第7話 中華の行く末

文字数 3,265文字

 荊軻を易水で送ってからしばらくして燕は滅んだ。
 秦王政は薊城を落とした。燕王喜は最果ての遼東まで逃げ太子丹の首を届けて一時的に攻撃は収まったが、その間に秦王政は残った魏、楚、斉を滅ぼし、最終的には燕も遼東に侵攻されて滅んだ。こうして中華の統一はなされた。
 俺は薊城が落城したときに逃れ、筑を封印してとある宗人の家で下働きをして過ごした。薊城が落城した時、秦王政は荊軻の関係者を殺しつくそうとしたと聞く。だが荊軻は予め知人に書をしたためていたため、その多くは難を逃れた。

 秦王政は中華統一後、しばらくして始皇帝と名を変えた。
 荊軻と田光先生が話していたように、秦の法による統治は自由な人の魂を前提としない苛烈なもののように思われた。民はその法によって窮屈な生活に押し込められ、これに反し世を騒がす者は厳しく処罰された。処刑も増えた。一方で、帝の下では万民は等しく臣下となり、これまでの国は廃されて『郡』が置かれ、その下に『県』『郷』『里』が置かれた。旧来の縁故は全て取り払われた。家柄に基づかずその能力によって登用がなされた。
 これに反駁して、どこの馬の骨とも知れぬ者が自分はどこどこの王の末裔だといって祭り上げられ、どこどこの国の将だったという者が狼煙を上げる。戦国の世で利を得ていた者たちの系譜が特に多い。それを秦の軍が平定する。世は未だ乱れてはいたけれども、諸国の兵が戦乱に明け暮れて略奪を働き、村を焼き払われて逃亡するような世は終わったようにも思える。
 これがしばらく続けばいずれ反乱も収まっていくのだろうか。始皇帝は法家の施策をすすめ、李斯(りし)の進言で、混乱のもととなりうる百家の書は焼かれ、始皇帝を非難する儒者を弑した。『世を乱す』の範囲は広く、人は委縮して、義や人の魂は滅ぶのだろうかと思われた。

 そんな折、いつのまにか、市井や侠の間で荊軻の名前がささやかれるようになった。義が滅びかけているからこそ、荊軻の名はより輝きを増す。人の魂に明かりを灯す。

「燕の荊軻というお人が帝をあと一歩のところまで追いつめたらしい」
「たった一人で死を顧みず果敢に立ち向かったとか」

市場に使いに行ったときにこんな話を聞いた。
噂によると荊軻は樊於期将軍の首と督亢の地図を手に堂々と秦王政にまみえた。荊軻はゆるりと地図を開いて現れた匕首を素早く手にし、流れるような動きで秦王政の袖を掴みその袖に刺す。しかし秦王政は辛くも逃れて哀れに惑い、居並ぶ秦の将軍たちを差し置いて、荊軻は柱の裏に隠れる秦王政の後ろ姿を追う。
ようやく剣を抜くよう叫ぶ臣下の言葉に秦王政は剣を抜き荊軻の下腿を刺す。荊軻は手負いとなりながらも匕首を秦王政に放つという武を見せたが小さな匕首と剣では勝敗は明らかだった。荊軻は傷だらけになりながらも堂々と『秦王政を脅して土地を取り返そうとしたが口惜しい』と笑ったそうだ。ただ暗殺を狙うだけではなくその国を思う姿に多くの者が忠義の士だと噂した。

 俺はその噂される荊軻の姿に違和感を覚える。それに荊軻ならば匕首一つでも命を取れないはずがない。
 町の噂を耳にしながら考える。もし荊軻が秦王政を倒していたらどうなっていたか、そんなことも考える。秦王政を荊軻が倒していれば荊軻は死して英雄となっていただろう。しかし荊軻が去ってから秦が中華を統一するまでおよそ6年を要した。秦の層は厚いが、秦王政を失ったのであれば秦は破れていたかもしれない。そうすれば中華はまた麻のように乱れ長く戦乱の世が続いたかもしれない。民草は長く苦しみ、荊軻の義と名は一人の暗殺者としてしか残らなかったように思う。一方、今は反乱は雨後の筍のように発生しているが纏まりはなく、秦は容易に平定している。難局を乗り切れば商鞅のように法家は放逐されるかもしれない。その時に人に魂が残っていればどうだろう。
 荊軻が去ってからの色々な噂を聞くと、荊軻は太子丹に暗殺の時期を遅らせようと進言していたように思える。それに荊軻自身は秦の中華の統一を望んでいたように思う。
 荊軻の、そして田光先生の思う義とはなんだったのだろうか。そんなことをふと考える。筑を打つだけで義を解さない自分にも、義は人の魂に生じるという荊軻の考えがようやく少しわかるような気がした。

