影絵

文字数 1,954文字

 僕らは街の影にすぎない。それを初めて意識したのは僕が十六歳のときだった。
 高校の演劇部に入り、顧問教師の福井先生の白髪交じりの髭面の口元を観ながら高校演劇のイロハを教わっていたある日のこと。
 その日は日曜日で、眠い身体を起こして部室に来ていた。基礎練をして次の舞台の台本読み合わせをみんなですると、ブレイクタイムになった。
 僕は連日の疲れでテーブルに突っ伏して眠ってしまった。いや、起きていたと自分では思う。白昼夢を見た。白昼夢、というよりは黒昼夢だった。それは黒い夢だった。悪魔が僕に囁きかけてきて、死にたい気持ちでいっぱいになった。具体的にどんな夢だったのか、僕はコウモリやフクロウが出てきたこと以外、覚えていない。ただ、そのコウモリやフクロウは全身黒くて、妙に艶めかしく、吸い込まれそうだったことだけ覚えている。
 突っ伏した僕が椅子から倒れると、さすがに目が覚めた。そのときだ。福井先生は、部室の本棚からゴヤの画集を持って来て開き、僕にフランシスコ・デ・ゴヤの銅版画集『ロス・カプリチョス』のなかの有名なエッチング作品、『理性の眠りは怪物を生む』のページを見せながら解説を始めたのだった。
 千七百九十九年にフランシスコ・デ・ゴヤによって制作されたそのエッチング作品『理性の眠りは怪物を生む』は、自身の中に眠っている個人的な悪夢を描き始めるようになったゴヤが、風刺として描いたものである。
 テーブルに突っ伏して眠る人物の背後に、花咲くように黒いコウモリやフクロウが湧いていている。突っ伏すその人物を暗黒の森へと連れ去っていくのではないか、と思える構図のエッチングだ。
 福井先生は僕にゴヤの絵を見せて、こう言う。
「理性が放棄されたファンタジーは信じがたいモンスターを生み出す。この眠る人物は理性であり同時にファンタジーでもある。この眠る人物は芸術の源泉であり、驚異の起源なんだ」
 ただ、と言って先生は付け加える。
「描かれているコウモリやフクロウは『無知』や『愚行』を象徴するものだ、というのがこの作品の重奏性を与える物でね、さて、成瀬川。おまえが観ていた夢はどんな夢だ?」

 僕は学校から帰宅しては日々、深夜帯に小説を書くようになっていた。小説と言えば聞こえが良いが、正直、自分で読んでも下手っぴな代物である。深夜十二時を針が指さした影時間に、僕は闇に紛れて暗い心情を吐露するだけの、地下室の手記を書く。それは自意識に塗れていて、描写もへったくれもない。それをワープロでタイピングしながら、僕は悦に入っていた。無知な僕が描く愚行の極みが、まさにその小説だった。
 僕は部屋の電気を消して真っ暗にして、机のライトだけつけてスポットライトを浴びるような雰囲気にして、そのなかで小説を書いていた。それは快楽だった。僕に許された自由が、そこにあった。でも、そのスポットで出来る影こそが、僕の〈本体〉だったのではないか。
 福井先生の開いたゴヤの画集と、その説明を聞いて、僕は思う。休み時間とは言え部活中に眠るほど打ち込むべきことでもなかろう、と。

 部屋の中でつくったスポットライトを浴びて執筆する僕はしかし、普段は学生服を着て、無個性を旨として、繁華街を歩いて、誰も僕を知らないことに安堵している。街の影が僕だ。そんな僕は、部活で高校演劇の俳優をしている。なにか倒錯して捻れた歪みを、感じていたところだ。黒いコウモリやフクロウが背中から湧いた机に突っ伏した人物が観る黒い夢のその自意識と無意識こそが、理性とファンタジーで出来た芸術の源泉である、ということとそれは同義だ。

「僕らは街の影にすぎない。この影絵を〈再演〉するのが、演劇なのではないでしょうか」
 僕が髭面の福井先生に言うと、先生は豪快に笑って返す。
「そうだな。アングラ演劇は暗黒舞踏がベースになっている、という説がある。その話も追々していきたいが、成瀬川、おまえは青春という〈一回性〉の輝きを〈再演〉させたいときが来るだろう。おそらくは毎夜書いているその小説で、な。たぶん、そのときこそ、〈街の影〉の〈正体〉を掴めるときだ」
「どういうことですか」
「そのうちわかるさ。十六歳で街の影を意識出来たっていうなら、それに越したことはないさ。楽しめよ、この〈影絵〉を。いや、理性の眠りが怪物を生む、その瞬間瞬間を、だな」
「キザな台詞ですね、先生」
「成瀬川の書いた小説を、いつかおれにも見せてくれ」
「でもそれはきっと〈理性〉よりも」
「そうだな。理性よりも、それが眠って〈狂気〉という〈怪物〉になったときに、読むさ」
「上手いですね、先生」
「そりゃあ顧問だからな。さて、宵闇が迫るまで、部活を続けるぞ」
 僕らは街の影にすぎない。それを初めて意識したのは僕が十六歳のときだった。
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