第1話

文字数 3,654文字

休日が休日でなくなったのは、いつからだったか。

結婚したときから?…違うな。
子どもが生まれたときから?…違うな。
離婚したときから?…いや、それよりは前かな。


双子の子どもたちが4歳になり、私はシングルになった。

正直、毎日がいっぱいいっぱいだ。
休日は休む日でなく、戦う日。
仕事が休みというだけ。
仕事が休みなら休める人が羨ましい。
仕事を休んだって代わりができる人はいる。
だけど、私は私を休めない。
私が休めば、親子3人の全てが止まる。
代わりはいない。



「もう!早く!保育園遅れちゃうよ!」

朝、バタバタと玄関を出ると、隣の家のドアが開いた。

「あ」

思わず声が漏れてしまい、「おはようございます」と、続けた。

「おはようございます」

壁の薄いアパートのうちの隣の部屋に住むのは、大学生くらいの男性。確か名前は小林さん。
引っ越しの時に挨拶したきりだ。

双子たちが騒ぐことは目に見えていた。
先に「うるさくするかもしれませんが、何かあったらすぐ言って下さい」と告げると、「気にしませんから」と言われた。

あれ以来会っていないけれど、そろそろ怒鳴り込まれたっておかしくないほど、うちは騒がしい。
1階の角部屋で上は空いてるから、騒音被害に遭っているのは彼だけだろう。

きっと毎日の子どもたちの叫び声と私の怒鳴り声が隣の部屋にも響いているに違いなく、本当はばったり会うということもなるべくなら避けたいと思っていた。

「あ、あの、すみません、いつも騒がしくして」

すると彼は無表情で言った。
「…良かったら、僕、連れてきましょうか、保育園」

「…は、い?あの…」
本当は「は?」と言いたかったけれど、それはいくらなんでも失礼だろう。

「…あ、すみません、何か、お手伝いできたら、と思って…」

「え?あ、ああ…あ、はは、ありがとうございます、すみません、なんか毎朝バタバタして…ご迷惑ですよね」

「いえ、そうではなくて…あの、何かあったら」

「え、あ、ありがとうございます、お気持ちだけで嬉しいです、じゃあ…」

私は両手で子どもを引っ張り、保育園へと急いだ。

なんだ、あの人。
怪しくない?
親切なふり?なんだろ。
なんか、隣に住むの怖くなっちゃったな。



次の日曜の昼。
醤油を切らしてしまい、買いに行くことにした。
そんなちょっとの買い物に双子を連れて歩くのは時間、手間、労力を考えるとしんどい。

「ちょっとママ、お醤油買ってくるから、すぐ戻るから二人でお留守番してて!」
「え~やだ~」
「やだやだ~」
「すぐ戻るから!」

玄関ドアを開けて双子を阻止してると、隣のドアが開いた。
「あの、良かったら、買ってきましょうか」
「…え」
「お醤油…てゆーか、うちので良かったら使いますか?」
「えぇっ…」

なんだろ、この人やっぱり怪し…。

「あ。怪しいって思ってますよね、僕のこと。そりゃそうですよね…」
そう言って彼はちょっと肩を落とした。

「いえ、あ、あの…じゃあ、ちょっとお借りしてもいいですか?」
そう言うと、彼の特徴のない地味めな顔がぱあっと明るくなった。
「はい、ぜひ使って下さい、いくらでも!」

ちょっと変わってるけれど、悪い人ではなさそう?

お醤油を返しに行くついでに、お礼に昼ごはんに作ったチャーハンを渡した。
「あ、ありがとうございます。かえって気を遣わせてしまって申し訳ないです」
「いえ、助かりました、ありがとうございます」

そう言うと、また彼の顔が明るくなった。
それを見て私はちょっとだけ心を開いて言ってみた。

「いつもこんなにご近所さんに親切にされているんですか?」
「いえ、あの…思い出してしまって」
「え?」
「…僕も母子家庭でして…母がいつも忙しそうにしてるのを僕はたいして助けることができなかったんです。だからといったらおかしいですが、お宅から聞こえてくる声でそれを思い出して、僕も何かお力なれればと思いまして…完全に僕の自己満足なんですが…何を手伝ったらいいのかわからず、昨日は怪しい声かけをしてすみませんでした。…もしも誰かの手がいるなら、すぐにお手伝いします」

「…ありがとう、ございます」

怪しさをまだ完全に拭い去ることはできないことは、頭ではわかっていた。
それでも自分の口から勝手にありがとうという言葉が出たことに、私は自分でも驚いていた。

離婚してから今日まで、私にこんなに温かい言葉をかけてくれた人はいなかった。
実家の両親にさえ、どうして離婚しなきゃならないんだ、子どもが大きくなるまで我慢しなさいと言われた私は、誰かに頼るということが頭の中にはなかった。

