてこいよ。他の奴等も説明終わったら来るだろうし、食事の前にまた顔合わせとかするだろ」
 アノニスはユシャを手前のシャワー室に押し込んで、自分はもう少し離れた場所にある少し小ささいシャワー室を使う。元より闘技会の為に作られたようなこの会場は女性用の更衣室など存在しなかった。しかし徐々に闘技会の価値が薄れるとともに、この会場はスポーツなどのスタジアムとして活用されることも多くなり、内部の設備を新しくするにあたり女性用の更衣室や、男女それぞれのシャワー室などを用意することとなったのだ。今では闘技会の会場としての印象が再び盛り返してきているが、その闘技会もまた男女に分け隔てなく開かれるようになったため、作ったことは正解だったと言えるだろう。シャワー室は更衣室に付随する形で作られているので、もともとあった男性用更衣室の隣に無理矢理作った女子更衣室とシャワー室は若干男性用のものよりも小さくなってはいるが、紅一点のアノニスにはそれで十分だ。
 シャワー室に入り結っていた髪を下ろすと、頭から湯を浴びた。時間もあまりないので文字通り汗を流す程度のことしかできないが、それでも十分だ。湯に打たれ、未だに腹の内を這いずる悔しさを落着けようとこころみる。
「また勝てなかった」
 今年こそは、本当にあの男の首を落とす気ですらいたというのに。結局は負けた。誰よりも追い詰めたはずだ。それは間違いない。今年もまた少しだけ昨年よりレベルが高まったとはいえ、やはりどの挑戦者も皆二人には遠く及ばない実力であった。アノニスはトーナメントでは圧倒的な差を見せトップに輝いた。そして立ちはだかるユシャを嘗てないほどまでに追い詰めて見せた。それでも勝てなかった。崖の淵に立たされて、あと一押しで落ちるような、そんな局面からの彼のギラついた瞳が今も目に焼き付いている。

嗚呼、強い。憎い。ああなりたい。尊敬する。羨ましい。妬ましい。

「はぁ」
 深く吸い込んだ息を吐きだす。たった一つの深呼吸。それだけで、彼女は頭の中を切り替えた。
「よ、ユシャ。髪はちゃんと乾かしたか? 」
「きみこそ。長いだろう? 」
 相変わらず動かない表情と平坦な声。愛想の無い短い返事には慣れてきた。今更気にすることもない。そもそも最初から気にしたことなどないのだ。
 アノニスは隣の、自分より若干低い位置にある金色のくせ毛の中に手を突っ込んで、少し乱暴に頭を撫でまわした。それにもユシャはされるがままで、抵抗はしない。
「ん。ちゃんと乾いてるな」
彼の隣では勝手に振る舞うぐらいでちょうどいいのだ。己のプライドの為にそうしてきたことが、最近になって最適な距離の取り方であったことに気づきはじめていた。
「ん……」
「ん? 」
「いや、なんでもない」
 好き勝手にかき乱した髪から手を放す直前、少しだけユシャの頭がこちらへ傾いた。指に髪が絡まったのか、ほんの一瞬つられたように。しかし、なんでもないとすぐに元の位置へと戻された頭を追う髪は指の間をするりと滑り簡単に離れていった。
「ユシャ……? どうしたんだ? 」
「ほんとうになんでもないさ」
 ほんの少しの違和感。いつもの変わらない表情、平坦な声、短い返事。全ていつも通りであるのに、こんなユシャを見るのはなんだか初めてのような気がした。

「ユシャ様! 」
 そんな繊細で微かな違和感など吹き飛ばす程、大きな張りのある声に二人は振り返る。
 そこに立っていたのは、今年齢十五の歳を迎えたばかりの三人の少年たち。先ほどの大会で上位に立ち、従者役に選ばれた新たな英雄の取り巻きトリオだ。容姿も声も身長も前の者達とはみな違うというのに、何故だか一様に同じ態度で、同じような言葉で、同じ表情でユシャを信仰する。全員が入れ代わったというのに代わり映えのしない三人だ。
「ユシャ様の御傍に立てるだなんて、夢のようです! 明日死んでも悔いはないぐらいだ」
 あっという間に英雄は取り囲まれ、アノニスは一人輪からはじき出される。やはり一従者でしかない自分は、彼のように価値を確立されていない。先ほど押し込んだはずの劣等感が顔を出す。英雄であることが決して楽ではないこと、それはこの一年彼の傍にいてよくわかっていた。ユシャが英雄としてこの地に登場してほんの数年ではあるが、完璧なプロデュースとそれに応える彼の働きで、一部の者達はついに彼を神格化し始めていた。それが異常であることをアノニスは理解していた。
 誰からも称えられる英雄が羨ましい。その一方で彼が痛ましいと思う気持ちが心のどこかにあるのも事実であった。彼女はまだそのことに気づけていないかもしれないが。確かに小さくそこに存在していた。



 顔合わせと食事会を終えて皆それぞれ与えられた部屋へと引き返す。今日から従者になった者達は一度家へ帰り、そうしてこちらへと越してこなければならない。それと同時に、今日で従者を終える者たちは早々にここから引き上げなければならず、今頃その準備に追われているはずだ。
 ユシャは布団にもぐり家族のことを考えていた。英雄の座についてから、あるいはその前から過去のことなど振り返ってこなかったが、そういえば自分はいったいどんな子供であっただろうか。いつからこんなにも感動の無い人間になってしまったのだろか。彼らのことを思い出そうとするうちに、そんなことが何故だか今更気になりだした。
 昔はユシャにも楽しいことがあった。そうだ、嘗ての自分は剣術の仕合を何よりも楽しいと思っていたはずだ。父も母も剣術ばかりに熱心に打ち込む自分をよく心配していた。それほどまでに夢中だった。しかしいつからつまらないものになり果ててしまったのだろう。彼は少し思い返す。
剣術の稽古は男ならば皆一度は受けなければならない。最低で三年間、スクールに通うなかで教わるそれは、いわばこの国の義務教育だ。ユシャが学生だった頃、最早闘技会の伝統など廃れつつあった当時は剣術等に興味を持つ者は少なく、スクールでの稽古を越えてこれを続けるものは少なかった。しかし幼いユシャはそれにすっかり心を捕まれてしまったのだ。
父も母もそんなユシャを止めることはなかった。夢中になれることがあるのは彼にとってよきことだと思っていたからだ。何より彼には剣術の才能があった。ただ、その才能故に周りから孤立していくユシャのことだけは、両親も心配せずにはいられなかった。
一方ユシャ自身は、両親の心配をよそに孤立していくことにも大したショックはなかったように思う。誰も相手をしてくれなくなり残念だと思いこそすれ、傷つくことはなかった。友人が居らずとも、剣を振るうことだけを考えていればそれでよかったのだ。
とはいえスクールの中だけではなく外でも相手をしたがる者が居なくなり、ついに師にまでもう勘弁してくれと投げ出された頃には、さすがに退屈を感じ始めていた。自分の技を磨くことは好きであったが、そうしてユシャが強くなればなるほど考えた戦術や身に着けた技術を全て出し切れるような仕合はなくなっていった。そうしてついには仕合そのものまでする相手がいなくなってしまったのだから、いつまでも無邪気で楽しいばかりではいられない。
ユシャは本当に剣術に心を奪われてしまったのだ。両親に撫でられること、そして彼らと手を繋いで出掛けること、他の子達と遊ぶこと、剣術に出会うまでは嬉しいこと、楽しいこと、好きなことがたくさんあった。友人も多くはなかったが何人かいたし、好きな食べ物も歌も遊びもあった。
だが、スクールで剣術に始めて触れたとき、ユシャの世界はそれ一色になってしまったのだ。嬉しいこと、楽しいこと、好きなこと、その全てが剣術となり、家族へ向けた愛も、友に向けた友情も、他の全ての心をそれへと注ぐようになった。ユシャの世界はひどく狭まり、剣術しかなくなってしまったといっても過言ではない。それほどまでに夢中になった剣術に、他を捨てて何もかもを捧げた唯一に退屈を感じ、ユシャの心が少しずつ動かなくなっていったのは、当然のことであったのかもしれない。
両親はそんなユシャをいつも心配してくれていたように思う。あのときは、いや今日まで気づきもしなかったが、少しずつ表情を失っていくユシャの姿を見つめる両親の顔はいつも心配をにじませていた。それでも彼らはユシャから剣術を取り上げることはなかったし、無理に友人をつくれとも言わなかった。ただそれとなく、もしかしたら他に夢中になれることがあるかもしれないとユシャを励ますだけ。
