第2話 荊軻との出会い

文字数 4,506文字

 思えば荊軻は不思議な男だった。
 初めて会ったのは酒場だ。俺はその日も酒場で筑を打っていた。筑というのは楽器だ。琵琶ほどの大きさで体の前に持ち、弦を竹撥で打つ。その音は力強く、荒くれの多い酒場の雑駁な雰囲気に合っているように思う。

 一曲打ち終わり、ふと隣を向いた時、静かに涙を流していたのが荊軻だった。

「いい曲だね。貴殿の名前を伺いたい。俺は荊軻という」
「ありがとう。俺は高漸離(こうぜんり)という。見ない顔だね。ここ薊城(けいじょう)は初めてかな?」
「今日着いたんだ、賑やかでいい街だな」

 賑やか、か。
 ここのところ、この薊城に人は増えている。薊城は燕の国都であり、燕は中華の最も北東にある。もともと秦は中華の最も西にあり、とても遠い国だった。秦が領土を拡大するとともに、様々な者が国を渡った。秦とこの燕国の間には(ちょう)という国がある。先年の戦いで秦は平陽(へいよう)で十万の趙兵を斬首したと聞く。平陽は燕の国境にほど近い。
 秦王政が中華統一を口にしたのは未だ記憶に新しい。しかし5年も経たずに中華の半ばは秦の手に落ちようとしている。間もなく燕も攻め込まれるのではないか。そんな不穏な噂ばかりが市井を流れる。

 俺は今、田光(でんこう)先生という方の世話になって招きに応じて筑を打つ生活をしている。その用がない時はこのように色々な酒場を渡り歩いて筑を打っていた。招かれる上等な宴で鳴らす音よりも、この暖かな熱気の溢れる雑踏の方が落ち着いた。もともと俺は根無し草だからな。酒場で知り合う者は多く、秦に近い(しん)(えい)から戦乱を嫌って流れてきたという話も聞く。
 荊軻はもともとは衞の生まれだそうだ。そのような一人なのだろう。

 次に荊軻に会ったのは田光先生の宅だった。
 田光先生は士官はされていないがその名は在野の義士として広く知れ渡っている。若い頃は荒くれていたとも聞くが、今は好好爺然としていて、いろいろな人に交わり手広く交流を深め、その義をなしているそうだ。その懐はとても広い。多くの人が先生を頼り、世話になる。俺もその一人だ。俺の筑を燕国一だと褒めてくれる。

 静かな宴で筑を打つ。いい夜だ。半分に欠けた月が廊下の欄干の間から姿を見せている。
 田光先生は荊軻を、書を好み剣の腕も立つと紹介した。少し意外な気がした。酒場で静かに泣いていた姿からは思い浮かばなかったから。改めて荊軻を見る。理性をたたえた目、穏やかな眉、それからよく見ると引き締まった体軀。なるほど、そう見えなくもない。

「田光先生、実は荊卿とは先日酒場でお会いしました」
「ほう、そうかね。それではわざわざ紹介することもなかったかな」

 田光先生は、ホッホッと穏やかに笑う。杯に酒を満たすと、白い液体から淡い麦の甘い香りが舞った。

「先日は恥ずかしいところをお見せした。高氏の筑に何故か昔のことを思い起こしました。大変素晴らしい腕をお持ちですね」
「光栄です。荊卿は最近こちらにいらしたのですよね。薊城はいかがですか」

 夜は移ろい、いつのまにか月は天高く上る。涼しい風が室内に吹き込んできた。

 俺は筑を打ちながら田光先生と荊軻の話に耳を傾けていた。荊軻の弁は驚くほど滑らかでその知識は広く深い。若いころは官吏を志して諸国を回り、夢破れた後は諸国の志士と交流を深め義侠の徒として生きてきたそうだ。
 さんざんに散らばる話は次第に情勢にうつる。

