再会のとき

文字数 4,895文字

 週が明け、新しい職場では、彼女の仕事ぶりは以前にもまして手際よくなり、溌剌とした立ち振る舞いが一際目立った。普段の無表情な瞳にも、一点の意味ありげな光が放っていた。それは一つの線となって、美しい深海に差し込み、まだ見ぬものを照らし出そうとする澄んだ藍色に輝く光線に違いなかった。それは、あの瞳、蔵前に棲むあの男の瞳にも似て。

 一日の仕事を終え会社を出ると、きまって木田から電話がかかって来る。まるで彼女を監視しているかのように。
「羽田で言うつもりだったんだが、近いうちにニューヨーク支店に転勤することになったんだ。それで、話したいことがあるんだ。今度の土曜日、ドライブに行かないか?」
「それは、それは、おめでとう。出世コース邁進ということね。でも、今度の土曜日は都合が悪いわ。話ってなんなの?」
「どうしたんだ?なんか僕を避けているみたいだな・・・・」
「避けてなんかいないわ」
「そりゃそうだよな。話というのは、僕と一緒にニューヨークに行って欲しんだ・・・・」
「それって、私へのプロポーズっということ?」
「僕はづうと考えていたんだ。君と一緒になりたいってね。その機会がついに訪れたんだ。是非、僕と一緒にニューヨークに行って欲しい」
「そう俄かに言われても、直ぐには結論は出ないわ。あなたがニューヨークに行ってからでもいいじゃないの。別に焦る必要はないでしょう?」
「じゃ、必ず連絡してくれよ、約束出来るな」
「ええ、わかったわ。私にも考える時間が必要だから」
「ニューヨークへ出立の時は、成田まで見送りに来てくれるよな」
「ええ、わかったわ」
「詳細が決まったらまた連絡するからな。新しい職場で大変だろうが頑張りな。じゃ、バイバイ~~」
 木田は、何もかもが独りよがりだった。ニューヨーク支店に転勤することがすべからく出世コースだとは誰も言えまい。邪魔だから遠くへ放擲(ほうてき)されるということもあり得るのだ。木田のような性格なら尚更。

 今では、彼女は北沢優志郎という男のことが気になって仕方がなかった。ニューヨークへの見送りではなく、東京都台東区蔵前にある"すし処きたざわ"に行く口実を考えなくてはならなかった。

 不思議なものだ。あんなに手持ち無沙汰だった日々が瞬く間に週末の日々に変わった。彼女は自分の美しさに磨きをかけることに余念がなかった。夜には、なぜかスローなジャズを聴き、『私を見て。霧で覆い隠さないで、どこまでも歩いていくわ。なにもかも曝け出して、これが恋なら・・・・』とつぶやくようになった。
 そして、酷暑の土曜日の朝、彼女は出掛けた。出来るだけ遠回りをして、時間を掛けて、ハラハラドキドキしながら・・・・。 