「そうだ」
父は、よくユシャの頭を撫でていた。そしてユシャを励ますときは決まって少し乱暴にくしゃくしゃと髪を乱すのだ。
先ほどアノニスがそうしたように。
なぜ両親のことなんて突然思い出したのか、それはきっとアノニスのせいだ。あのとき髪を掻き回す手から離れがたかったのは、きっとあの手に父を重ねていたからだ。嘗てユシャは親に撫でられることに幸福を感じていた。そして剣術に全てを捧げ、その全てを失ったように思っていたあのときも、心のどこかで彼らの手に安らぎを感じていたのだ。
 胸に揺れる微かな感情をいったいなんと呼ぶべきなのだろう。父の手が恋しいような、母の胸に飛び込みたいような、しかしそれは叶えられない。両親とは遠く離れた独りの夜。ユシャはなんだか無性にアノニスに会いたくなって、コンコンと部屋の壁を叩いた。

 その壁の向こうでアノニスもまた、眠れぬ夜を過ごしていたのだった。少しくたびれた毛布にくるまり、新たに加わった従者達の顔を思い出す。一人は穏やかそうな少年で、表面上はアノニスの実力を認め好意的に接してくれていた。ただあの穏やかな笑みの下にいったい何を隠しているのかわからない男だ。対して他の二人は非常にわかりやすく彼女へ敵意を向けていた。崇高なユシャ様に気安く話しかける女のことが気に食わないのであろう。以前いた三人も同じであった。だがアノニスは彼らから向けられる敵意など気にしたこともなかった。誰一人として彼女には勝てないような者達だ。自分を負かすユシャ以外の誰にも文句を言われる筋合いなどない。そう思っていた。
 彼女が見据えるのは英雄のまばゆい光だけ。そしてそれに群がる従者や民衆の姿である。それらが自分に敵意を向けていること自体はどうでもいいのだ。ただ彼らが光に吸い寄せられている。そのことはアノニスにとって重要であった。
「ああ早く何者かになりたい。役立たずの、何にもなれないアノニスではないなにかに」

そうしたらきっと、きっと皆が私を認めてくれるんだ。

 毛布を頭まで引き上げて目を閉じる。もう寝てしまおう。そう考えていたとき、コンコンと壁が鳴った。この向こうに居るのはユシャだ。
 彼がおきているだなんて珍しい。ユシャは仕事のためであればいくらでも睡眠時間を削れるような男であったが、その一方で布団に入ってしまえば、無駄な時間を使う気は一切ないとでもいうように一瞬にして眠りにつくような男であった。
 ただ眠っている間に手がぶつかっただけかもしれない。アノニスはどうするか少し迷ったが、コンと一度壁を叩き返してやった。すると再びコンコンと音が二つ返ってくる。
どうやら起きているらしい。
この二つの音が何を表すのか、そんなことはわからない。同じようにこちらの意図も彼には伝わらないだろう。それでもアノニスはもう寝ろという意味を込めてもう一度壁を叩く。これ以上は返事が来ても対応しないつもりでいたが、意図が伝わったのかそれとももう眠りについたのか、それ以上返事がくることはなかった。

「よ。おはよう」
「おはよう」
「……」
 翌朝顔を合わせてみればユシャは拍子抜けするほどいつも通りで、昨晩の密やかなやり取りなどまるで存在していなかったかのような振る舞いに、アノニスはほんの少し戸惑った。
アノニスは今までユシャに何度も話しかけ、短い返事を引き出してきたが、ユシャからアノニスへ話しかけることは一度たりともなかった。いや、そこまで言えば嘘になるかもしれないが、仕事を離れプライベートの話となればそれも過言ではない。そもそもユシャは仕事でなければ本当に最低限のことしか話さないような男だ。民衆の目から離れた彼はアノニスに限らず、他の誰が相手でも自分から声をかけることなど滅多にない。その彼が初めて自ら発したものが、あの壁を叩く二つの音だったのだ。彼に何か変化が起きたのだろうか。だが実際目覚めてから顔を合わせた彼は、昨日までと変わらないままであった。あの時間が夢であったのかと思うほどに。
「アノニス」
「え! ……あ、なに? 」
 突然。
英雄の皮を被らぬありのままのユシャから初めて名を呼ばれたことに、アノニスは驚き、一瞬動揺した。あまりにも彼が通常通りなものだから、昨晩のことがありながら油断していたのだ。
「昨日はありがとう。君が起きていてよかった」
 だがやはりあれは夢ではなかったようだ。
 アノニスは自分の目を疑った。彼が感謝を告げる瞬間、微かに。本当に微かにであったが頬を緩めたように見えたからだ。だがそれも一瞬のこと、アノニスが驚いて見つめている顔はやはりいつも通り無の表情で、何の感情も読み取ることはできなかった。
 ユシャは自分が伝えたいことを伝え満足したのか、返事がないことも気にせず振り返ると、そのまま固まるアノニスを置いて廊下の先へ進んでいった。
「なに。どうしちゃったの? 」
 置き去りにされた女は、ただ遠ざかっていく男の背を呆然と見つめることしかできなかった。自分も早く行かなければならないことは分かっているが、今はまだ動けそうにない。
 別にユシャから話しかけられるからといって困ることがあるわけではないのだ。彼がこのまま表情豊かな人間になっていったとしても、アノニスには何の害もない。ないけれど。それでも今まで当たり前だと思っていたものが突然そのきっかけもわからずに変化してしまったら人間はだれしも怖いと思うものだろう。それは喜びとか、嫌悪とか、そんな感情で測れるようなものではない。まるで世界がどこかおかしくなってしまったような、そんな奇妙な気持ちが今まさに彼女の中を漂っていた。
「今日一日どうしたらいいんだ……」
 英雄として引っ張りだこのユシャと、従者としてようやく存在を定着させつつアノニスでは仕事の量も変わってくる。一日中別行動で顔を合わせない日だって少なくはないのだ。であるにもかかわらず、今日に限って一日中彼と行動を共にする予定である。何故よりにもよって。そう思わずにはいられないが、仕事なのだから仕方がない。
ユシャを前にしても動揺を見せないよう、切り替えなければならない。幸いそれはアノニスにとって得意なことのはずだ。いつも通りにすればいい。
深呼吸を一つ。
それで一度落ち着きを取り戻した彼女は、男が消えていった廊下の先へ足を踏み出した。早くしなければ朝食を食べる時間を失ってしまう。
「というかあいつ、会話をするのが下手くそすぎないか? 」
 一人言いたいことだけをぶつけて、今頃固まるアノニスの事など気にもせず食事をしているであろう男を思うと、少し怒りがわいてきた。誰からも愛される英雄なら、無自覚の傲慢な振る舞いの一つもきっと許されるのだろう。あれはアノニスにはあと一歩手の届かない座について、当然のような顔をしている男だ。憎たらしい。そうだ。それでいいのだ。ユシャがどう変わろうと関係ない。アノニスが考えるべきは彼の首を獲り英雄になることだけ。
 いつも通りにすればいい。それだけだ。

 食堂の扉を開くと、中にはユシャと見慣れない三人の男達がいた。そうだ、昨日から彼らが新しい従者になったのであった。寝る間際の衝撃でそんなことも抜け落ちていた。
彼らの手元の皿は片付けられており、あるのはカップのみだ。もう食事はとっくに終わっているのだろう。ユシャはそんな三人から離れたところに着き一人で黙々と食事をとっていた。アノニスはそれぞれ一つずつ残されているパンやサラダの盛られた皿をプレートの上に集めると、とりあえずユシャのいるテーブルへ向かった。普段と変わらないように、いや普段よりかいくらか乱暴にはなってしまったが、彼の隣へ腰かけた。
アノニスは基本的に一人でゆっくり食事をとることが多いのだが、こうして適度にユシャの隣にもつくようにしていた。どちらかと言えば一人で落着いて食事をする方が好きなのだが、普段話しかける距離感と比べてあまり不自然にならないようある程度距離感を調節する必要もあるのだ。
「もう食べ終わるのか? 早いな」
 先ほど廊下で別れたばかりのはずだが、ユシャの皿はもうほとんど空になっていた。ほんの少しの間固まっていたとはいえ、それほど時間が経ったわけではないはずだ。
「君も早く食べろ。時間がないぞ」
「ああ、そうだった」
 食事を用意してくれるスタッフには申し訳ないが、少し急いで食事をとらせてもらう。普段であればもう少しゆっくりと味わって食べるのだが、今日はどこかの英雄に捕まって話をしていたせいで時間が無くなってしまった。