「やはり秦を止めることはできぬのか」
「難しいですね。秦の巧みな遠交近攻、それに諸侯間には長い戦乱の世を経てもともと信頼がない。かつての合従策のように一丸となれば手はあるかもしれませんが、みな目先のことばかりで裏で足を引っ張り合っている。燕も同じです」
「いずれ燕も飲み込まれるのを待つのみ、か」

 沈痛な気が落ちる。未だ目にしたことはないけれど、秦の足音は不穏とともに日々近づいている。それを振り払うように筑を叩く。

「田光先生、それよりも気になるのは韓子(かんし)です」
「そういえば秦王政は韓子の記した韓非子(かんぴし)を読んで韓子を求めて韓を攻めたという噂だな」
「噂にすぎませんが秦に向かった韓子は戻らないと聞きます。これ以上、秦が法家を重視するようであれば義が滅ぶ」

 義。義侠。
 思わず田光先生に目を向ける。田光先生から以前、侠客というと乱暴者ややくざ者を指すことも多いが、それは間違いだと聞いた。真の義侠は弱き民の側に立って力を振るう。官吏の暴政や圧政があると義士が立ち上がってこれを砕き、民衆を守るものだと。この薊城は国都であるのでさほどではないが、目の届かない地方に行くほど民は虐げられていると聞く。
 人々の暮らしを守るには先生のような義侠が必要だ。熱い魂と熱い血潮を有する者達。田光先生もそのような義侠の徒であると多くの人が噂する。義侠の義とはひとたび交誼を育めば決して裏切ることはないのだという。だからこそ、田光先生の周りには人が集まる。
 けれども韓子によって義が滅ぶとはどういうことか。

「韓子といえば法家ですよね。どうして義が滅ぶのですか?」
「そういえば高さんはあまり諸家に詳しくはないのだよね」
「はい、田光先生。お恥ずかしながら私は筑一辺倒で」
「なに、高さんほどの腕前はそうはいないさ。とても立派なことだよ。そうだな」
「田光先生、私からお話しましょう」
「うん、最近の情勢には荊さんの方が詳しかろう」

 荊軻は全てを見通すような透き通った目で俺をまっすぐに見つめた。

「高氏、秦という土地はどのような土地かご存じですか」
「さて、どうでしょう。私は燕から離れたことはないのです。山間にあるとしか」
「百年ほど前に商鞅(しょうおう)という法家の傑人が秦に士官したのです」
「百年ですか。随分昔のことですね」

 商鞅は当時の秦の君主であった(こう)公に仕官した。当時の秦も内陸奥地にあり、周辺の国からは野蛮な国とみなされていた。孝公は覇道を商鞅に求めた。
 商鞅は法家である。当時の秦に法は存在したが慣習のようなものだった。そこで商鞅は明確な法をたてて順守せよと進言した。だがこれは当時の官吏にとって不都合だった。慣習に従うのが法であれば、慣習だと言っていかようにも財を懐に入れることができる。

 商鞅は反対を押し切り法を定め、厳しく守らせた。戸籍が整備され、田畑の区画が整理され、度量衡(単位・通貨)も統一された。貴族の爵位の上がり下がりにも客観的な基準が定められた。
 最初は不満の声があがったけれど、厳しく法を守らせることによって官吏の圧政は目に見えて減り、これまでの縁故は一掃された。田畑の開墾により収穫は増え、律された兵は屈強となり、秦は強国への道を歩み始めた。その結果は多くの民に歓迎された。

「それは良いことではないのでしょうか。民は圧政から解放されたのでしょう?」
「そうだね。その点については私もそう思う。けれども法というものは峻厳なものだ。特に秦の法はあまりに冷たくて人の魂を見ない」
「人の魂……ですか」
「そうだよ、義侠というものは義をもって正を成す。その熱き魂に従って正義と忠義をなすものだ。だからね、法に反する行いをすることも多い。圧政から民を助けるために官吏を討つ。けれども法では官吏を討ち果たすことは認められていない」

