第9話 岩の坂に暗鬱ありて

文字数 8,053文字

 板橋宿は、江戸時代までは中山道の宿場町として栄えていた。しかし、明治時代に入り、鉄道駅の誘致を拒否してからは衰退の一途をたどる。
 今では帝都近郊でも有数の貧民窟の一つだ。
 岩の坂の蔑称「嫌の坂」には、縁切り伝説だけではなく、現在の岩の坂における惨憺たるあばら屋の群れの様子も、一役買っているに違いない。
 縁切り榎は岩の坂の、坂道の始まりのあたりにある。
 榎のすぐ近くに茶屋があり、そこから一本道の坂道を登るにつれて、貧民窟は暗澹たる様見せつける。まるで縁切り榎が、貧民窟との境目を作っているように見えた。
 独歩たち四人は、ひとまずこの坂下の茶屋で茶と団子を頼み、外の様相について語らっているのであった。
 茶屋には若い女が二人、年配の男が一人。女は貧民窟に用事があるとも思えぬから、もしかすると苦慮の末に縁切りを願いにきたのかもしれない。
「いつの世も痴情のもつれは深刻なる悩み事と見える」
「わからんぞ。貧乏との縁だって切れるかもしれん。お前は会社のためにもよぉく榎に手を合わせることだな」
 なんとなしに呟いた一言を花袋に揶揄されて、独歩は彼のスネをステッキで軽くこづいた。
「僕なんて、君に比べたら随分なお坊ちゃんだ。君が大変な思いをして今の立場にきたことは尊敬するけども、下世話な冗談はやめたまえよ」
「……いや、まぁ、俺は単純にお前の会社の経営が上手くいけばと思って言っただけなんだが」
 花袋は父を早くに亡くし、子供の頃から奉公に出ていた。だから貧しくて働かざるをえない者の気持ちはよくわかるだろう。
 そんな彼から見れば、親の金で学校に行き、仕事もころころ変えて、仲間と一緒にやりたくて会社経営にまで手を出した独歩など「お坊ちゃん」としかいいようがない。
 しかし、彼の揶揄をたしなめたのは、そんな個人的な事情とは関係ないことだ。
 独歩は黙ってステッキの先を、茶屋の向こう、坂道の上にむかって振る。そこには貧民の姿がある。自分達とは比べようもない、清貧とは程遠い深刻な困窮にあえぐ人々だ。
「あれを見て貧困との縁切りが叶うと思うのかね、友よ」
「ああー、そうだなぁ」
 花袋は納得した様子で、渋面のまま茶をすすった。
「生まれた時から選びようのない貧困に陥った者と、多少事業に難があったというだけの僕では、比べるに値しない。彼らはあれで、真剣に生きているんだ。神に願って救われるか。それなら良い。でもそうじゃない者だっている」
 帝都にはいくつか貧民窟が存在するが、中でも一等に有名で最も大規模なのは、岩の坂ではなく四ツ谷である。日本軍の拠点が近くにあるので、残飯にありつきやすいからだ。貧民は、学校や軍隊から出た残飯を買って飢えをしのぐ。残飯が出なかった時には、調理の際に出た野菜くずを買い取って味の薄い汁物にして配られる。
 貧民はこぞって端金を出し、その生ゴミに等しい汁をすすりにいく。米の形も残っていない、糊を薄めたような粥でも、食べるものがあるだけ彼らにとっては暁光である。
 岩の坂は鉄道駅が遠く、板橋宿も凋落した今となっては、残飯にありつける場所も少ない。だから貧民窟もこの坂道の近くに集中しており、規模としては大きくなかった。
 彼らは馬や人力車を使うほどの金も持ち合わせていないから、日銭を稼ぐためにその足であちらこちらへと出向く。貧民には人力車の車夫が多くいるのに、彼ら自身は車に乗ることはできないのである。
 使えるかもわからないガラクタを売り歩く者、痩せた赤子を背負う骨と皮ばかりの子供。働き口が見つからなかったのか、最早全てを投げ出したのか、安酒の瓶を抱えて道に寝転がるシミだらけのボロを纏った男――。
「落ちたくて落ちる人間などそうそういない。残飯をありがたがる貧民と、洋館で踊り明かす金持ちとで、その魂の重さに違いがあるというのか。前世の彼らに何か罪があったから落ちたとして、それは今の彼らがこの暮らしに甘んじる慰めになろうか」
「キリスト教徒がそれ言っちゃっていいのか?」
「花袋、僕は文学とは真実を書き留めるものと思っている。貧民から目を逸らしてはならない。彼らもまた、日々を生きる人間であるからだ」
 独歩の目指す新しい文学は、日本よりもはるかに先を行く海外文学にあるような『見たものをありのままに描写する文学』だ。
 ゾラやツルゲーネフを読んだ時の衝撃を、日本の文学にも取り入れたい。花袋もその思いは同じはずだ。
 日本文学の歴史は浅い。滝沢馬琴の流れを組む日本の文学は、その素地が戯曲にある。坪内逍遥が目指した「日本ならではの小説の発明」は、彼の偉大なる功績のひとつである。さらに、二葉亭四迷がロシア文学の翻訳によって世に知らしめた文言一致は、日本文学に大きな転機をもたらしたといえよう。
 しかし、世間はその偉大なる文学の発明に、まだまだ追いついていないのだ。大衆に向けた戯曲に寄せた小説ばかりもてはやす。
「人間の営みを真の眼で見て、描写する。もちろん、僕の筆を通して描かれた時点でもうそれは、現実とはイコールにならない。だからこそ正直に書かねばならない。少なくとも、その文学の中では、この有り様が真実であるとしなければならない。だから無意味な脚色は不要だ。大衆が望むように、売上が上がるように世界の真実から目を逸らすのは、流行作家様にでも任せておけばいいのさ」