「お前も廊下じゃなくて、食べながら話てくれりゃあよかったんだぜ? 」
「それは……すまない。だが」
「? 」
 そのまま同意するだけなのも癪なので少しだけ文句を言わせてもらったが、それに対する彼の反応が予想外の歯切れの悪さで、アノニスは少し驚いた。彼のことだから短く、すまない。と、本当にそう思っているのかもわからない平坦な声で謝って終わりだろうと思っていた。だが彼には何かアノニスには言い難い事情があったようだ。
「……ここでは言いづらかったんだ」
「ふーん」
 ユシャは相変わらず読めない表情のままであったが、目だけは気まずげに逸らしている。お前にも言いづらいことがあるのかとか、いったい何故ここでは言えないのかとか、つつく場所はいくらでもあったが、口に物が入っていたのであまり凝った返事はできなかった。それにあまり時間もない。珍しく歯切れのわるいユシャは正直少し面白いのでここで遊んでやれないことは残念であったが、この話はまたあとでゆっくりとさせてもらおう。なにせ今日は一日中行動を共にするのだから、隙間などいくらでもあるはずだ。先ほどは憂鬱に思っていたことだが、アノニスにも少しだけ楽しみができた。

 ちょうどアノニスが皿を空にすると同時に、食堂に鐘が鳴り響いた。いや、食堂だけではない。鐘の音はこの塔内から隣の闘技場、全ての部屋廊下どこにいても聞こえるよう隅々までに鳴り響く。三回鳴らされる音は始業十分前の合図だ。さらに始業時と終業時には五回鳴らされる。この鐘はもともと闘技会の始まりを知らせるために闘技場に設置されていたものだ。もちろん現在でも年に一度はその役割を果たしているが、それ以外ではこうして日常の時間を知らせるチャイム代わりに利用されている。
「なんとか間に合った。残さずに済んでよかったな」
 空の皿を乗せたプレートを回収用の台車へ運び、それぞれの皿を重ねていく。アノニスを追ってユシャも食器をさげにいく。
「別にお前は私を待たずに先に行けばよかっただろう。ま、いいや。それより、さっきの話はあとで聞かせてもらうぜ? 」
「二人のときならな」
「そう。じゃ、楽しみにしとく」
 社長室へ向かいながら彼女は少し意地悪な笑みでユシャに言った。それを聞いたユシャは特に不満などは見せなかったが、内心どうであったか。アノニスはそれを想像して少しいい気分になった。
 英雄と従者達は毎朝社長室に一度揃ってからそれぞれの仕事へ向かう。始業時の挨拶は外部での仕事が始業時刻前に入っている場合などを除けば必ず行われる決まりであった。
 部屋の中へ入ると、先に食堂を出ていた三人は既に揃っていた。ユシャを一歩前へ出し、アノニスは他の三人の横へついた。
 全員が並び暫くして、部屋の中に鐘の音が鳴り響いた。今度は五回、始業の合図だ。
 それと同時にデスクのすぐ横にある扉から社長が現われる。闘技会とその会場運営を任されている企業の取締役だ。それに続いて、この塔に配属されている広報担当職員たち。いわば英雄や従者のプロデューサーのような存在の彼らは、英雄と従者達のさらにその後ろ、廊下に面したデスク正面の扉の前に横一列で並んだ。
「おはよう」
 まずは社長からの挨拶。それから朝から聞くには少し退屈な話をきいたのち、彼に促された職員による今日一日の流れの説明を受けて始業挨拶は終了する。
「本日はこの後撮影と取材が入っています。その後新人の皆さんは飛行訓練です。」
 新しい顔ぶれをいち早く記事にしようと各媒体から取材や撮影が入っている。しばらくはメディア関係の仕事が多くなるだろう。それから新人たちには飛行訓練もある。二週間もあればそれなりに飛べるようになるはずだが、それまでは他の仕事に入ることはできない。
「ユシャ様と従者アノニスはその間もう一件の取材を受けていただき、終わり次第高原を超えて山側にある集落へ飛んでもらいます。隣接する森から畑への侵入が確認されているそうです。足跡からしてそう大きな固体ではないそうですが、油断なされませんよう」
 そうなってくると、各地の見回りや害獣駆除などの仕事はユシャとアノニスの二人で回すことになる。
「またしばらく忙しくなるけど、頼んだよ。今年はアノニス君も残ってくれたから、助かるね」
 社長は、ははは。と笑って座り心地のよさそうな椅子に腰かける。彼が席に着いたら、挨拶終了の合図だ。
「では、皆さん。四階の多目的ホールへ移動してください」
 撮影や取材は主に塔の中で行われる。もちろん他所へ出向いて行うこともあるが、まだ飛行訓練の済んでいない新人がいるうちは、しばらくこの中で完結するようにセッティングされているはずだ。幸いなことに広い部屋はたくさんある。従者や英雄たちに与えられている部屋も、食堂として使われている部屋も、先ほどの社長が居座っている社長室や広報部所の出張事務所だって、全てそうした部屋を改装して作られている。そして、それでも余りある部屋たちを撮影や取材のために使っているのだ。
 今日の撮影は紙媒体や映像媒体など多岐にわたり入っている。新聞などの場合は撮影さえ済ませてしまえば、後の取材はスタッフの対応で構わないこともあるが、雑誌などは本人へのインタビュー記事として組まれていることも多いのである程度拘束される。だが今日はなかなか調子がいい。新人たちも非常に優秀で、トラブルなく仕事が片付いていく。四階、五階、三階、二階と各フロアを転々としながら順調に仕事をこなし、昼の時間には全員で食堂へ帰ってくることができた。
 昼食をとり終えると、三人は闘技場へと向かった。ユシャとアノニスの二人は六階の一室で取材を終え、撮影の為に外していた剣帯を装着しながら昇降機で屋上を目指していた。
 闘技場の残るこの街は、近くに王城があるように嘗て国の中心地だった。もちろん現在でも王城が政治の拠点となっており、国の中心であることに違いはないが。ここは当時から人が多く栄えていたのだ。そのため同じように当時の人たちが立てた娯楽施設や、教育施設など同じ時代に作られた建造物も多い。王城やこの闘技場が今も当時のままの外観を保っているように、他の施設もまた内装を現代の生活様式に合わせつつも見た目は当時の姿のまま残っているのだ。そしてそれらの建物に合わせて町全体も当時のままの雰囲気を残したつくりになっている。道幅なども当時のままになっており、細く入り組んだ道ばかりの迷路のような街なのだ。
そんな歩行以外の移動が適さないこの街で、急ぎの移動手段と言えば空を飛ぶことであった。今他の三人が受けている飛行訓練というのは、まさにこの技術を身に着けるためのものだ。
二人は屋上に着くと、大きな鳥小屋から人と同じぐらいの背丈がある大鷲を呼び出す。彼らの体にはハーネスが取り付けられており、胸の前でクロスしたそれが羽根を避けるように後ろに回されて、首の裏と尾羽の付け根あたりでとめられている。それを確認した二人も、それぞれ腰にベルトを装着していく。ぐるりと巻き付けられた腰のそれから上へ延びる二本のベルトを肩から背中へまわし、クロスさせた状態で後ろ腰の金具へ固定する。そうして今度は下へ垂れ下がっているベルトを、大鷲のハーネスに取り付けた。これが落下防止のセーフティベルトである。それらがしっかりと固定されていることを確認し、鳥たちの機嫌を取ってようやく鞍に乗ることができるのだ。
ゴーグルを装着して、許可を取ってから背に飛び乗る。足は下ろせないので、膝を折りたたんで上に乗り、さらにハーネスに取り付けられた手綱を握って準備は完了だ。
「ユシャ、飛べるか? 」
「ああ。いつでも大丈夫だ」
「んじゃ、いくぞ! 」
アノニスは背を借りた鷲の頭を一撫ですると、手綱を引き飛び上がった。それに続きユシャも空へと飛び立つ。
「高原の先の集落か。向かい風になるが頼むぜ」
 アノニスが唇を寄せてやると、大鷲は嬉しそうに鳴いた。
 そういえば屋上の小屋から鷲たちを呼び出すと、彼らはいつも決まってアノニスの前へ集まる。そして役目を終えた後も必ずなつっこく彼女に頭を擦り付けてから小屋へと戻っていく。
「君はこの子たちと仲がいいな」
「そうか? お前が嫌われてるんじゃなくて? 」
「そんなことは、ないと思うが」
 ないとは思うけれども、そうは言い切れない。ユシャにはあまり彼らの表情がわからなかった。
「ふふ、お前鷲使いが荒いからな」
「そうだろうか? 」
 アノニスはくすくす笑ってユシャより少し前を飛んでいく。
