第33話 「俺たちのクラスに小泉遼子という子が居たのを憶えているか?」 

文字数 3,288文字

「久し振りに逢って、なんだお前か、は無いだろう」
バーテンダー嶋木の差し出した水割りを一口啜り乍ら、後藤は片頬に苦笑いを浮かべて言った。
後藤と嶋木は小学校からの同級生で仲の良い友人同士だった。
嶋木は夜の水商売で生活の時間帯もリズムも異なる為、友人や昔の仲間達と会う機会は極めて少ない。大学時代もそうだったが、卒業後は一段とそれが顕著になった。後藤はそんな嶋木を思いやって、足の労を厭わずよくこの店にやって来る。
後藤は高校を卒業した後、農業大学に進み父親の営む家業の造園業で修業を積んだが、その父親が亡くなった今は後を継いで自前でやっている。
「どうだ、景気が上向いて来て、結構忙しいのだろう?」
「ああ、忙しいのは忙しいな。でもな、目一杯コストを叩かれるから一向に儲からんよ」
「結構じゃないか。塵も積もれば山となる、さ」
二人は暫く、仕事のこと、世間のこと、お互いの近況などを当り障り無く話し合った。
後藤は庭作りの話になると能弁になって楽しく話した。嶋木が相槌を打ち質問をし、頷きながら後藤の話を聴いた。
 それから、不意に後藤が話題を変えて嶋木に聞いた。
「あのな、俺たちのクラスに小泉遼子という子が居たのを憶えているか?」
「ああ、憶えているよ。児童養護施設から通っていた可愛い子だろう」
「そうだ。あの可愛い娘だ」
 二人は十年前のあの頃を懐かしく思い出した。
あの頃、後藤には遼子に淡い恋の憧れがあった。切れ長の涼しげな瞳に筋が通って先の尖った鼻、抜群のプロポーションで長い黒髪を波打たせて歩く遼子は男子生徒の憧れの的であった。だが、何かの折に鋭い尖った眼をして暗い陰りを覗かせる遼子には誰もが近寄り難かった。皆、遠くから眺めているだけだった。
 後藤と遼子は仲が良かった。
あれは小学五年生の夏休みが明けて直ぐだった。クラスの餓鬼大将に膨らみ始めた胸を
触られた遼子が「何するのよ!」と食って掛かって行った。が、相手はへらへらと嘲笑って他の仲間達とより一層囃し立てた。それにカッと腹を立てた遼子は、自分よりも体格の大きな相手に、矢庭に掴み掛かって行った。同級生達は男の子も女の子も、相手がガキ大将の悪学童だったので、見て見ぬ振りで素知らぬ顔をしていた。
後藤はそんなクラスメイトに訳の解らぬ怒りを覚え、遼子に加勢して、相手に殴り掛かって行った。机や椅子が乱れ、男の子が騒ぎ、女の子が叫喚した。それから二人は大の仲良しになった。
 中学二年になった時、クラスに菅原と言う男の生徒が転入して来た。大柄の鋭い眼をした子だった。気は強かったが率直な物言いだった菅原は上手くクラスに溶け込んで皆と直ぐに仲良くなった。
二年生の終わる学年末試験の前日に、下校する後藤、嶋木、遼子、菅原の四人が校門の前で顔を合わせた。
一緒に帰ることにした四人は、途中、小高い山頂の公園広場へ連れ立って登った。眼下には、早春の暮れ行く夕焼け空の下に人家が密集しているのが見えた。
四人は誰からとも無く、小石を拾って人家に向かって投げ始めた。
皆、出来るだけ遠くへ放うれるように力を込めて投げた。
一投目、二投目、だが、四人が幾ら力をこめて投げても、石は夕暮れの街の喧騒に吸い込まれて、ガラスの砕ける音も、屋根に弾む音も、壁に当る音も、樹枝にかすれる音も、何一つ聞こえて来なかった。石は無限の空間へ吸収されて、四人の何の悪意も無い投石を巨大な何者かの掌が受取ってしまうかのようであった。
「ねえッ、石は何処へ消えてしまったの?何の音も聞こえて来ないわよ!」
遼子が戸惑って叫んだ。
「この野郎!」「今畜生!」と繰り返して何回も何回も石を投げてみたが、結果は同じだった。何の物音も返って来ない。
この現実の世で安穏に日常生活を送っている大人や年寄りや子供たちを、私たち四人の小さな石から守る何か巨大なものが存在するのではないか、と遼子は思った。
横で嶋木が言った。
