出会いのとき  

文字数 2,656文字

 夕闇の福岡空港、週末ともあって羽田行き便の搭乗口は混み合っていた。倖沢美輪は搭乗の順番を待つ乗客の長い列にいた。銀行員の彼女は、四年の博多支店勤務を終え、来週早々転勤先の横浜支店に着任するのだった。
 搭乗を終えたものの彼女が座る43番座席は、ずっと先の機内後部にあった。その43番の通路側の席にはすでに中年らしき男が座っていた。それに遠目には見えなかったが、彼女が近づいて見ると、三、四歳くらいの幼い男の子が真ん中の席に座っていた。どうやら子連れの乗客らしかった。
 「失礼します」と、彼女が通路側の席の男に言ったとき、男は無言のまま重々しく大きな腰を上げた。背丈はさほど高くはなかったが随分恰幅がよかった。短髪の髪型から見て格闘家なのか板前らしき調理職人かのように思えた。顔はといえば、眉毛が太く、やや彫りの深い、ネット画像なんかでよく見にする西郷隆盛の顔を彷彿とさせた。
 窓際の座席に座った彼女は、窓の外の景色を眺め、ほっと息をついた。しかし、先には一つの課題が残っていた。『羽田に到着すると、木田譲治が私を待っている。私より先に東京本社に転勤した東大卒のエリート社員。昔のように私との交際が始まるのを期待している。とっくに終わっているのに、まだ付き纏って来る。彼が語る理想、人生を想像するさえ、私は途方もない隔たりの海原を目の当たりにする。私には彼は若すぎる。羽田で再会したときが、それが別れのときなのだ。今度こそは必ず・・・・』
彼女は気分が晴れなかった。目をつぶった、その瞬間だった。
「パパ、パパ、この人、ママなの?ママなんでしょう?・・・・」
突然、彼女の隣に座っている男の子がまるでびっくりしたように大声で叫んだ。
 
 長らくの沈黙の時間が続いた。それは飛行中の機内では当然のことではあったが、ときにはこうした寓意的な無言の椿事もあるのだろうと彼女は自分に言い聞かせた。
 つれづれに、彼女は時たま男の方を見た。男も彼女の方を見た。目と目が合う度に、なぜか彼女に別れの予感が兆していた。男にもそれは兆していた。ひとときの椿事にも幾久しい人間関係の別れのような雰囲気がすでに二人を包んでいた。男のなにか言い出し兼ねているような表情、それは彼女の不安な表情よりも、より深刻なもののように思われた。男は一体なにを言いたいのか、それを想像すると彼女は泣きそうになった。その彼女の表情を見た男の底知れない潤んだ瞳がさらに彼女の心を打ち続けた。

 羽田空港は土砂降りの雨のなかにあった。機体は無事着陸した。男は子供を起こし、「どうも有難うございました。それでは楽しみにして待っております」と言い、彼女に一礼をして席を後にした。しかし、男には後髪を引かれる思いがあるのは確かだった。男は振り返り、彼女を見たのだった。それも一度ならず二度も。男の子は、ママ、ママと叫んでいた。彼女はただ手を振るだけだった。
 二人の姿が見えなくなると、彼女も席を後にした。降機後、辺りを見渡したが、二人の姿はどこにもなかった。雨だれの夜の中、多くの乗客でごった返す光景が彼女の視線をさえぎった。彼女は男から受け取った名刺を固く握りしめ、預けた荷物の受渡場に行った。
 すると、あの二人の姿があった。彼女は見つからないように柱の陰に隠れた。
「ママ,ママはどこに行ったの・・・・」
男の子が泣き出しそうにしきりに叫んでいた。
「ママは、今度の花火大会に帰って来るから楽しみにしてなさい・・・・」
男はなだめるように言い続けていた。
彼女は二人の情景に居た堪れなくなり泣き崩れた。『もはや、花火大会の日には行くしかない』それが義務、いや、彼女は使命だと思った。
 二人が居なくなると、荷物を受け取り、彼女は到着ロビーに向かった。

 やはり、木田が迎えに来ていた。気障(きざ)っぽい服、靴、なにもかもが昔と同じだった。木田は彼女と同期入社であった。
「お疲れさま、少しやせたようだな。元気か?これで昔のように会えるな。車で来ているから横浜まで送るよ」
「電車で行くわ。横浜は昔住んでいたので懐かしいの」
「この雨だよ。ずぶ濡れになるぜ。いいのかい?・・・・そうかい。この傘を使いな」
「じゃ、遠慮なく借りるわ」
「また連絡するからな。来週から頑張れよ。じゃ、グッドナイッ~~」
 厚かましさと白々しさとが入り混じった木田の言葉使いと態度に、彼女は辟易(へきえき)していたのだった。
 
 電車の中で彼女は、あの親子のことを思い出していた。『まだ幼い子供、父親だけで育てなるなんて出来るのだろうか。鮨屋をやっているというけど、育児に手が回るはずもない。いずれ誰かと結婚するか、親を呼び寄せて育児をまかせるしかないだろう』
 なぜか、彼女はあの男の子が気になり始めていた。『私のことをママと呼んでいた。本当に母親に似ているのだろうか』
 彼女は男から受け取った名刺を改めて見た。男の名前は"北沢優志郎(きたざわゆうじろう)"、鮨屋の名前は"すし処きたざわ"、創業"弘化二年"とあった。
 名刺を見入っているうちに、彼女は気付いた。『機内のあの席から私を見つめる男の眼差し、なにか言い出し兼ねていたような口元、それは、"忘れないで欲しい"と私に訴えていたのだ』と。

 車窓には激しい雨だれの迷路が無限の連鎖を織りなしていた。『もしや、これが恋と言うものかしら。私にとって初めての恋、他人には決して言えなかった恋なき人生、それも終わりとなる。でも、歳の隔たりが大きすぎる。しかも、子持ち。でも、恋だけなら歳の差なんて関係ない。たとえ子持ちであろうと・・・・』
 彼女は花火大会を待たずに、"すし処きたざわ"という鮨屋を訪ねてみることにした。そう思うと、彼女自身の心に薄っすらとした晴れ間が広がった。いつしか、車窓の雨だれは、(みそぎ)の滝の水しぶきのように変わり、清々しい滝風を車窓に吹き突けてやまなかった。

 彼女は横浜駅で市営地下鉄に乗り換え、終着駅のあざみ野駅で降りた。すでに雨は小降りに変わっていた。木田から借りた傘が邪魔になっていた。彼女はその傘を差すこともなく、雨に濡れながら昔住んでいた街の賃貸のワンルームマンションへと急いだ。なぜか"雨に唄えば"を口遊みながら。
  








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