「まぁ嫌われてはいないと思うよ。じゃないと背中に乗せてなんてくれない」
「そうか」
「うん」
 なんだか今日のアノニスは少しご機嫌だ。今日は心なしか口数が多い気がする。彼女はユシャによく話しかけてくるが、その実あまりうるさい人ではない。気さくだがおしゃべりではないし、互いに無言でも気まずい空気を出すことはなかった。会話は続かないことに関してはユシャの返答のせいでもあったが、とにかく短いやり取りを終えたらあとは黙ってそれきりだ。それが何だか今日はよく話す。
実際アノニスの機嫌が良いのは確かに事実だ。だが、彼女がよく話す理由はユシャ自身の口数が増えたことにもあることを、彼自身は気づいていない。アノニスからすれば、ユシャの方こそ機嫌がいいように見えていることにも。
長距離を飛行する二人はその後も何度か言葉を交わしながら、平坦な大地の上空を超えていく。
「そう言えば、お前どうして食堂ではあの話をしたくなかったんだ? 」
 そんな中で、アノニスはふと朝のことを思い出したのだった。
「ああ、それは……あんな気持ちになったのは初めてだったから、なんだかそれを他の誰かに知られたくなかったんだ」
「あんな気持ち? 」
 なんだかいまひとつ内容のつかめないもやもやとした返答に、アノニスは怪訝な顔をする。やはり彼女が朝思った通り、ユシャは会話が下手なのだ。これは一つ一つをつつき返して疑問を解消していかないと話が進まないぞと小さく覚悟を決める。
「君が俺の頭に触れたから」
「は? 」
 全く話が読めない。彼は一体何の話をしているのだろうか。今の会話、それから朝のやり取りまでさかのぼってみたが、やはりアノニスには一体何にかかる言葉であるのかわからなかった。
そんなことよりユシャの一人称が「俺」であったことの方が気になってしまう。彼が自分のことを指す発言をするのは実は初めてではないだろうか。いや、だめだ。自分まで話をそらしてしまうと、今以上に話が進まなくなってしまう。そう思いなおして、再び彼の突飛な発言と今までの話を繋ごうと頭を働かせてみる。が、結局わからずじまいに終わった。
「お手上げだ。もっとわかるように説明してくれ」
「昨日君が頭に触れたから、両親のことを思い出したんだ。その、昔よくああしてもらったなと思って」
「ああ」
 彼が何の話をし始めたのか、少しだけ見えてきた。どうやら昨晩の出来事の、さらにその前の話をしているらしい。確かにアノニスは彼の頭に触れた気がする。髪を乾かしたとかそんな話をしながら。
「それで、なんとなく誰かと話したいと思った。だから、君はもう寝ているかもしれないとは思ったんだが……」
「あー。なるほどな」
 ようやくアノニスにも彼が何を言いたいのか理解が来た。
「つまり、お前はパパとママを思い出して寂しくなっちゃったわけだ」
「寂しい……そうか。そういうのかもしれない」
 理解したアノニスは少し意地の悪い言葉選びでユシャを揶揄ってやる。ユシャには全くと言っていい程効かなかったが。発言のそこに在った小さな悪意になど気づかず、アレが寂しいか。などと呟いている男を見て、アノニスは悔しさなどを感じる前に呆れてしまった。
「お前、会話だけじゃなく人間も下手くそだな」
「人間が下手とはどういうことだ? 」
 無邪気に首をかしげるユシャが面倒になって、なんでもない。と適当にあしらう。
「つまりお前は寂しくなったから、構ってほしくて私の部屋に繋がる壁を叩いたと? 」
「そうなるな」
「んで、それを周りに知られるのが恥ずかしかったってこと? 」
「そう。そうだ恥ずかしい……うん」
 わからなくはない。が、なんだか釈然としない。そもそも、自分が寂しがっていたことを知られるのをいちいち恥じらうなら、
「なんで? 私が指摘したときはなんでもないって顔してただろ。どうして他の奴はだめなんだ」
 そこに羞恥心があるというなら、先ほどアノニスが揶揄ってやったときの薄い反応は一体何だったのか。もう少し恥じらってみせても、あるいは怒ってみせてもよかったはずだ。それだというのに、ユシャはただ寂しいという言葉がしっくりきたと深く納得しただけだった。顔を赤らめることもなければ、頬を膨らますこともなく、ただいつも通りの無表情で頷いただけ。
「君にはいいと思ったんだ」
 ユシャはアノニスにちらりとも視線を寄越さず、ただ真っ直ぐ向かう先だけを見据えてそう言った。
「なんで」
「わからない」
 彼の考えていることがわからない。その言葉の真意が全くと言っていい程に。アノニスは理由を聞き返したが、どうやらユシャ自身にもそれは見つけられていないらしい。
おかしいじゃないか、弱みを見せてもいいだなんて。それも自分にだけだ。そんなのは信頼されているみたいじゃないか。たかだか一年一緒に仕事をしていただけの間柄でしかないのに。しかも毎日一緒にいたというわけでもない。仕事が同じであれば今日の様に行動を共にするが、どちらかと言えば別々の仕事を受けることの方が多い。塔内でだって、わざわざお互い時間を合わせて共に過ごすような間柄でもないのだ。ともに食事をとるときや、並んで廊下を歩くときは、大概仕事を終えた後流れで自然とそうなるからだ。そうでなければアノニスが意図的に距離感を意識して声をかけるときだけ。
そうであるように見せかけてはいるけれども、実際に二人の仲がいいのかと言われればそんなことはない。寧ろアノニスからすればユシャは憎むべき相手ですらある。
そもそもこの一年、アノニスが一方的に声をかけ続けるばかりで、ユシャからアノニスへ興味のベクトルが向く素振りなど一度もなかったではないか。
これは信頼などでは決してないはずだ。そうだ、深く関りがない人間の方が後腐れなく本音をいえるということもある。きっとそういうことなのだろう。だがユシャ本人がその答えを持たない以上、そこに当てはまるべきものなどアノニスがいくら考えたところで結局わかりはしない。
「なんじゃそりゃ」
 気がつけばユシャはアノニスの少し先を飛んでいる。その後ろ姿を眺め、彼女は深くため息をついた。
彼の背を追い越してさらに先へ視線を向ければ、前方にはもう山が見え始めている。目的地はその手前。もう間もなく到着するだろう。それまでに頭の中を切り替えなくては、英雄の肩書は得られずとも仕事は完ぺきにこなすと決めている。ああ、せっかく気分が良かったというのに。結局今日はユシャに振り回されたばかりだ。アノニスはやり切れない気持ちを飲み込むために、いつものように深呼吸をした。
目の前の山が大きくなるにつれて、目的の集落へと近づいていく。少し高度を落とせば、中の様子もよく確認することができた。集落の中では着陸に適した場所はなさそうだ。
「ユシャ。あそこじゃあ降りられない。付近の開けた場所に一度降りて、集落までは歩くしかないだろう。ついてきてくれ」
「わかった」
 着陸地点へ目星をつけたアノニスは後ろからユシャを追い越すと、右へ旋回した。彼女が導く先は畑に取り囲まれた集落の外側、高原側から続いていた森が途切れ始め木々が一本二本と生えているのみの障害物が少ない丘の上だ。二人は徐々にスピードを落とし、手綱を引いて着地を促す。羽根に風を受けながらふわりと着地する二羽の足元から波紋の様に草が揺れ、広がっていく。
民家や作物、家畜の安全を考慮し着地にはかなりの広さが必要になるのだ。都市部では十分な広さで着地場所を設けることができないため、止まり木と呼ばれる大鷲を降ろすための足場が設置されていることも多い。上部が直角に折れ曲がった形状の頑丈なポールで、地面から十分な距離を保つことで周りへの風の影響を抑えることができるものだ。鳥の背に乗る人間は取り付けられた梯子を使って、ポール伝いに上り下りをする。都市部から離れた田舎であっても町の玄関口に止まり木を設置している場合も少なくはないが、ポールの長い梯子を上り下りするのはなかなか骨が折れるので、広い土地に直接着地する方が圧倒的に楽ではある。とはいえ着地に適した場所を探すことも場合によってはなかなか難しいので、どちらの方がいいとは一概には言えないのだが。
鷲たちが完全に着地をし、羽根を折りたたむのを確認してから二人は地に足をつける。広い丘の上に降り立って、アノニスは何十分ぶりかの自由に体をめいっぱい伸ばした。膝を折り畳んだ体制を一時間近く続けていたのだ。軽く跳ねたり屈伸運動をしたりと、手足を動かして身体を慣らす。そうして一通り全身を動かしてしびれや違和感を抜くと、二人は飛行用の安全ベルトを取り外した。