 久しぶりに筑を出して荊軻を思って打った。荊軻が求めていたのはどのような世だったのだろう。
 荊軻と最後に飲んだ時と同じように空には三日月が登っていて、あの時と同じような音が出た。荊軻が隣にいるように思う。荊軻を思い浮かべる。荊軻は『残って俺を覚えていてくれ』と言った。
 俺は荊軻と義兄弟の契りを交わしたわけでもないし、荊軻も俺に義を期待したわけではないのだろう。だが俺の心にも荊軻の義と名は刻み込まれている。荊軻の義を残すためには何か方法があるだろうか。



 秦のしがない文官、尚書である私は生涯で3度、魂の震える思いをした。

 一度目は荊軻という男が燕の正使として咸陽宮(かんようきゅう)を訪れた時のことだ。督亢の地図と樊於期の首を持参に秦王政は最上級の礼で迎えた。正使である荊軻の所作は見事なものであったが副使は粗末なもので違和感を覚えた。
 荊軻は歩を進めて地図を開くと中から匕首が現れ、それを手に取った荊軻は王の袖口を刺したように見えた。宮内は騒然とした。それはそうだ、居並ぶ武官はいても宮内では剣を携えることが許されていなかったのだから。
 私は丁度尚書としての役割を果たすため、王の程近くにいた。そこで奇妙なものを見たのだ。荊軻は王に口を寄せ、何かたずねているようであった。王のみが佩剣している。だが王は剣を抜かず柱の裏に逃げ、荊軻は追いかけた。そこで短い時間、王と荊軻は何かを話しているように見えた。しばらくすると王と荊軻は再び柱の裏から現れ、王が剣を抜き荊軻の太腿を傷つけた。荊軻は匕首を投げた。荊軻は熟練の雰囲気を纏っていたにもかかわらず匕首は見当違いの方角に飛んだ。その頃ようやく側近が荊軻を取り囲み殺した。しばらく王は不機嫌であったように思う。
 珍しいことに、荊軻の事件について口を閉ざすようにという触れはなされなかった。荊軻の行動と魂は自然と広がっていったように思う。

 二度目は王が帝となられてしばらく後、高漸離という筑の名手が召抱えられた時だ。臣下の一人が高漸離は荊軻の知己であり処刑すべきであると唱えた。しかし帝はその腕を惜しみ、高漸離の目を潰した上で召抱えることとなった。目を失った奏者では帝に害を与えることはできないということだろう。
 帝は高漸離を親しく遇していたが、ある日突然高漸離は筑の中に鉛塊を隠し、これを帝に投げた。高漸離は盲目であり武人ではないのだから、当然に帝にあたることはない。高漸離は捕らえられ、やがて高漸離という名の者が厳しく処断され車裂きとなったと聞いた。
 この話も口外しないように、とはいわれなかった。高漸離の話も荊軻の話とともにいつのまにか広がっていった。そして儂は一度だけ、たまたま帝の室の近くに寄った際に巧みな筑の音が流れるのを聞いた。

 三度目は私がふと目撃したことだ。宮のある倉庫の一つには驚く量の書物が保管されていた。帝は焚書坑儒の令を出された。百花繚乱とはいえ、怪しげな風説論文も多く流布していた。このような怪しきものに惑わされぬよう、帝は令を出されたのだ。
 令では博士の所持する書物は百家のものであっても焼く必要がないし、医薬、卜筮、種樹などの実利的な書物はそもそも焼く必要はないと定められた。もちろん法家どもの行き過ぎで残念ながら失われるものも出るだろう。しかし戦乱の世でも略奪や炎上などで失われるときは失われるのだ。
 尚書という仕事につく私にとって書物が残るのは喜ばしいことだ。後世に史記は残されるだろう。

 帝が中華を統一されてしばらくがたった。未だ各地に不穏の芽はあるが、中華全土が戦で乱れていた頃よりは格段に平和が訪れている。私はしがない官吏だ。余計なことを口に出す立場にはない。
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