訪れ

文字数 2,820文字

 作曲家に休みなんてない。作曲家に限らず、感性を駆使する仕事についている奴全員だろう。いつどこで自分の作品の欠片が降ってくるかわからない。食事をしている時。誰かと行動を共にしている時。お風呂に入っている時。寝ている時。どんな状況であっても、降ってきたら取りこぼしのないように、必死で書き留める。

 今が丁度その状況だった。夢の中で流れたフレーズが印象的で、必死に自分の頭を叩き起こした。隣で絢美(あやみ)が静かに寝息を立てている。組まれていた腕を解き、ベットから起き上がる。床に脱ぎ散らかっていたトランクスを履き、シャツを羽織るとテーブルに置いていたスマホを手に持ってベランダに向かった。時刻は深夜3時を回っていた。

 ベランダに出ると頭の中でずっとループさせていた音を鼻唄で歌ってスマホで録音し、そのままスマホのメモ欄に詩を書き出した。僕のメモ欄には、このような中途半端な詩でいっぱいだ。それを使うこともあれば、使わないこともある。今回の詩はどうなるだろうか。

「こんな時間にどこに行ったのかと思った」

 少し夜風に当たっていると、下着姿に僕のパーカーを羽織る絢美が背後からやって来た。

「自分の上着を着なよ」
「だって大きくて、丁度全部隠れるんだもん。いい感じでしょ?」

 首を横に傾げながら言う絢美にはいはいと促しながら、さっさと部屋の中に入らせる。顔出しが皆無でないからには、外ではなるべく異性と2人になりたくなかった。その辺りは徹底していた。

「仕事、一段落ついたんじゃなかったの?」
「とりあえずはね。でも仕事がなくなったわけじゃないし、アイデアは多いに越したことはないから」

 スマホをテーブルの上に乗せ、再びベッドに戻る。布団に潜り込むと、同じく絢美も入って来た。後ろから抱きつかれ、胸の感触が伝わってくる。間違いなくわざとだろう。

「ねえ、たまには気分転換にどっか行こうよ。アイデアが思い浮かぶかもしれないし」
「いつも言ってると思うけど。マスコミに嗅ぎつかれる可能性があることはしないって」
「たまにはいいじゃない」
「そのたまにに限って問題が起こるかもしれない」
「でも……あたしたち付き合ってるんだから」
「最初に了承したはずだ。基本会うのは室内でだけ。それが嫌なら他に行けばいい」
「ひどい! そんな言い方――」

 大声で泣き喚かれる前に、彼女の唇を自分の唇で塞いだ。

「うるさい。時間帯を考えろ」

 1度だけ塞いでから眠るつもりだったところを絢美にそれを防がれた。絢美は僕を求めて舌を絡めてくる。無視してもよかったが、僕もそれに応えた。

 少なからず彼女の気持ちに同情した。個人差はあるだろうが、大体の人間は人を好きになるとその相手と少しでも長く時間を共に過ごしたいと思うだろう。そしてより濃密な思い出を共有したくなるもの。いつもと同じ景色だけではなく、沢山の景色を共に見て共に感じる。でも僕と一緒にいる限りは、絢美はそれを経験することはないだろう。『嫌なら他に行けばいい』と言ったのは紛れもなく本心だ。

 僕が何より大事なのは音楽だ。この先、1日でも長く生きて1曲でも多く自分の納得する曲を作ること。それが今の僕の全てだ。きっとこれからも変わることはない。
 隣にいるのは絢美でなくたっていい。正直今の状態はセフレと何が違うのかわからない。

僕は別に女なんていらない。ただ僕も男のため、いて困ることもない。だがいなくなったらなったらで、他に方法なんていくらでもある。だからいつ絢美が僕を捨てても構わない。
正直彼女が自身のことを1番に思うのなら、その選択が最善だと思う。
しかし彼女はそれをしない。好きだからの一点張り。僕に思い人が出来た時には諦めるが、そうでないならずっといると言う。そして必ずいつか自分を心から求めさせてみせるとも。そう言われた時には呆れながら勝手にしてくれと言った。

 女は強いのか。それとも絢美が特殊なのか。いずれにしても、彼女は僕を刺激してくれている。それだけでも今は彼女を置いている意味があるのかもしれない。


 朝目覚めると、絢美はもういなかった。仕事に行ったらしい。
 テーブルの上には絢美が作ったであろうサラダがラップをかけられ置かれていた。別にわざわざ作らなくてもよかったものを。
 僕は食事に重きを置かないタイプだ。倒れなければいい。だから素早く栄養を補給できる栄養剤とかの方が好きだった。その件で度々絢美には叱られたことがある。
 今日はとりあえず用意されたわけだから、このサラダと冷凍保存しているはずの食パンをトーストでもして食べようか。

 とりあえず、とテレビをつける。仕事以外はテレビを観ることも多かった。これも情報収集のためだ。ニュースに話題のテレビ番組、映画など。範囲外のことも知っておいて損はしない。多くの知識は自分を必ず生かしてくれる。
 この業界は交友関係が全てと言っても過言ではない。関係者全員に偽物の笑顔を振りまく必要はないが、愛想笑いくらいは必要だ。僕は誰彼構わず笑顔を浮かべるのは苦手だ。けれど話題を振られればきちんと返すし、与えられた仕事には全力かまたはそれ以上で返す。それが礼儀だと思っている。それらを続け、とりあえずこの業界で生存出来ている。だが胡座をかいてはいけない。気を抜けば一気にどん底まで落ちる。それが芸能界なのだから。

「……妙に耳に残る声だな。誰だ?」

 ニュース番組からCMに切り替わった。たまに見る某有名メーカーのお菓子のCMが新しいものに変わっている。
 その曲は、曲だけ聴くと爽やかだ。だが歌声がその爽やかさをかき消している。なぜならこの女性シンガーの歌い方が、あまりにも真っ直ぐに心に訴えかけてくる歌い方をするからだ。違和感を与えないためにはシンガーに歌い方を変えてもらう必要がある。だが変えるとこのシンガーの良さを消すだろう。それならもっとふさわしい曲があるはずだ。

「例えばテンポを少しミドルにして、アレンジはもっと――」

 いや、それは僕が考えることじゃない。だが脳内が騒がしい。彼女に合うだろう曲が次々と頭の中に流れていく。まるで自分じゃないような感情に混乱した。

 ――僕をこんな風にする彼女は一体誰だ。

 そのCMは15秒ほどだったためすぐ終わった。アーティスト名も書かれていただろうが見逃した。すぐに僕はこのお菓子のCMソングのことを検索した。するとアーティスト名はすぐにわかった。

「……花村奏」

 偶然、だろうか。幼馴染みの彼女と同じ名前だ。一言一句違わない。アーティスト写真も見てみる。あの頃の面影があった。だが会ったのは10年以上も前のことだ。確証がない。何よりあいつは驚くほど歌が下手だった。

「悩む時間がもったいない」

 僕はすぐにスマホでLINEアプリを立ち上げた。相手はマネージャー。業界の調べ事は自分より彼女にやらせた方が早い。すぐに『花村奏』のことを調べさせた。
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