「お前たちはここでいい子に待ってるんだぞ」
 撫でるアノニスの手に頭を摺り寄せて、鷲たちは返事をするように一鳴きした。繋ぐような場所もなければ待つ間に入れてやるような小屋もないが、彼らならば大丈夫だろう。
「おっし、行くかユシャ」
「ああ」
 こうして都心から外れた集落に赴く仕事は、大概の場合害獣駆除である。山や森、人間の生活圏の外から人里に侵入し悪さをする獣を追い立て、ときには切らなければならないこともある。
 どうして害獣駆除なんて仕事を英雄がやっているのかと思うかもしれないが、そもそもこれが本来の英雄の仕事なのだ。数年前、国が大会を運営していた頃の英雄はこういったちょっとしたボランティアが仕事であった。仕事と言っても出動回数はそこまで多くもなく、ごく稀に危険度の低い現場にだけ派遣されるだけ。ちょっとした人助けをする少年という、良い子の象徴としての英雄を支えるパフォーマンスでしかなかったが。しかし、そもそも当時の英雄はほとんど普通の少年でしかなく、英雄というのもお飾りの称号でしかなかったのだ。ちょっとしたお手伝い程度の仕事しかないのも当然と言えば当然だろう。
 程度はともかくとして、害獣駆除などの活動は現代の英雄という役職において、基本ともいえる仕事なのだ。そのため、体制の変わった現在においてもこうして英雄や従者がその役割を果たす。しかし、当然求められるものは変化している。こうした援助活動は存在感をアピールし、人々からの信頼を勝ち取ることで、困ったときに頼るべき存在として英雄の立ち位置を築き上げるための巡業である。国の管轄であった頃は文化としての存在感をなんとなく残し続けていればそれでよかったようなものであるが、そこに企業が関わっている以上はその存在感で利益を産むことができるレベルでなくてはならない。より強い存在感で、より多くの者の心をつかむ。例えばグッズ展開への需要であるとか、イベントの集客力に繋がるのがこういった活動になってくるのだ。
 となれば必然とこうした仕事は嘗ての英雄たちよりも多くこなす必要が出てくるし、より派手に活躍することを求められる。今までのように安全が保障された場で生ぬるい子供だましのアピールをしているだけでは足りないのだ。与えられる仕事の危険度も現在ではピンからキリだ。まだ畑を荒らしている程度であればいいが、人間を直接傷つける凶暴なものとだって戦わなければならない。相手がドラゴンなどの幻獣であると生きたまま保護せねばならず、より難易度の高い仕事になってくる。
 闘技会を勝ち抜いた上位の者達が集っているのだから、一般人に比べれば腕はたつということなのかもしれないが、それにしても子供に任せる仕事として適切なのかと言われれば正直答えることはできない。今まで大きな怪我人や死人が出ていないことが奇跡である。当然社長や英雄たちの仕事を管理している広報職員たちも馬鹿な大人ではないので、仕事の難易度に合わせて派遣する人間は選んでいるだろうが、そうなれば危険な仕事をより多くこなすことになるのはユシャと、そしてその次にアノニスだ。今のように新人の基礎研修が終わるまでは、こうした危険度の低い仕事も合間にこなさなければならない。
つまり、終わらせられるものは早く片付けてしまうに限るのだ。
「ふむ、痕跡からして幻獣ではなさそうだ。どうだアノニス! 」
 先ほどまでとは違いよく響く大きな声でハキハキと話すユシャが、これまた普段とは違う表情でニカッと笑っている。意見を求められたアノニスはその顔を見上げて少しだけ顔をしかめた。
「足跡を見るに、まだ体が小さいな。普段は畑を荒らされることも無いようだし、子供が迷い込んだだけかも」
「だとしても、このまま味を占めて何度も畑を荒らされては困るな。このまま大きくなれば人を襲うかもしれない」
「おう。でも剣を振り回して戦うような相手ではないだろう? 少なくとも今は……とりあえず捕獲機でも設置して様子見、それでだめなら畑を囲う柵を新調するぐらいしかないんじゃないか? 」
「そうだな。俺もそう思う! 」
 英雄のユシャは本来の彼に比べるとうるさいのだ。もともとの彼もまた淀みなく話す男でけしてボソボソと小さくしゃべるような男ではないのだが、英雄を演じる彼は普段よりもずっと声を響かせ大きな声で話し、笑う。その明朗快活な、太陽の様に輝く英雄がアノニスは少し苦手だった。澄んだ光を見ていると己の中にある淀みを照らされ、突き付けられたような気持ちになる。そんなものは彼女の被害妄想でしかないのだが、それでも英雄としての彼の姿を見ていると、心の底でおとなしくしていた嫉妬心がぐつぐつと煮え立ち心をざわめかせるのだ。
「英雄として、派手な雄姿を見せてやれないところは少し残念だが。そこまで危険な状況でなくてよかったよ! 」
「そうだな。だが、正直あちこちに出向いて顔を出すだけでもお前の立派な仕事だよ。皆喜ぶさ」
「そうか。国中が俺を待っていてくれているとは、ありがたいことだな! 」
「捕獲機の手配は私がしておくよ。それこそ英雄の仕事じゃないからな。従者の私にぴったりさ」
 厭味ったらしい卑屈が口をついて、少し子供っぽすぎたかと後悔する。アノニスは自分のこうした醜い部分が嫌いでたまらなかった。それでもそれを捨てることもできぬままで、ずっと生きている。やめなくては。ずっとそう思っているのに今も、どうして自分じゃないんだ。だとか、私だって求められればあれくらい完ぺきに演じきって見せるのに。だとか、私の何が足りないんだ。だとか、そんな僻みが頭の中を巡る。アノニスが英雄になれない理由など、ユシャに勝つことができないからでしかない。単純な実力でしかないというのに。それでも彼女の身体の奥深くに鎮座する承認欲求というものは、どうやらひどくものわかりが悪いらしかった。
「はぁ」
 アノニスは連絡をすると言い訳をたててユシャから離れ、一人大きなため息をついた。
 嗚呼、どうして自分はこうも醜いのだろう。彼はよくわからないけれど、人としては欠けているけれど、だけど決して悪い男ではないのだ。わかりづらいが、悪い人間ではない。返事はそっけないし、愛想もない。返事もないときだってあった。ぶっきらぼうで不機嫌にすら見えるかもしれないが、人として様々なことを取り戻せば本来の彼は英雄らしく真っ直ぐで優しい青年なのだろう。実際ほんの少しだけよくしゃべるようになったユシャは、冷たくもなく、人を見下したような嫌味もない。欠けた感情や思考で人を振り回すが、性根に悪さは欠片もなさそうだ。だというのに、それがわかっていてアノニスは彼を認められない。彼に興味を持ったこと、彼を知ろうと考えることが楽しいようでどこか悔しい。彼の行動に振り回されることが心地良いようでいて、やはり恨めしい。
「はあぁ」
 どうにもならない自分の感情に、今一度より深くため息をつく。
早く戻ろう。口実に使ったとはいえ、ちゃんと連絡も済ませている。変に遅いときっと彼が探しに来てしまうだろう。こうして己の醜さに悩んでいる姿だって醜い自分の一端のようで、彼には見せたくない。と、アノニスはそう思っていた。早く、自然に戻らなければ。村人に囲まれ望まれた笑顔で答えるユシャの元へ、アノニスは足を踏み出した。
「ユシャ! 悪い。なかなかつながる場所がなくてな.……連絡は済んだよ。あとは手配しておくから、今日は戻って来いとさ」
「ありがとうアノニス! そうか。ならば名残惜しいが、戻らねばな! 」
 もう帰っちゃうの? と寂しげに手を伸ばす子供たちへ、ユシャは歯を見せて太陽の様にニカッと笑って見せた。
「なに、また会えるさ! なんなら、将来君たちが俺に会いに来てくれよ! 」
 わーわーと騒ぐ集落の人々に手を振り、大鷲たちを待たせている丘へ向かう。見送りに来た者達が徐々に小さくなっていく。飛び立つとき足元にいたのでは、人間など簡単に飛ばされてしまうことをしっかりと理解している彼らは、こうした別れの際もいつまでもついてきたりはしないのだ。
「あんなこと言っちゃって。あの子が十五歳になる頃の英雄は私だよ」
「そう簡単に譲る気はないが、そうか……」