だからこそ、この言葉に涙が出そうになるほど私は嬉しかった。


それからは休日にたまに顔を合わすと私が様子をみつつ、家の外で子どもたちと彼が遊んだり話をするのを聞いていた。
子どもたちは彼にすごく懐いた。
私以外に子どもたちが頼れる人が近くにいるというだけでも私は少しの余裕を取り戻すことができた。



「ねえママ、花火ー」
「行きたい、花火ー」
子どもたちが小林さんと花火大会に行きたいと言いだした。

「わかった、今度聞いてみるね」

とは言え、彼は大学生だ。
いくらなんでも他人の子どもたちと花火に行ったりはしないだろう。

そう思っていたのに、彼が言った。
「花火大会、行きませんか、みんなで」

子どもたちは喜び、次の休日、花火大会に出掛けた。

帰り道を満月が照らす。
「あー楽しかった」
私が言うと、彼の顔が明るくなった。
「初めて、聞きました。ママさんの、楽しかったって言葉」
「…そうですね、初めてかも。離婚してから。休日らしい休日を過ごせたのも久しぶりな気がします。小林さんのおかげです」
「お役に立てて本当に嬉しいです」
「でも、良かったんですか?お友達とかと行かなくて」
「はい。今は双子ちゃんたちといるのが楽しいです。期間限定ですから」
「期間限定、か。確かに。……いつからだろうな、って思ってたんです、ぼんやりと。休日が、休日でなくて戦う日になったのは、いつからだろうなって」
「…戦う日、ですか」
「それで最近、思い出したんです。元夫に言われたこと。家のこと手伝ってほしいって言ったら、『誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ』って、よく聞くアレですよ」
「ああ」
「それを言われた時からかな、と思ってたんですけど、違いました。それを言われて、私、何も言い返せなかった。…で、今になって、言い返せば良かったって。『誰のおかげで仕事行けてると思ってんだよ、仕事さえしてればいいと思えてるんだよ』って。そうやって、言い返せなかった自分がずっと心の中にいて、それを吐き出すことができなくて、悔しかった」
「はい」
「毎日毎日頑張って、頑張ることは当たり前、自分が選んだ道なんだから弱音を吐いてはいけない、休んではいけない。子どもたちのことでお世話になってるんだから仕事は他の人の倍やらなきゃ。家事は子どものため、私がちゃんとしなきゃ、って、そんな風に張りつめて、毎日電池がきれたように眠るんです。自分のことなんてかまってる余裕なんかない。周りのお母さんたちはもっとおおらかで優しくて…子どもたちが眠る顔を見る日は自己嫌悪です。そんな心の余裕のなさが、私から少しずつ休日を奪っていたんだなって…小林さんと出会って気がつきました。少し、心に余裕ができたから」

こんな風に、落ち着いて気持ちを誰かに話せるようになったことがその証拠だ。

「そうですか、嬉しいです、『怪しい隣人』を卒業できたみたいで。勇気出してみて、良かったです」
「勇気…?」
「はい。最初に声をかけたときもお醤油のときも、花火に誘ったときも、本当は心臓バクバクでした。怪しいよなって、自分でも思うし、余計なお世話だとも思われるだろうし」

勇気…。そうか、小林さんだって勇気いったよね。
子どももいない独身男性が声をかけてくるなんて、警戒されるに決まってるし。

「僕は母を助けることができなかった。でも、近所の人たちは母を助けてくれた。それを見て育ってきました。…世界を変えるなんて、大それたこと僕にはできない。だけど、そう思って隣にいる人にさえ手を伸ばすことをためらったら、この世界は本当に何も変わらない。だから、僕は、せめて僕の手の届く範囲の人だけでも力になりたいと思っているんです。…まあ、ちょっとのことしかできないですけど。でもきっと、そんな風に思っている人はたくさんいるはずなんです。だから、もっと頼っていいと思います。お醤油借りるくらいの気軽さで」

小林さんの言葉が私の心のトゲを抜いてくれたような気がして、心がすっと軽くなった。

「それに双子ちゃんたちはいずれ、ママさんの味方になりますよ」

私たちの前を歩く双子に目を遣る。

子どもたちとも、小林さんとも、永遠に一緒ではいられない、期間限定のお付き合いだ。

一緒にいられる残り時間を、塗りつぶしてく1日ではなく、この休日のように過ごしたい。

1日を大切に生きることが、私を大切に生きていくことだ。


「ありがとう、小林さん」


歪んで見える満月の輝く空の下、私は隣の救世主との出会いに感謝した。






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