第2話 嶋木、16歳でボクシングを始める

文字数 1,129文字

 嶋木は高校一年の十六歳の時、同級の後藤に誘われて街の大きなボクシングジムを訪れた。毎週日曜日にアマチュア同士の試合が行われていた。それが嶋木の出発点であった。
 ジムに通い始めてから暫くして、嶋木も日曜日の試合に出るようになった。
嶋木はボクシングを通じて嘗て無い高揚感と燃焼感と、そして、この現実の世での自己の実在感というものを初めて実感した。嶋木はリングの上で生き生きと輝いて相手と打ち合った。そこには不安や焦燥が湧き上がって来る余地は全く無かった。眦を吊上げて激突する行為の中で、相手の弱点を徹底的に突いての潰し合いの中で、嶋木は無意識の内に自分自身を賭けて何かを獲ち得ようとした。
 人は、たとえそれが失敗に終わっても、出来る限りを試ってみる人間が一番素晴しい。嶋木はボクシングで闘っている世界では生きている自分を捉えることが出来た。緊張、闘争、燃焼、驚愕、憧憬、羨望、生命、自由、そして秩序さえもが、そう、この現実の世で他人が失っている総てのものが、その透明に熱した明るい世界には在った。
 人間が蘇生するのは五感が感じて身体が動き、その中で甦る。それは他人に頼ってもならず頼られてもならず、自分一人だけのものであり、他の誰にも奪われることの無い唯一のものである。誰がどう足掻こうとそれは嶋木が一人で打ち立て、ひとりで味わい満足するものであり、誰も要らないぎらぎらした華やかな孤独そのものである。誰にも立ち入ることの出来ない嶋木自身なのであった。
 人は何かをする時に、そのことの意味を問う。或いは、自分がそこに居ることの意味を、納得のいく理由を求める。人はただ単に生きるだけではなく、生きながら生きることの意味を考えないではいられない。何かをしながら、それをしていることの意味について、考えずには居られない。自分がそこに今居ることの意味を、自分なりに見出せない時には、「ただ生きる」ことさえしんどくなって来る。
 人間というものは自分で自分を甦らせる場所をそれぞれ持っている。そして、その中では皆それぞれ独りきりである。独りきりだからこそそれが出来るのである。他人が其処に入ろうとしても入れるものではない。その点で人間は皆独りきりの筈である。
嶋木が真に望んだものは闘う自分自身ではなく、闘いの向こうに拡がる恍惚とした燃焼を信じることであった。身体の深奥から湧き上がって来る何か異様な激しいものに揺り動かされての憑かれたような燃焼そのものであった。
 試合に出るようになった嶋木は、勝ったり負けたりでボクサーとしての可能性は平凡であった。が、十七歳のプロデビュー戦を勝利で飾ると、そこから連勝を重ねて頭角を現した。
そして、あの忘れられない一戦の日がやって来た。
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