「なあ、小泉。俺たちが例えば百回以上も石を投げてみても、何一つこの現実の世に結果が現れないとしたら、俺たちが自分の存在を確認する為には、小石などという不確かな小さなものではなく、もっと確実な方法で、この現実の世に凄い結果を引き起こさなければならないのではないか?」
そうだ、その通りだわ、と遼子も思った。四人はその時初めて、自己の不在ということに意識を馳せたのだった。
 高校二年の秋の或る日、施設の遼子宛に一通の手紙が届いた。それはラブレターだった。ラブレターは同じ高校の同級生から出されたものであった。
君が好きだ、ゆっくり二人で話がしたい、就いては、今週の土曜日、午後二時に高校と同じ地名の名前が冠されている橋の下の河原で待っている、是非来て欲しい、そういう内容が熱い思いと共に綴られていた。
 翌日、遼子は下校時に後藤の袖を引っ張って相談を持ち掛けた。
「へえ~。なかなか彼奴もやるじゃない、行って来れば?」
「冗談言わないで、真剣に考えてよ」
「お前、行きたいのか行きたくないのかどっちなのだ?それが先決だろうが・・・・・。それに、俺にどうしろと言うのだ?」
「そりゃ、あの人は、背は高いし、ハンサムだし、それに、秀才だし・・・。でもね、私、あの人がこんな手紙を出す人にはどうしても思えないのよ」
「と言うと、どういうことだ?」
「誰かの悪戯じゃないかと思うの。誰かが私をからかって陰で嗤っているんじゃないかと、そんな気がするのよね。ねえ、ねえ、後藤君が行って見て来てくれない?」
「冗談言うなよ。俺が行ってどうするのだよ?」
「真実に来ているかどうか、見て来てくれれば、それで良いのよ」
「そうか、そう言われれば、東京の国立大を目指して受験勉強に忙しい秀才がそんなことを考えている余裕はないかも知れないな。よし解った。俺が行って見て来てやるよ。土曜日の午後二時だよな」
結果は遼子の予測した通りだった。誰かが秘かに隠れて様子を見ていたかも知れないが、当の秀才の姿は何処にもなかった。
後藤は遼子以上に憤慨し激怒した。
「必ず犯人を暴き出して吐かせてやるからな。待っていろよ、な、小泉」
後藤は嶋木と菅原に協力を仰ぎ虱潰しに聞き込みを始めた。
 十日後、四人は悪質な悪戯の犯人を特定して、当の河原へ呼び出した。体操部の女生徒二人に男子生徒一人の三人だった。男子生徒は、手紙にも宛先や差出人にも男文字が必要だ、と二人に頼まれたことをすらすらと喋ったが、女生徒は二人とも頑なにしぶとく白を切った。
「可愛い顔して、良いスタイルして、なのに、頭も心も腐っているのか!少しは恥を知りなさいよ!」
辛抱し切れなくなった遼子は髪を振り乱して二人を袋叩きにした。自分でも訳の判らぬ凶暴さに駆り立てられていた。後藤が吃驚して途中で止めに入った程だった。男子生徒は立ち会っていた後藤に這いつくばって謝り、嶋木から一発パンチを喰らって、そそくさと逃げ去った。
それから、遼子は、あいつは親無し子の孤児だ、やくざの妾の子だ、何をするか解らない怖い奴だ、と皆から白い眼で見られて蔑まれた。遼子は負けずに何時もきつい冷ややかな眼差しで睨み返したが、その度に胸の中に憤怒の波が大きく逆立った。
 四人は卒業するまで仲良く過ごした。
学園祭の前夜祭では校庭に設えられた大きなキャンプファイアーを囲んでフォークダンスに興じたし、修学旅行では四人して葡萄酒にしこたま酔っ払い引率の先生から大目玉を喰った。
春休みには、他の仲間たち数人を誘って、桜の散り敷くサイクリングロードを歌声合わせて走った。白いマフラーを風に靡かせて軽快にペダルを漕ぐ遼子は誰よりも魅力的だった。
だが、卒業した後、遼子からは音信が遠ざかり、やがて消息が絶たれてしまった。後藤にとっては甘酸っぱい淡い青春の思い出となった。
「俺たちと同い歳だから、もう結婚して子供も出来ているだろう。何処かで逢ったのか?」
「うん、逢った。だがな、悪いことに、あいつ、男を刺して刑務所に入っているんだ」
「えっ?どうしたんだ、また?」
「それが・・・」
「あいつは孤児院を巣立ってからどんな暮らしをして来たんだ?」
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