 ユシャはほんの少し楽しそうな顔を見せる。その表情の違いはアノニスにはわからなかったが、彼の纏う空気がふと緩んだことは彼女にもなんとなく理解できた。ユシャ自身は自分の感情の変化になど気づきもしていなかったが。確かに彼は嬉しいだとか、楽しいだとか、そんな感情をにじませていた。思い出したのだ。アノニスとの仕合を。あの高揚と言うべき胸の動きを。そこに名前は付けられていなかったが、確かにあった感動を。そうしてそれを思い出してしまえば、仕合中に自分の中を占めていた負けたくないという志向がせりあがってくる。
「やはりだめだ。俺は英雄を譲れない。だけどきっと、何年経っても俺の前まで勝ち上がり、俺に挑むのは君なんだろうな」
 まるで英雄を演じているときのような、澄んだよく通る声で彼は言った。
「なんだそれ。絶対。絶対私が勝つ。私はお前を英雄から引きずり降ろすからな」
 ユシャはアノニスの言葉を聞いて満足げに頷いた。そんな余裕のあるユシャの態度が、アノニスには腹立たしいのだけれど、彼はそんなことに気づける男ではない。アノニスも、もうそんなことは分かっていたので、全てを飲み込んで彼についていくだけだった。
 二人は準備をしっかり整えると、あの古めかしい街へ向かって飛び立つ。来た時と同じ一時間近い飛行の中、彼女はまたあらゆる感情に翻弄されながらそれを全て水面下に隠して、彼との会話をやり過ごすのだった。
 あの丘を飛び立ったのは空が茜に染まる頃。そのまま真っ直ぐ飛ばしても、闘技場にたどり着くころにはすっかり辺りは暗くなっている。二人は職場であり、今は自宅ともいえる塔へ戻ると、真っ先に広報課たちのオフィスとなっている事務所へ向かった。そこにいる大人たちに報告を済ませれば、今日の仕事は終わりだ。
 それから食堂へ向かい食事を済ませると、各々の部屋へ引き返す。生活の動線は皆ほとんど同じだ。今日の様に同じ仕事を受け持ったときや、偶然仕事を終えるタイミングが被ると、そのまま食事から寝室へ戻るまでの時間はほとんどの場合共に過ごすことになる。当然今日のユシャとアノニスも部屋の前で別れるまで一緒であった。
「おやすみ。ユシャ」
「ああ。君も、おやすみ」
 ユシャと別れたアノニスは自室へ入り戸を完全に閉めると、一人大きなため息をついた。そのまましばらく閉めたばかりの扉へ身を預けていたが、ようやく身体を動かして着替えの用意や身を清める準備を整える。仕合の後や新人が受けるような飛行訓練の後、運動後軽く汗を流すときには昨日のように闘技場の共用シャワー室を使うのだが、こうして一日の終わりに身を清めるときの為に自室にもシャワールームは用意されているのだ。
 アノニスは用意した着替えを脱衣所に置いてシャワールームの中へ入ると、念入りに体と頭を洗った。天候やルートにもよるが、空を飛ぶと砂埃など目に見えないゴミが髪や服の中に入り込んでしまう。今日の様に大鷲の背に乗り移動した日は、丁寧に全身を洗わなければ寝るにも気持ちが悪いのだ。そうして、洗い上げた体を拭いて、ワンピース型の寝間着に袖を通す。淡い色で襟元や袖口にレースをあしらったそれは少女的なデザインであったが、ゆったりとしたその形状は寝間着として着るには非常に楽で彼女のお気に入りだ。胸元のリボンを軽く結んで服が落ちないように固定すると、タオルでまとめ上げられていた髪を下ろししっかりと水を含んだそれを乾かす。長い髪は乾くのに時間がかかるのだ。シャワーを浴びるのにも時間をかけたので、すべてを終えて寝る支度が整う頃には夜も深くなっていた。
 一足早く自室へ上がっているだろう新人たちは、疲れもありもうすっかり眠っているに違いない。共に帰ってきたユシャだって、普段はベッドに入ればすぐ眠りにつくような男だ。身支度もアノニスほどに時間がかからない彼ならば、もう眠っているだろう。
少し悩んだ末に、アノニスは窓に足を掛けた。

 そのころ、どうにも眠る気になれずベッドへ腰かけて読書をしていたユシャは、ふとどこかからか聞こえる声に本を閉じた。
歌声につられるように立ち上がると、部屋の小さな窓へと吸い寄せられる。ガラスの嵌められていないそれは、窓というよりは小さな風通しの穴と表現したほうが正しいかもしれない。目の高さより幾分高い位置にあるそこまで上るため、椅子を運びその上に乗っかった。少しせのびをしてのぞき込んだ穴から見えたのは、塔を取り囲むように並ぶ列柱と、その柱に身を持たれかけて風にうたれている美しい後ろ姿であった。
この建物の側面には螺旋状の廊下がぐるりぐるりと巻き付いている。ゴシック建築に見られるような列柱の上部をアーチでつないだものに囲われた吹き抜けの廊下が、三階付近の高さらから屋上に向けて伸びているのだ。何の用途があったのかはわからない。高い塔の上まで緩やかな坂を人の足で上るのはさすがに無理がある。上るために作られたわけではないだろう。であればバルコニーのように使われていたのだろうか。ユシャに与えられた部屋にも、この廊下へつながる窓は存在する。床より高い位置をくりぬいたそれは人が通る用途の構造ではないが、出ることは可能だろう。だが、これがバルコニーなのだとしたら螺旋状にぐるりと上まで伸ばす必要はないはずだ。各階を囲むように一周させるだけで充分だろう。もしかしたらただの装飾なのだろうか。その可能性は大きい。当時の者達は皆華美なものを好んだようだから。
とにかく謎に包まれた今ではただレトロで美しいだけの外廊下だが、そのデザインが驚くほどアノニスに似合っていた。吹き抜ける風に髪をなびかせて微かな声で歌を紡ぐ姿は、ユシャの視線を掴んで離さない。
「アノニス」
 ユシャは小さく名を呟いた。本当は声をかけてしまいたかったが、そうしてあの歌を止めてしまうことはもったいなく思えたのだ。
しばらくそうして後ろ姿を盗み見ていたユシャは、歌声が止むのを聞き届けてようやくベッドの中へ戻った。目を閉じると先ほどの美しい光景が瞼の裏に浮かぶ。母親のように優しい歌声を思い出して、ユシャはゆっくりと眠りに落ちるのだった。



二か月ほども経つと新たな従者達への取材もだいぶ落ち着きはじめ、飛行訓練を無事終えた新人たちも立派に飛び回れるようになっていた。そうなれば、ユシャとアノニスはそれぞれ別々の仕事につくことが増えはじめる。二人は経験者でありツートップの実力者でもあるので、他の新人たちの付き添いとして分散して仕事にあたることが多くなったのだ。そうして新体勢も三か月目にもなれば、二人はすっかりお互い別々に行動することが当たり前になっていた。当然仕事中共にいた時間は無くなり、仕事の終了時間もバラバラになったことで食事の時間なども共に過ごすことは少なくなった。
それでもユシャはときおりアノニスを呼びだし、ゆっくり二人で話す時間を作るのだった。
今までアノニスは自然に話せるタイミングがあれば話しかけてきた。だが、ユシャとの関係はそれだけだった。避けているように見えないように、距離を感じさせないように。たったそれだけの距離感でユシャと付き合ってきた。彼と話すためにわざわざ探し出したり、予定を組んだり、そこまでの時間を割くことはなかったのだ。ましてやユシャから声をかけてわざわざ二人の時間を設けるなど、一年前であれば考えられないようなことだろう。
ユシャは時折、仕事帰りに菓子などを買って帰ってくる。そうしてアノニスを誘って二人で茶を飲むのだ。彼はもともと好き嫌いのよくわからない男だ。そもそも好悪というものが彼の中に存在しているのか、それすらも怪しい。彼が自ら望んで何かをしている姿など、少なくともこの一年の付き合いでは見たことがない。言われた通りの英雄像をなぞり、完璧に仕事をこなす。たったそれだけの行動を繰り返しているように見えた。そんな男が、生命活動に必要な三食の食事を超えて間食をとること自体まず信じられないような話なのだ。それもわざわざアノニスを伴って。
「アノニス、ケーキを買ってきたんだ。部屋に来て欲しい」
「……わかった。少ししたら行くから、待ってろ」
 ノックの音に続いて、扉越しに声が掛けられる。ユシャの声だ。
アノニスは少し考えて、結局誘いにのることにした。
「ありがとう」
 部屋に引き返すであろう足音、そして隣室の扉が閉まる音を聞き届けて、アノニスはため息をついた。
「ケーキって、生菓子じゃねぇか。断られると思ってないのか? 」