 しかし、そこには見落としがあった。訪ねてはみたものの、男の鮨屋は閉まっていた。玄関扉には張り紙があった。"勝手ながら、七月十一日より七月二十一日まで、臨時休業させて頂きます。すし処きたざわ店主"
 今日は七月二十日だった。黒ずんだ檜板で張られた店の外壁はいかにも堅牢そうに彼女の立ち入るのを拒んでいるようだった。彼女は祈った。この中に居る主あるじに私の気持ちを伝えて欲しいと。
 すると、突然、玄関扉が開いた。
「あっ、あなたでしたか、人の気配がしたものですから。よく、来られましたね。生憎、臨時休業でして、店内はこんな有様です。明日から仕込む予定でおります。ここではなんですので、中に入ってください」
 彼女は紺生地の法被(はっぴ)姿の北沢が別人のように見えた。これが飛行機の中で知り合った同じ男だとは思えなかった。目頭が涙で潤み、地味なストライプのスーツを着ていた陰りのある中年男が今は、こざっぱりした鯔背(いなせ)な感じの若旦那のように見えた。これがまた彼女に新たな胸のときめきを誘った。
 彼女は緊張しながらも仄暗い店内に入った。北沢はカウンター席の上にある天井の灯りを点けた。
 「そこにお座りください。実を言いますと、あの日から今か今かと、あなたが来られるのを待っておりました。きっと来られると信じておりました。私の祈りがあなたに伝わったようです。息子は息子でママに会いたいと泣いてばかりで。・・・・どうぞ、冷たいですが、お茶でもどうぞ」
「まだ息子さんは私のことをママ、ママと呼んでいるのですか」
北沢は彼女の側に座った。彼女は固唾を飲んだ。
「ええ、あなたを母親だと思い込んでいます。・・・・よろしかったらお名前を教えて頂けませんか?」
倖沢美輪(さちざわみわ)と言います。銀行員をしています」
「美輪さん、あの子の母親になってください。と言いますか、私はあなたを一目見たときから、あなたのことが忘れられなくなりました。今もって心は煮えたぎっています。抑えることが出来ません」
一瞬、北沢の左手が動き、カウンターに乗せている彼女の右手をかすめた。そして、すぐに引っ込めた。
「失礼・・・・。申し訳ない」
 北沢の顔は紅潮していた。それが仄暗(ほのくら)い空間のなかで煌々と映えていた。彼女は勇気を出し、言葉をしぼり出した。
「実は、私もあなたのことが忘れられません。これは私にとっては初恋なのです。この歳でです。燃え尽きてもいいと思っています。でも・・・・」
「でも、とは?」
「あの子の母親になれる自信がありません。恋だけで終わらせたいのです。初めから終ることを覚悟した上で言っているのです」
「どう言ったらいいか・・・・、在りのままのあなたで居てください。亡くなった妻も初めての出産で手探りの毎日でした。これには教科書なんてありません。私たちの恋はあくまでも二人だけのものです。未来はなにも決まってはいません」
 北沢は引っ込めていた左手で彼女の右手を包んだ。その左手の肌触りは、幾歳月のすし酢に馴染み(まどか)で柔らかかった。そして、彼女は自分の左手を北沢の左手の上に添えた。更に北沢は自分の右手で彼女の左手を包んだ。二人は四つの手が重なったのを見て、ともに可笑しくなり笑った。
 
 彼女はこうも思った。『亡くなった妻と私とが重なり合えば良いのだわ。どちらもが本物であり、亡くなった妻はこの男ひとの記憶の中で永遠に生き続け、現に生きている私は、この男と先の見えない恋に落ちてゆく。それに、重なり合ったからには、すでに私は亡くなった妻と同じであり、私はすでにこの家で命を全うしていることにもなるのだわ。この背馳(はいち)こそが恋というものだわ。きっと』
 北沢はいきなり彼女を抱き締め熱く接吻を交わした。まるであらゆる背馳を吸収するかのように。
 どれくらい時間が経ったであろうか。外は激しく雨が降っていた。梅雨明けも近かったが、この夏の不順な天候を予感させた。
「ひどい雨ですね。さっきまでは晴れていたんだが・・・・。一晩この店に泊まられたら良いかと思いますが、妻が亡くなってまだ四十九日も経ってはいません。近所の目もありますので、当面は場所を決めてお会いしましょうか。携帯電話の番号を交換しましょう」
彼女は北沢のこの冷静な言葉に失望した。『私は帰りたくない。このまま、この薄暗い世界の中に居たい。なにもかも奪って欲しい・・・・』と。しかし、言葉には出せなかった。
「ええ、交換しましょう・・・・」
「この店は二階が住居になっています。日当たりだけはまずまずです。これからは、この店が、ご自分の家だと思ってください。なんの遠慮も要りません」
「お子さんはどこにおられるのですか?」
「実家の母親に預けております。母親は八十近くになります。実家は隣駅の両国にあります。こちらが、二階への階段です。ちょっと狭いですが」
「このお店は、江戸時代の弘化二年の創業なんですね。随分古いですね」
「いいえ、いいえ、弘化二年なんてまだ新しい方ですよ」
 
