現代のピーターパン1

文字数 4,666文字

トンネルをくぐると、そこは肉体の楽園だった。
澤部俊郎は、咄嗟にそう思っていた。
ここまで、随分と長い旅路だった。
今年で55歳。もう自慰をするのも、仕事をするのも、孫をあやすのも億劫だった。
コンピュータ会社で会計をして必死で顧客を満足させては、疲労を癒すために自慰をした。家に帰って妻を抱いた後で自慰をした。長男の進学に一喜一憂し、孫が生まれたので悪戦苦闘してサッカーやピアノを習わせては自慰をした。
ある日、自分がやっていることは、結局の所全部、自慰に集約されているのではないかと思うようになった。
しこりしこり、しこりしこり、と必死でペニスの皮を上下に動かしながら、ああ若いころはもっと気持ち良かったのになあ、と思いながらなんとか精液を噴出させて、ネズミの痙攣のような快感の後で、安定剤と睡眠導入剤をたっぷりと使ってから眠り、目覚めてからまた孫娘の笑顔を見て、「これこそが幸せなんだ」と言い聞かせてまた仕事に向かう。
空しくなっていきなり会社を辞めた。周りの人は「俊郎さんはよく頑張ったからね」と気遣ってくれた。将棋と盆栽とネットゲームを始めたが、別に何も感じなかった。
それは、暗いトンネルだった。
確かに前方には光があるのだが、通り抜けた先もまた地獄なんじゃないのか、と思わせるのに十分な長さのトンネルだった。
このトンネルは、随分と長い。
 六本木ヒルズの地下5階の従業員通路から入ってきたが、もう一時間は歩いている。
 ヒルズ族の大半が、大金を払ってこのトンネルをくぐり、そして二度と戻ってこないらしい。
 俊郎も貯蓄のほとんどを使ったが、長男はもう公務員にしているので孫は大丈夫だろう。
 まだまだ先が長い。
 持ってきた水筒の水を飲む。
 電子機器や財布は、トンネルの入り口で取り上げられている。
 この先にあるネバーランドへの情報が漏れないように、とのことだ。
 ネバーランド―。
 随分と前から、その名前を聞く。
 いや、意識的にその情報を得てきたのだ。
「全部、取っ払ってくれますよ」と、会員権を渡してくれた男はにこやかに笑っていた。
「嫌なものを取っ払うのは簡単なんです。このネバーランドはね。いいものを全部取っ払ってくれるんです。分かりますよね、この意味が? いいもんですよ、いいもん。全部、取っ払ってくれて、人生を皮を剥きたてのちんこみたいにしてくれるんです」
 俊郎はその言葉を反芻しながら、トンネルを歩いていた。
 長い。
 長い道のりだ。
 ひょっとして、半グレが待ち受けていてボウガンで撃ち殺されるんじゃないのか、という考えも頭をよぎったが、別に構わずに歩き続けた。
 そして、長い長い道のりを歩いてトンネルをくぐると、そこは肉体の楽園だった。
 光と交響曲に包まれていた。
「ようこそ、俊郎様。お待ちしてました」
 白い薄手のローブだけを身に纏った美しい少女が大声で言うと、その隣にいた裸の子供たちが頑張ってクラッカーを鳴らした。
「ようこそ、おじさま」
「ようこそー、きゃははは」
 少女たちは、少し恥じらいながら手で股間を隠していた。男の子はその横で女の子の胸や尻を指でつついている。
 オーケストラの団員はみな下半身を丸出しにしたり、鷲の仮面をかぶったりしていたが、腕前は一級品のようで、ハイドンの「時計」を正確に演奏している。
「俊郎様、こちらへどうぞ。さあ、ジュースにウォッカになんでもあるし、もう度数を指摘してくる主治医もどこにもいません。全部自由ですよ。私はミノリ、といいます」
 それは、信じられないような美少女だった。
 ミノリは美しい金髪をたなびかせ、薄い白いローブを羽織っていて欧州の姫のようだったが、子供のように笑っていた。
「わたし、ヨリコ」
