第1話 一話完結

文字数 1,993文字

 左官職人の辰五郎が裏長屋の井戸端で顔を洗っていると、背後から咳払いが聞こえた。手拭いで顔を拭いながら振り向くと、大家が仁王立ちしている。
「お天道様はとっくに昇っているぞ。また朝帰りか?」
「昨日、奉行所の壁塗りが終わったんで、今日は休みなんでさ」
「てっきり、また博打で朝帰りしたのかと……。お前が博打で朝帰りした時、お仙さんと喧嘩して大騒ぎになっただろう。ワシはお仙さんをなだめるのに大変だったんだぞ」
 先月、辰五郎は博打に夢中になり、夜明けに帰宅した。辰五郎の女房のお仙は烈火のごとく怒り、ほうきを持って辰五郎を追いかけ回したのだ。長屋中が騒ぎになり、大家が中に入ってようやく収まったのだった。
「その節は迷惑を掛けちまって、申し訳ねえ」
「お前もそろそろ三十だ。子供がいないからって、遊んでばかりいてはいかんぞ」
「へい、肝に銘じます」
 辰五郎が頭を下げると、大家は機嫌よく立ち去った。辰五郎はその後ろ姿に向かって「大家の奴、俺の顔を見ると説教しやがって」と小声で言い、舌を出した。
「お前さん、何やってたんだい。早く朝飯を食べておくれ。片付かないじゃないか」
 声の主はお仙だった。
「何って、そりゃ……あははは」
 辰五郎は笑いで誤魔化して家に入り、座敷に置かれている膳の前に座った。膳には飯、味噌汁、昆布の佃煮が並んでいる。
「また昆布の佃煮か。これで三日目だぜ」
「仕様がないじゃないか、まだ余ってるんだから」
 お仙は丼に残っている佃煮を見せた。
「佃煮は好きだけどよ、丼に山盛りになるほど買ってこなくてもいいじゃねえか」
「私は一合枡に一杯って頼んだんだよ。だけど、小僧さんが渡した丼に山盛りにするんだもの」
「やり直させりゃいいじゃねえか」
「そう思ったんだけどね、小僧さんの謝る姿が可愛くて『そのままでいいよ』って、つい言ってしまったんだよ」
「何がついだ。そんなことで――」
 辰五郎の文句を、お仙が途中で遮る。
「お前さん、今日は親方に給金を貰いに行くんだろう。ぐずぐず言ってないで食べちまいなよ」

 お仙に追い出されるようにされて家を出た辰五郎は、親方の家に向かって歩いていた。
「早く行っても仕方がねえのによ」
 ぼやきながら歩を進めている辰五郎の視界に、乾物問屋が入ってきた。
「そういやあ、あの乾物屋を曲がった裏路地にある佃煮屋から買ったって、お仙が言ってたな。小僧のせいで毎日同じ佃煮を食わされてるんだ。文句の一つでも言ってやるか」
 辰五郎が裏路地に入って少し進むと、小さな店構えの佃煮屋があった。台の上に幾つかの大きな器が並べられている。店先には、御新造風の女が立っており、前掛けをした子供が一人で応対していた。お仙が言っていた小僧だ。
 辰五郎は客前で文句を言うのは野暮だと思い直し、店前を通り過ぎて離れた所で待った。
 しばらくして「きゃー可愛い」との声が聞こえた後、御新造風の女が鍋いっぱいの佃煮を持って帰って行った。
 辰五郎が店に向かって歩き出すと、先に町娘が店先に立った。
「海苔の佃煮を一枡分くださいな」
 小僧は町娘から丼を受け取ると、佃煮をなみなみに入れた。
「そんなに要らないわよ」
「間違えちゃった、てへ」
 小僧は後頭部に手を当てて恥ずかしそうに笑い、丼の佃煮を戻そうとした。
「戻さなくていいわよ。可愛いからそのまま買っちゃう」
 町娘は多くなった分の代金を払って立ち去った。
 辰五郎は客が来ないのを確認し、店先に立った。
「いらっしゃいませ」
 小僧がぺこりと頭を下げたが、辰五郎は無視するように迫る。
「お前、わざと多く盛って儲けてやがるな」
 小僧の顔が青くなる。
「おいらが謝ると、みんなそのまま買ってくれるんだ。だから、つい。もうしませんから、誰にも言わないで」
「言いやしねえよ。その変わり、その謝り方を教えてくれねえか?」
「そんなことでいいの? じゃ、やってみるから真似して。間違えちゃった、てへ」
 小僧は手を頭の後ろへ回して笑った。
「こうか? 間違えちゃった、てへ」
「笑い顔が怖いよ」
 辰五郎はやり直すが、小僧は駄目出して手本を見せる。こんなことを繰り返し、何度も謝り方の練習したのだった。

 辰五郎が夜更けに家へ帰ると、お仙は寝ずに待っていた。
「こんな遅くに帰って来るなんて、親方の所で何かあったのかい?」
「親方に給金を貰ったんだが……博打で全部すっちまった。てへ」
 辰五郎は右手で後頭部を触り、はにかむように笑った。
 お仙はポカンとした表情を浮かべたが、次第に鬼の形相へと変えていく。
「お前さん、また博打をやったのかい!」
「あれ、おかしいな。もう一度やるからなよく見とけ。博打で全部すっちまった。てへ」
 辰五郎は再び手を後ろへ回して笑っみせた。
「笑って誤魔化そうたって、そうはいかないよ。今日という今日は許さないからね!」
 そう言ったお仙の手には、心張棒が握られていた。

<終わり>
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