 それは……そうだな。世に広まる義侠の物語にはそういうものが多い。
 けれども官吏が不法を成すのがそもそもの問題なのだから、それを法でなくすというのはよいことなのではないだろうか。
 俺は率直に口にした。

「高氏のいうことは尤もだ。けれどもこういう話がある。商鞅は世策に反対する者を『世を乱す』として処罰した。そして称賛する者もまた、同じく『世を乱す』として処罰した。どうだろう」
「それは……法というものを厳格に行うとそういう結果になってしまうのでしょうか」
「そうだ。法というのは基本的に例外を認めない。例外があるのならこれまでの慣習と同じものになってしまう。例外だと言ってしまえばまた縁故や賄賂が横行してしまう」
「それも……そうなのでしょうね」
「だからこそそれを嫌った商鞅は法を徹底した。その結果には当然不満も起き、結局商鞅は秦を追われることになり逃亡した。世の中を大きく変えるということなのだから仕方がない。拙速すぎたんだろう。それで商鞅は急いで逃げたから旅券を持っていなかった。ところが法では宿に泊まるには旅券が必要だ。どうなったと思う?」

 荊軻はどこか悪戯っぽい口調で皿の干菓子を摘む。高官なのだから普通に泊まれると思うのだが、この流れはひょっとしたら。

「『商鞅様のお触れで旅券を持たない者は泊められない』といわれたそうだよ。触れを出した本人ですらその法を破ることはできないのだから。高氏、法というものは恐ろしいものだと思わないか。暴から逃れてきた親子が一夜の休息を求めたとしても、旅券がなければ泊めると罰されてしまうんだ。そうなれば法を恐れて誰も人を助けることがなくなる」

 まるで喜劇のようだけれども、と経過は続ける。領主の暴虐のために親子が逃げてきたとしても逃亡の罪で囚われるかもしれないし、もしそんな親子を不憫に思って泊めるなら宿屋も罰せられるだろうと言う。確かにそれが当然となった時、人と人との細やかな繋がりが失われてしまうように思われて何も言えなくなった。

「高氏、法と義はなかなか相容れないものなんだよ。さっきも言ったけど義というのは自由な魂に宿るものだ。自由な心で人として正義をなして忠を果たす。弱い者が不当な扱いを受けることが見過ごせない、それが根底にある。法があるから助けるんじゃない。けれども無秩序な正義は法家にとって『世を乱す』者にすぎないんだ」
「よくわからなくなってしまいました。法というのはなんだか冷たいものなのですね」

 ところが田光先生はやわらかに話に加わる。

「高さん、必ずしもそうじゃないんだよ。それは突き詰めればという話だ。ゆるやかに法と共存するという道もある。なにせあの名宰相の管仲(かんちゅう)も法家思想に通じると言われているからね」
「さすがに管仲は存じております。民の生活の安寧を一番にした名相であったとか」

 斉の宰相管仲は民草を愛し、田を分け産業を整備し悪習を取り締まり、その徳を持って豊かな国造りを行ったと聞く。田光先生は法はその定め方にもよると語る。
 だが、と言って荊軻は押し黙る。

「管仲の中には人の魂への信頼がある。だが韓子はだめだ。韓子は人間の根源を悪だと考えている。『人を信ずればすなわち人に制せらる』と言う。人は信じるに足らない敵でしかない。韓子の頭には無私に人を助ける義というものは存在しない。韓子の法は人の心を、そして義を強く拒むんだ。法はより氷のように冷たく硬いものになるだろう」
「だが今のところ秦を止める術はない」
「何とかしなければならないとは思っているのですが、相手は国です。私の力では何もできません。ままなりませんね」

 田光先生は眉根を柔らかく寄せ、荊軻は平陽の方向を静かに眺めていた。
 俺はただの奏者に過ぎない。世情に疎い俺には田光先生と荊軻の思いの全てを理解することはできないが、なんだか中華の未来が暗く冷たいものであるかのように感じた。
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