別れのとき

文字数 3,263文字

 待っていた土曜日、倖沢美輪は隅田川の遊歩道を歩いていた。彼女は少し早く蔵前に来てしまったので、時間つぶしにこの川縁に来ていた。その足取りはいかにも軽やかだった。ここに来る途中、偶然にも北沢の噂を耳にしたからなのだろうか。
「あの老舗の鮨屋のご主人のことですよね。奥様は生前大変ご苦労なされたそうですって。なにせ、ご主人が浮気症で心痛が絶えなかったそうで、お亡くなられたのも、ごもっともなことですよね。でも、近頃では、ご主人はすっかり正常になられたようですって。きっと、お家の中で革命でも起こったに違いありません。もしかしら、本当に幸せの女神が降臨したのでしょうか。お子様には、とっても喜ばしい限りだと、ご近所の方は轡を並べておっしゃておられるようですって。どんな女神なのか、一度拝見したいものですよね・・・・」
 この噂に彼女は嬉しくて堪らなかった。行きかう人々はこぞって仏さまのように彼女を祝福しているようだった。それは鮮やかな賛歌の鐘の音となって彼女の胸の鼓動に共鳴しているようだった。

 天気予報では、花火大会が始まる頃には雨模様らしかった。でも、それは彼女にとっては麗しい雨に違いない。彼女は昨夜の夢に見たのだった。
それは、・・・・
 満面の笑顔の北沢が幼い我が子を連れて大きな傘を差して、隅田川の橋近くで彼女を待っていました。彼女は急いでその傘のたもとに向かって走っていきました。子連れの相合い傘が初めて花開いたのでした。一番目の花火がドーンと打ち上げられ、真夏の夜の大空にこれ見よがしに咲き広がったとき、その傘は夜空の果てから舞い落ちる霧のような細かな雨粒を一杯に包んだのでした。どこかで飛行機の飛ぶ音が虫の音のように鳴いていました。それは大幅に時間遅れの出立便のようでした。しかし、誰も気付きませんでした。それから次から次へと花火は雨粒に塗られた夜空に艶やかに咲き乱れました。歓声と燦爛たる夜空を背にして、相合い傘の三人はわが家へと、はしゃぎながら帰って行きました。今、あなたと私、そう歌っているような、北沢は彼女の手を強く握り締めて、彼女は北沢に寄りすがって、幼子は彼女に寄りすがって・・・・。なんだろう?世界は二人のためにだなんて、どこかで聞いたことがある。何十年か前の流行歌のことだろうか、いいえ、そんなことはありますまい・・・・。

 ところが、予想に反し、その夜は晴れ渡っていた。満天の夜空に下弦の月がほのかに浮かび、浴衣姿の二人は、店の二階のベランダで花火が打ち上げられるのを待っていた。隣の小唄稽古所から家元の弾き唄いが聞こえて来る。"川風"という江戸小唄なのか。ほろ酔い加減の吉沢がつられて唄っている。「川風につい誘われて涼み船 文句もいつか口舌(くぜつ)して粋な簾の風の音に 漏れて聞こゆる忍び駒 意気な世界に照る月の 中を流るる隅田川」
 男の子はすでに眠りの中にいる模様。待ちに待った花火が一発打ち上げられた。幾多(いくた)の炎の花びらは艶やかにも(はかな)く宵闇に消えていく。
「美輪さん、外に出ないか。橋の上から花火を見るのもまた風情があるんだ。川面には屋形船が浮かんでいるしね」
「ええ、行って見たいわ。こんな夏の夜は初めてだわ」
「僕もだ。君との想い出の日々の始まりだな」
「素敵な想い出にしたいわ」
『確か、木田譲治も私に対して"君との想い出の日々の始まりだな"、を言ったことがある。なぜだろう、"奥様は生前大変ご苦労なされたそうですって。なにせ、ご主人が浮気症で心痛が絶えなかったそうで、お亡くなられたのも、ごもっともなことですよね"という噂話を思い出してしまう。もしかしたら・・・・』
「キッスして、思い切り・・・・」
「どうしたんだ?血相を変えて。なにか気に障ったのか?」
「私を離さないで、もう後戻りは出来ない・・・・」
「もちろんさ。あなたは僕の妻なのだから」
吉沢は彼女を強く抱きしめキッスを交わした。
『妻なんだ。私は妻なんだ。この(ひと)が浮気をしようとなにをしょうと、私はこの男の妻なんだから・・・・すべて飲み込んで』