 裸の幼い少女ヨリコはくすくすと笑い、その隣にも同い年の裸の少年がいてヨリコの乳首を指でつついてはけらけらと笑っていた。
「僕、ハヤト。ヨリコとけっこんするもん」
 ヨリコは「きゃああ」と笑いながらハヤトに抱きつき、二人の子供は裸のままで柔らかい絨毯に寝転がった。
 路上では見覚えのある元Jリーガーがサッカーボールに拳銃の弾を打ち込んで破裂させていっており、元野球選手二人は鎧兜を身に着けてバットでチャンバラを演じていたが二人とも本気で打ち込んでいるようだった。
「どっちが四番だ? どっちの打率が高い? ええ? 言ってみろ」
 大柄な方の野球選手が、小柄な方をバットで打ちのめしているようだ。
 置かれた車の中で、少年は母親を犯していた。その車のボンネットの上で、父親は娘を犯していた。髭の生えた父親は高校生の娘を犯しながら「ようこそ、“ネバーランド”へ! どうです、お近づきの印にあなたもヤりませんか?」と爽やかに微笑した。
 娘も「やだ、お父様ったら。いきなりじゃ、このおじさまがびっくりよ」とあまり嫌がってはいない様子だった。
 ハイドンを演奏している楽団員の一人が、前の女楽団員の口にペニスを近づけると、女楽団員はチェロを演奏しながら素早くぺろりと舐めた。
 ミノリは俊郎を優しく抱きしめた。俊郎は自分の膝が震えていることに気づいた。
「もう、何もしなくていいんです。会社も家庭も残業も社会も政治も選挙も気配りも思いやりも根回しも墓参りも、上司の全くつまらない内輪ネタへの愛想笑いも、興味の無いアイドルをチェックして後輩たちの話題に入ろうとする努力も、枯れ木のようにしなびた妻への誕生日プレゼントも、たまの休日なのに混雑した遊園地巡りも、何もかも全部しなくていいんです。俊郎様、あなたは自由なんです」
 ミノリの腕と声は温かかった。
 俊郎は涙を流していた。
 それは、感動の涙だった。
 ミノリは優しい目で言った。
「ここのルールは一つだけ。他人を否定しないこと。それだけを守ってくれれば、全て自由なんです。私を犯すのもヨリコを舌でたっぷりと舐めるのも全てが自由ですが、相手が嫌がったら止めてくださいね」
「もう、なんでもいいんだな?」
 俊郎は震え声で言った。
「おしっこしなくていいんですか? 長いトンネルだったでしょう」
「ああ」
 俊郎はもよおしていた。
「ここでしていいんです。さあ、俊郎様。おしっこをしましょう」
「そ、そんな馬鹿な。こんな所でいきなり……」
 俊郎は狼狽していた。
「初めは私が覆っておいてあげます。大丈夫ですよ」
 ミノリはぎゅうと抱きしめてくれた。
 高校時代に出来た恋人と初めて手を繋いだ瞬間を思い出していた。
「おじさま、私も一緒にしたげる。おしっこしよ」
 ヨリコがそう言ってかがんだ。ハヤトは素早く俊郎のズボンを脱がしていた。
 俊郎に最後に残った羞恥心が、尿道を止めていた。
 みんなが見ている。
 みんなが見ているのだ。
 これが決壊すれば、全てが無くなる。
 今まで気づきあげてきた自分の名誉も地位も。
「俊郎様、まだ少し悩んでおられるようですね。少し失礼します」
 ミノリは接吻した。
 それは初めて食べるチョコレートの味で、初めて舐める女の肌の感覚だった。
 同時に、何か苦いような感覚が喉を通った。
「う……」
 もよおしは、一気に強まった。
「失礼しました、少しばかり下剤を入れました」
 ミノリはいたずらをしたようにペロリと舌を出した。
「そ、そんな。ミノリ」
 俊郎は呻いていた。
「小の方だけです。大丈夫ですよ。もう、俊郎様。まだ、現世に未練があるんですか? ほら、これでどうです?」
 ミノリの人造的な程に白い指が、俊郎の太ももをつうとなぞっていき、それはあっさりといちもつに達していた。