実際もう何度もこんな誘いを受けているが、断ることはなかなかできずにいる。本当に疲れていた日に一度だけ断ったこともあったが、それっきりだ。なんだかんだと彼と話す時間を楽しく思う自分もいる。それと同時に彼を憎む感情で頭の中がぐちゃぐちゃになることもあるのだが。結局ユシャが残念そうに、寂しそうにしているのを見れば、アノニスには断りきれないのだ。
脱ぎかけていた服を頭から再び被る。従者として普段着ているものは、膝丈程に丈の長いシャツと、少しゆったりした足首まである長ズボンだ。今時都心では誰も着ていないような古めかしい衣装だが、歴史を重んじてなのかなんなのか従者は皆形の似通った服を着ている。それは英雄であるユシャも同じだ。式典などフォーマルな場になれば格好の差もつくようになるが、普段は英雄も従者もほぼ変わらない。現代にはあまりないこの服装は仕事着なのだが、アノニスは私服と呼べるものをネグリジェぐらいしか持ち合わせていないので、こうして仕事終わりや偶の休みに部屋の外へでるとなると大概この格好をとるしかなかった。構造がゆったりとした服なので、着ていても苦ではないので特に不便に思ったことも無い。
 着なおした服のすそを整えて腰の紐はと考え、面倒なので巻かずに部屋を出た。
「ユシャ。入っていいか? 」
「アノニス」
「わっ! 」
 返事を待って扉を開ける気でいたが、急に中からユシャが出てきたため驚いて一歩後ずさる。
「待ってたんだ。来てくれてよかった」
「行くって言ったんだから来るさ。約束は破らない」
「そうか」
 ユシャはアノニスにもわかるように顔をほころばせて、彼女を部屋に招き入れた。どうにも最近、ユシャは表情が豊かになったようだ。アノニスは考える。何が原因かはさっぱりわからなかった。彼は変わったが、彼を取り巻く環境はほとんど変わっていない。従者達も相変わらず彼の信者のようなものだし、社長もお目付け役の広報職員も変わらない。何が彼を変えたのかと言えば、これと言ってそれらしきものは思い浮かばなかった。
「紅茶を淹れてこよう。ケーキは好きな方を選んでくれ」
 アノニスが初めて訪れたときは彼女の部屋と同じように家具だけの、その家具の中でさえほとんどから同然の部屋であったというのに、今では棚にティーセットや茶葉が収められている。今はアノニスの部屋よりも物が多いのではないだろうか。
「ずっと気になってたんだが、これ。わざわざ揃えたのか? 」
「これ? 」
「ティーセットとか。皿も」
 振り返ったユシャに、アノニスは皿を指さして見せる。彼の用意したものはポットやカップ、ソーサーはもちろん茶菓子を乗せる皿までもセットになったものだ。見たところ質もいい。安いものではないはずだ。
「ああ。君とこうしてお茶がしたくて」
「私とか? せっかくなら他の奴も呼んだらいいだろう。もったいない」
 お前の信者たちなんて泣いて喜ぶだろう。と、言ってやろうかとも思ったが、少し意地の悪さが露骨かと思い飲み込んだ。
「いいや、君がいいんだ……」
「ふーん。わからんな」
 何故ユシャのような立派な英雄が自分をわざわざ選ぶのか。アノニスは彼の周りにいる者たちに比べれば生意気な年下であるし、彼にそれほど気に入られるようなことをしてきたつもりはなかった。寧ろあふれ出る嫌味で、己の醜悪さで、彼に嫌われたとしてもおかしくはないとすら思っている。いや、いっそそうであれば少しは気も晴れたかもしれないのに。こんな醜い人間すら嫌うことのない男。さすがは完璧な英雄だ。アノニスはいつも惨めになるばかりである。しかし、同時に彼に選ばれるという喜びを感じてしまう自分もいる。誰かに認められたい。彼女が英雄を目指す一番の理由であるその空白が、よりにもよって英雄への道を阻む男に埋められている。それがまた、より一層彼女を惨めにする理由でもあった。
「わかってもらえないか。といっても、俺自身にもよくわからないが」
「そうだろうな」
 最初から、ユシャが心の機微を理解することなどできるとは思っていない。たとえ彼自身のことであってもだ。
「だが、うん。きっと俺は君と友達になりたいんだ」
「……は? 」
 とはいえ彼が何も考えていないわけではないのだ。彼は感情を理解することが苦手であるが、苦手であるなりに向き合ってしっかりと考えている。そうして時折想像もつかないような爆弾を投下してくるのだ。何かの間違いではないかと思うけれど、そういうときに限って彼は己の感情を見誤ったりしなかった。
「む。その反応は少し、傷つくというか……嫌か? 」
「あー、うん。そうだな……」
 入れたばかりの茶を携えた彼が、向かいの席に腰かけアノニスを見る。その顔はどこかしゅんと落ち込んでいるようで、その顔にアノニスは弱かった。
「いや、違う。そうじゃないさ、そんな顔するな」
 嫌、と言えば嫌だ。彼と関わることは少なからずアノニスに苦しみをもたらすものなのだから。かといってあからさまに落ち込まれると、やはり嫌とは言い切れない。彼を突き放しきれない時点で、嫌と言うのも違うのかもしれない。
「でも、なんで今更」
 そうだ。何度もこうして部屋に誘われてはいるが、友達になってほしいなど一言も言ってこなかったではないか。
「母さんと手紙で話していて、思い出したんだ」
『もしいつか友人を得る機会に恵まれたら、きっと逃してはいけない』と、それは母の言葉だ。剣術を退屈に感じはじめ、日々の退屈に感情の薄れていくユシャに父が励ましの言葉をかけたように、母もまたユシャへよくこの言葉をくれた。無理に友を作ることはないけれど、友を得ることはきっとユシャに新たな世界を与えてくれる。と、母はユシャに教えてくれた。よいことばかりではないかもしれないが、友がいれば世界を広げてくれる。それは父が与えてくれた言葉にあった、『剣術以外に夢中になれるものを見つける』ことにもつながってくるはずだと。
「お前、親と文通したりするんだな」
「両親はずっと俺を気にかけて手紙を送ってくれていたんだが、返すようになったのは最近だ。ほら、俺が寂しくなって君の部屋の壁を叩いたあの晩からさ。こう表現するのが正しいのかは自分でもわからないが、なんだか恋しくなってしまって」
 当然のことだが、ユシャにも育ての親が存在するのだ。あんなにも感情の乏しかった男の親がどんなものかとは気になったが、どうやら彼はまっとうに愛されて育ったらしい。
「話がそれたな。昔母さんによく言われたんだ。友人を作る機会があったら逃さない方がいいって。無理に作れと言われたことはないけれど、俺が剣にばかり夢中だったから心配してくれていたんだと思う」
「へえ。いい親だな」
 羨ましい。
 アノニスは思った。彼の持つ何もかもが羨ましい。アノニスの欲しかった物ばかり彼の手の中にある。
「友人も、昔はいたんだが、剣術に夢中になっているうちによくわからなくなってしまって……でも君と話していて思ったんだ。きっとこういうものを友人と呼ぶんだって」
「それで私と友達になりたいわけ」
「うん。君と話していると楽しい。と、思う」
 このうえ友人まで手に入れたいと言う。
「君だけなんだ、こんなに俺のことを気にかけて声をかけてくれるのは」
 それでも、人の子として持つべきいろいろなものを落として生きてきたであろうこの男のことを哀れに思う心もまた、アノニスの中に確かに存在していた。彼の十五年の人生はともかくとして、こんな所で英雄にされてはまともな友人などできようもない。彼が英雄に就任した一年目がどんなものであったかはわからないけれど、少なくとも二年目そしてアノニスが従者となった彼にとって三年目の年には既に、彼は英雄として多くの者に称えられていた。周りに居るのは大人ばかりで、唯一歳の近い従者達は知っての通りだ。当然街へ出たって英雄は英雄。一人の少年として扱われることも最早ない。
沢山のものを持ち恵まれているように見える彼が、実際あらゆるものを犠牲にしてあの場に立っていることぐらいアノニスもわかっている。あまりにも短すぎた少年時代に友人を作ることができなかった彼に、もしここでアノニスが嫌だと言ってしまったら、彼にはもう友人を得る機会など一生訪れないかもしれないのだ。一生というのは大げさかもしれないが、少なくとも一般的に子供時代と言えるような年齢の期間に年相応な話をするような相手はきっと見つからないだろう。
「……いいぜ。今日からアノニスはお前の友達だ」
「本当か! 嬉しい。嬉しいよ、アノニス」
 かわいそうなユシャ。寂しい英雄。そんな彼を見つめてアノニスは紅茶を口に含んだ。