 空には次々と花火が咲き乱れては宵闇に消えていく。その消えた束の間の静寂に、江戸小唄が悩ましく二人の耳元で囁く。「・・・・文句もいつか口舌して粋な簾の風の音に 漏れて聞こゆる忍び駒 意気な世界に照る月の 中を流るる隅田川」

「外に出るのは止そうか。このベランダは動かないけど隅田川に浮かぶ屋形船みたいなものだ。この船で一夜を明かすのも良いかな・・・・。どうしたんだ?涙ぐんで」
「私、私たち、この屋形船に乗っているのね。どんなに色あせても、この船は流離うことはないのね。あなたとの(えにし)を、いえ、あなたの(いのち)(かおり)を、私は信じたい」
「僕はあなたの過去など問いはしない。僕の過去も知れたものではない。僕たちはこの船で出航するんだ。今のあなたの横顔、素敵だ。なんの飾りも僕には要らない・・・・。どうしてだ?悲しいのか?そんなに涙ぐんで」
「あなたのその言葉、言葉々々が私の心に突き刺さるの。この風景だけで十分なの。流れゆくあの隅田川の果ての海辺には、数多(あまた)(あくた)が浮かんでいるわ。喜びも、悲しみも、嘆きも、怒りも、なにもかも。そのような言葉が織りなした果ての風景を、私は見たくはない・・・」
「そうだな。僕は饒舌になってしまったようだ。あなたに出合うまでは寡黙だったんだが、つい気が緩んでしまった」
「寡黙でいいのよ。寡黙なおなたが好きなのだから」
「よし、わかった。仕事に邁進しょう」
「そうなのよ。私はこの店の女将、それとも女神かしら・・・・」
「その両方さ。いや、女神なんだ。あなたは女神なんだ」
「あら、霧雨かしら、雨が降り出したわ。濡れるわ。傘が要るわね」
「濡れても構いはしない。あなたと一緒なら」
北沢は彼女の右手を取り、濡れる浴衣の中の自分の左胸にあてた。
「この胸の鼓動、あの花火空と一緒さ。この鼓動を君の記憶に刻んで欲しい」
その胸は分厚く、胸毛のなかで彼女の胸の鼓動も花火空となった。そのとき、ふと、彼女は美しい末期(まつご)を予感した。かねてより思い焦がれていた初恋の(はかな)さというものを知ったと思った。

 ・・・・その数日後、倖沢美輪との婚約を母親に知らせるため、北沢は息子を乗せて自動車で母の居る両国の実家へ向け出かけた。
 その途中のことだった。北沢の車に老人が運転する逆走車が正面衝突し、北沢とその息子は即死した。それを知った彼女は、隅田川に身を投げ、二人の後を追った。

 彼女には、この交通事故が単に老人の認知症が原因で引き起こされたとは思われなかった。その事故には、運転する老人の自殺衝動が万分の一にもあったのではないのかと思われた。
 老人の車は無意識にも自殺の道を走っていた。同じように北沢が運転する車も、その自殺の道を走っていたのではないのか。自殺へと突き進む双方の車が同じ道で鉢合わせになった、いや、出会ったのだと彼女は思った。北沢のあの孤独な笑顔には隠された死への動機があったのかもしれない。その動機の原因は自分が北沢と出会ったことにあるのではないのか、彼女はそう思わざるを得なかった。一つの偶然が別の偶然を産むものとするなら、それは偶然ではなく必然ではないのかと。むしろ、この(はかな)い死別こそが自分たちの愛の(かたち)ではないかとも彼女は思った。
 勿論、彼女が水面に自らの身を投げるとき、彼女の瞼のうらには、花火大会前夜の夢のなかで見た情景、わが家へと、はしゃぎながら帰って行く相合い三人傘の情景があった。

 「美輪、今、なにが見える?」
 「永遠が見えるわ。あなたと一つになった永遠が・・・・」

                           了
 
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