 二階に上がり、彼女が最初に目にしたのは仏壇に置かれた銀糸織りの布に包まれた四角い箱、それに黒い縁取りの写真であった。
「これが亡くなった妻の顔写真です」
 写真を見た彼女は目を白黒させた。余りに自分の顔に似ているのだった。
「妻は養生のために福岡県の妻の実家に居りましたが、完治しませんでした」
「これって私の顔写真みたいだわ。この髪型はつい最近まで私がしていたのと同じだわ。これは偶然なんかではないような気がする・・・・」
「これは必然なんです。亡くなった妻があなたを引き寄せたんだと思います。母があなたを見たら腰を抜かすでしょう。あなたは私の妻だ。誰が何と言おうと」
 彼女は北沢の言葉遣いの迫力に震えた。
「亡き妻の部屋はこの隣にあります。あなたの部屋です。狭いですが。でも両国の実家には庭がありまして、こんなものではありませんが・・・・」
 彼女は途惑った。この目の前の生活の場と彼女の抱く初恋とが結びつかなかったからだ。
「大丈夫です。私たちの恋はここに在ってここに在らずですから。ここは、あくまでも仮の住まいだと思ってください」
 二人は再び抱き合い接吻を交わした。
『私の初恋はこのようなものなのだわ。田の字型の和室の中の初恋。すでに現実が眼の前にある。背負わなければならない責任もはっきりしている。これこそが私の初恋なのだ。私が抱くのは、この男の固い頑丈な身体と強い意志。ニューヨークではない』

 その日、夕刻に彼女は北沢の店を後にした。(しの)つく雨が霧雨に変わるのを待ってのことだった。北沢から傘を渡されていた。亡き妻が使っていた傘だという。これを貰ってくれないかと北沢から懇願されたのだった。
 彼女は優しく傘を開いた。そのとき、細かな雨粒が北沢の頬を流れた。それが別れの涙なのかと彼女は思い違えた。でも、それを確認することは無粋(ぶすい)なことだと思い、彼女はさよならだけを残し去っていった。ただ、傘の薄紅色のぼかし柄が彼女に後ろ髪を引かれる思いを誘った。今度は彼女が振り返る番であった。一度ならず二度も。その度に、北沢は孤独な笑顔を湛え大きな手を振って応えた。
  
 あざみ野のワンルームマンションに帰った彼女は、すぐさま北沢に電話をした。
「私です。美輪です。今日は有難うございました」
「いいえ、いいえ、こちらこそ」
その声は跳ねるように元気で、彼女を安心させた。
「来週土曜日の隅田川花火会の日には夕方の五時頃でいいかしら?今まで一度も行ったことがないの」
「人ごみでごった返すので、午後一時頃までに来られたどうですか。開始時間まで二階のパルコ二―で食事をしながら待ちましょう。打ち上げの第二会場は直ぐ近くですから。それより、今すぐにでもあなたに会いたい。寂しくって今晩寝られるかどうかわからない」
「いやだあ、今度の土曜日までお預けです。では、お仕事頑張ってね」
彼女は真逆のことを言った。彼女こそがすぐにでも北沢に会いに行きたいにもかかわらず。
「分かった。では・・・・」
北沢は残念そうに答えた。

 雨はまだ降り続けていた。暫くして彼女は木田から借りた傘の黒い布をハサミで切り裂いていった。
『同期入社というので新入社員合同懇親会に行ったのが間違いの元だった。たった一度の気の(ゆる)みで付き纏われるようになったとは。私は木田に好きだなんて一言も言ってはいない。そんな素振りもしてはいない。彼がニューヨークに行った後、私は退職し、北沢の元で暮らす。もう付き纏われることはない。私は北沢の亡き妻とすり替わるのだから・・・・』
 
 木田の傘は骨だけになった。彼女は、ざまあみろ、と呟いた。そして、その傘を北沢から貰った薄紅色のぼかし柄の傘に添わせた。この光景に彼女は、無様に(あえ)ぐ木田の姿を妄想した。『哀れな奴、もう二度と会うこともない。あの薄紅色のぼかし柄の傘は、間もなく、北沢と息子と私との家族相合い傘に変わるし・・・・』
 彼女は木田に勝ったと思った。


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