続いてケーキをひと切れ口へ運ぶ。ユシャが買ってきたのは、いちごの乗った定番のショートケーキとチョコレートケーキ。アノニスはショートケーキを選び、チョコレートケーキはユシャの手元で既に半分のサイズになっていた。
「甘いもの、好きなのか? 」
「そうでもないと思うが、どうして? 」
「いつも買ってくるから」
「ああ、お客さんを呼ぶんだ。もてなすのに必要だろう? 」
 いつもと言っても毎日ではないのだろうが、アノニスが呼ばれるときは常に洋菓子が用意されている。大概はクッキーなどの焼き菓子で、初めて来たときなどは皿もなかったので行儀は悪いと思いつつ袋から直接つまんで食べていた。それから何度か来るうちに茶もふるまわれるようになり、焼き菓子は一人一皿にちゃんと分けた状態で出てくるようになった。思い返してみると、彼がケーキなど買ってきたのは初めてのことかもしれない。
「なぁ、アノニス。実は今日が誕生日なんだ」
「え、お前の? 」
「うん。ここに来るまでは、父さんや母さんに祝ってもらっていたんだ。それを思い出したら、無性に君に会いたくなってしまった。たぶん、俺は君に祝ってもらいたかったんだ」
 そう言ってユシャは残っていた紅茶を飲みほした。アノニスも最後の一切れを口へ運び、飲み込んだ。
「なぁ、泊っていかないか? 」
 カップも皿も空にしたアノニスに、ユシャが言う。
「は? 」
その意味がわからなかったアノニスは、間髪入れずに間抜けな声をあげた。ユシャは大概、突然わけのわからぬことを言ってアノニスを混乱させるような男であったが、このときばかりは今までで一番間抜けな顔を晒していたに違いない。
だって泊まるもなにも、ユシャとアノニスは同じ塔に住み込んでいるのだ。それどころか二人の部屋は隣同士。他の従者達だって同じ並びに部屋を持っている。で、ありながら隣に泊っていく理由とはなんだ。朝まで語り明かせるほどの仲のいい友人であればそれもありえなくはないのだろうが。今までの付き合いがあるとはいえ、先ほど関係に友と名付けたばかりの人間に対して距離の詰め方が急激すぎやしないだろうか。
「お前、本当に人との付き合い方が下手くそすぎ」
「だめか? まだ君といたい……と思うのだが」
「駄目っていうか。急だし、そもそもお前にその気がなくたって、異性を軽々しく部屋に泊めるのはどうかと思うぜ? 」
 男女の友情というものを否定する気はないが、それを認めない者は多くいるのだ。ユシャは皆に注目される英雄なのだから、彼自身はどうあれ周りの目も気にして生きていかねばならない。
 心底驚いたような顔をしているユシャに、ため息をついた。これはいろいろと教えてやらなければならないかもしれない。と、そう考えていたアノニスであったが、ユシャの次の言葉にまた驚かされる。
「君、女なのか? 」
「そうだが? なに、お前知らなかったのか! 」
「だって君の口調……でもそうか。シャワー室とか、あのときの格好も……」
 本当に気づいていなかったようで目を見開きすっかり驚いていたユシャは、しかし途中から何やら思い当ることがあったようで徐々にぶつぶつと一人で考えこみ始めた。そうして最後には、確かに。と何かに納得したように一人頷いてみせる。
「納得したか? 」
「そうだな」
 ユシャは真っ直ぐアノニスの顔を見上げて頷く。それから申し訳なさそうに、今度は頭を下げた。
「その、失礼なことをしてしまった。誘ったことも、今まで勘違いをしていたことも……すまない」
「いいよ。私も紛らわしい口調だし、お前人にあまり興味とかなさそうだしな」
 こうも真摯に謝られては怒りようがない。そもそも、アノニスは端から男と間違えられたことなどどうでもよいことであった。それに、ユシャが今まで他人を注視して生きてこなかったこともわかっている。こうして考えれば別々のシャワー室を使っていたことも、更衣室で鉢合わせることがないこともちゃんとわかっているというのに、それを意識して生きていないのだユシャという男は。最初からそういうものだと思っていたものだから、驚くと同時に妙に納得してしまった。
「そ、そういうわけではない。ただ、あんまり考えたことがなかったんだ。男か女かとか、だってアノニスはアノニスじゃないか」
「ユシャ……」
 アノニスは小さく驚いた。そんなこと今まで言われたことがなかったのだ。なによりその言葉を嬉しいと思った自分自身に驚き、まともな返事も返すことができなかった。そんなアノニスの反応を不安に思ったのか、ユシャが窺うように彼女を見上げている。
「あ、アノニス? 」
「いや、何でもない。本当に気にしてないからもういいよ。泊まれはしないけど、また来るからさ。次も呼んでくれよ」
 また来る。なんて、断れないことを悩んでいたというのに調子のいい話だ。それでも先ほど貰った言葉が存外に嬉しくて、また来てやってもいいかと思ってしまった。
「今日は遅いから、もう帰るな」
「ああ。ああ! また来てくれ。絶対に呼ぶから」
 嬉しそうなユシャの声を背にアノニスは部屋を去る。

いつものように部屋に戻って、身を清め寝る支度を整えて、そしてベッドの中でふと気になった。ユシャを惑わした自分の口調についてだ。いつからこんな口調になったのか、考えてみると自分でも思い出せなかった。
少し乱暴なその口調は周りに性差を感じさせないためであったのか、それとも単純に自分自身が女性性を捨てたかっただけなのか、恐らくどちらでもあるのだろう。いつだって彼女の中には己の性別への嫌悪感があった。
アノニスは由緒ある家に生まれた娘であった。彼女からすれば家の由緒などちっぽけなものだ。本当であるかも疑わしいような馬鹿馬鹿しい話でしかなかった。しかし、そこそこに大きく地位のある彼女の家は、未だ古い仕来りを重んじており、そんな時代に取り残されちっぽけな社会の中で彼女はいつだって虐げられてきたのだ。
彼女の家は古の英雄の末裔であった。本当かどうかはわからない。そんなことはどうでもいい。彼らはそれを信じているのだ。自分たちにはあの英雄の血が流れているのだと。そして、英雄たるべきは自分たちであると。
しかし長いこと新たな子を迎えることのなかった一族は、闘技会に子を送り出すことができていなかったのだ。そんな中生まれたのがアノニスであった。一族からの強い期待を向けられていながら、女として誕生したアノニスは誕生と同時に一転役立たずとなったのだ。英雄は男にしか務められない。そんな古い考えがまだこの家には残っていたし、事実当時は十五歳の少年にしか大会の参加資格は与えられていなかった。家の中のどこへ行ってもアノニスに価値はなく、何をしても評価されることはけしてない。名すら呼ばれることのないアノニスはずっと何者でもないままであった。
そして時代はついに英雄交代のときを迎える。先代の英雄はアノニスの従兄にあたる男であった。彼は長いことその座を務めていたが、ついにユシャというどこの者とも知れぬ少年にその座を譲ることとなったのだ。それは彼ら一族のプライドを傷つけ、一層アノニスへの当たりを強くするきっかけとなった。『お前が男であれば、あの出所も知れぬ小僧をすぐに引きずりおろすこともできただろうに』『出来損ないめ』『お前が男なら』『お前が女なんかに生まれなければ』『この役立たずが』もう飽きるほど聞いてきた言葉を、より一層注ぎ込まれたのだ。それとは打って変わって、彼女に生まれた五歳年下の弟のことは皆とても可愛がり、惜しみなく愛情を注いだ。
アノニスは早く何者かにならなければならなかった。英雄に。弟が十五の歳を迎える前に、自分が英雄になってしまわなければ。そんなどうしようもない焦りを抱えて家を飛び出したのだ。結局はユシャに敗北を喫し、これだから……と、あの忌々しい言葉をぶつけられる結果に終わってしまった。アノニスは今も己の性別が憎くてならない。
そして、己が英雄になる道を阻むあの男のことも。だが、彼に与えられる言葉がアノニスを喜ばせるのだ。他の誰でもなく、アノニスの為に用意されたティーセット。アノニスが女であろうと男であろうと変わらず友として認め、求めてくる瞳。彼に与えられる喜びを知ってしまったのだ。
「ユシャになど、出会いたくなかった」
 胸が苦しくなってアノニスは一人、ベッドの中で少しだけ泣いたのであった。
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