「あああっ」
 半分、官能を感じながら俊郎は声を出していた。
 次の瞬間、俊郎は今までの会社や家庭での出来事、女房との結婚と夕食へのクレームの後の喧嘩、孫のあやかの誕生とそれをあやすことの喜びと疲労、出世すれば出世するほど、楽しい現場から離れなければならない日本企業への不満、疲れ果てて自慰をするたびに、もっと疲労を感じてまた会社に向かう絶望的な徒労感、何故貯蓄があるのに仕事を続けなければいけないのかという疑問。
 それら全てが、一気に尿道から噴出された。
 気持ちいい。
 ああ、なんて気持ちいいのだ。
 ミノリの腕に包まれながらの放尿は、初めてのマスターベーション以上に気持ち良かった。
 あの初めてのマスターベーションを思い出す。
 あれは、小学六年生の昼下がりだった。
 俊郎はテーブルの下で漫画を読んでおり、椅子には両親も姉も座っていた。
 また、俊郎テーブルの下だね、と姉が笑う声が聞こえるが、構わずに漫画を読む。窮屈なので下半身をもぞもぞとさせていると、次第に股間にうずきを感じた。何度か態勢を入れ替えているうちに、次第に自分がうずきのために腰を動かしていることを悟った。
 何かがペニスから出る。
 そうか、これがオナニーなんだと直感的に思ったが、椅子には家族がみんな座っているのだ。それでも、やめられない。おちんちんを絨毯にこすりつけるのを、やめられないのだ。
 なに、もぞもぞしてるのー、という姉はひょっとして自分のオナニー気づいているのかいないのか、と思っている内にそれは達した。 
 頭が白濁し、とても気持ちいいものが一気におちんちんから噴出されたのだ。
 テレビの中の笑い声と、母がつられて笑っているのを聞きながら、快感は終わった。
「どうされました、俊郎様? 今、どんなお気持ちですか?」
 俊郎はまた感涙していることに気づいた。
「何故泣いているのです?」
 ミノリは優しく問いかける。
「全てを思い出して、そして全てを忘れたからだよ」
 俊郎は答えた。
 ミノリは美しく笑い、恋人のように抱きしめてくれた。失禁したばかりの俊郎を、抱きしめながら再びキスをした。
「改めてようこそ、“ネバーランド”へ。ここでは、全てが許されます。失禁してもいいし、ここでオナニーをしてもいいし、今すぐ私を犯してもいいんです」
「ああ、ああ」
 俊郎は感動の声を上げていた。
「他人を否定しなければ、全てが許されるんです。ヨリコを犯しても、ハヤトを犯してもいい、男の方が好みならいっぱい可愛い子がいるので、承諾があれば犯してもいいんです。人を殴ったりするのも、承諾があれば大丈夫です。私はできれば止めていただきたいですけどね」
 ミノリはにこりと笑った。
 その後ろにはミノリにそっくりな美少年が、上半身裸の状態で爽やかに微笑んでいる。
「全てが許される楽園、“ネバーランド”にようこそ俊郎様。あなたは記念すべき100人目の入園者なので、とっておきの歓待をしました。どうでしたか?」
 俊郎は言った。
「最高に決まっているだろう」
 そして、自分からミノリに口づけした。
「あはは、おじさまとミノリ恋人みたい」
 ヨリコは尻まるだしで、左右に可愛く振っているようだ。
 楽団は正確に「時計」を奏で続け、野球選手の大柄な方は、小柄な方を打ち倒し、さらに蹴りを入れている。
 赤い車の中の少年は、小さいペニスで必死で母親を犯し続け、ボンネットの父親はまだまだ腰を振って娘から、「もう、お父様。早くイってよ」と笑われている。
 楽団の「時計」は四楽章を引き終わり、盛大なフィナーレを迎えた。
 俊郎は涙を浮かべながら、ミノリにキスをし続けた。
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