 文学は、大衆を楽しませるためだけに存在するわけではない。多用な生き様の記録であり、真実の活写であり、時に哲学的真理の探究である。少なくとも、独歩はそういう風に考えている。
「岩の坂の人々の生きる苦しみが僕にはわからない。しかし、見てその現状を知ることはできる。書き残し描写することができる。ルポルタージュと地続きなのさ」
「お前の文学的思想には共感するけど、縁切り榎と関係ないよなぁ?」
 花袋のぼやきを受け、独歩はステッキの持ち手をあげて花袋の鼻先に突きつけた。
「人々の営みと、その土地の言い伝えは、地続きとなる」
「それには、俺も同意するぜ」
 國男が縁切り榎を祀る小さな社をしげしげと覗き込む。
「伝承っていうのは、語り継がれなければ廃れる。宿場町の時ならともかく、貧民窟になった後も噂が廃れないのには、語り継がれるだけのものがあるんだ」
 さすがオカルトマニアは観点が違う。
 各地に伝わる怪奇話というのは、いわゆる口承文化である。民話の一種と言ってもいい。
 噂ひとつも、伝える者が続々と現れなければ、どこかで途絶える。板橋宿が廃れた後も縁切り榎の伝説が残るのは、そこに噂を継ぐ存在があるからと言える。
「三遊亭圓朝が、落語のネタに使っていたこともあったんだぜ」
「圓朝って、怪奇話や人情話が得意な落語家だったよな。確か、二葉亭もその話ぶりを参考にしたとかいう。縁切り榎の噺なんかあったかぁ?」
 三遊亭圓朝は、噺家の中でも大圓朝と呼ばれるほどの名手である。彼が新しく創作した噺も多く、非常に人気が高い。しかし、独歩も花袋も、國男が言う圓朝の縁切り榎の噺は知らなかった。
「縁切り榎の噺は、圓朝には珍しい滑稽噺だった。だからさほど話題にはならなかったな。圓朝がしばらく病気で休んでいたのもあるし」
「なるほどなぁ」
 三人が縁切り榎の話題で盛り上がっている中、収二だけは奇妙にだまりこくって茶屋の客を観察している。
 その内、若い女性の一人が立ち上がった。独歩から見ると収二の影になっていたし、静かに眠っているようで気がつかなかったのだが、彼女は赤子を抱いていた。
 恐らく首がすわったばかりで、まだ一歳にも満たないであろう赤子だ。
「兄さん、彼女を見ていて」
 収二が声をひそめて言う。そのまま、三人とも団子をくわえながら静かに彼女がお愛想を済ませて茶屋を出るのを見送った。
 彼女は――坂の上に向かう。
「若い娘が、赤子を抱えて貧民窟へ……か」
「しきりに赤子を気にしていたから、何かありそうとは思ったけれど」
「ふむ、いかにも事情を抱えていそうだな。収二、追うぞ」
 突然席を立った国木田兄弟に、慌てたのは花袋と國男の方である。
「おい、代金!」
「花袋が払っておいてくれ。あとで僕らの分を払う。君は足が早いから、すぐ追いつくだろう」
 支払いを丸投げし、茶屋を出かけた二人に、今度は國男の声が届く。
「待てよ独歩。縁切り榎は?」
「榎は逃げないが、彼女は今追わねば見失う」
 かくして、独歩と収二はすぐに茶屋を出て娘を追い、やや遅れて花袋と國男がそれを追うこととなった。
 貧民窟は坂を上るほどに陰鬱な様子が色濃くなり、とても赤子を抱えた娘がくるような場所には思えない。
 娘はもちろん、遅れて後を追っている洋装の若い男二人、そしてさらにその後ろから追ってくる和装の大男と洋装の男。どうしようもなく浮いている一行であったが、貧民たちはそれぞれを物珍しそうに一瞥するだけで、さして気にする様子もなかった。
 彼らは日々を生きることに忙しい。よそ者に構ってなどいられない。あるいは、あわよくば盗みを働けないものかと様子見をしている者ならいたかもしれない。
 娘はやがて坂道のはずれあたりにある、他のあばら屋よりは多少ましな作りの長屋に入った。独歩と収二がそろっと近づいて様子を伺うと、その長屋には『板橋産院』と古びた看板がかけられている。
「こんな場所に産院?」
 貧民も子を成す。それはなんら不思議なことではない。子が生まれるなら産院はあった方がよかろう。
 しかし、ここに住む者の多くは、産院に払う金などないはずだ。命からがらに自力で産み落とし、その中でも運良く生き残った子らがまた次の貧民になる。
 とにかく、この場には似つかわしくない建物であることは確かだ。しかも赤子をすでに産んだ娘が入っていった。
 身なりからして、あの娘は貧民ではない。もちろん、身分が高い女性ならばこんなところには寄り付きもしないであろう。どこかの店や屋敷の奉公人でもしている、庶民の娘であると思われる。
「ワケアリだからって、こんな場所までくるかね」
「うーん、だけど、僕らがこの産院に入るのもね」
 兄弟二人、産院の前で戸惑っていたその時だった。
 物陰から風のごとく、少年が飛び出した。
 本当に、一瞬の疾風のようだった。
「わっ!」
 彼は独歩にぶつかって転ばせると、そのまま一目散に駆けていく。その手にはいつの間に摺ったのか、独歩の皮財布が握られていた。
「泥棒だ!」
 収二が叫んで、後を追う。
「いや、大丈夫だ、収二」
 独歩が引き止める。何せ彼が逃げていった先には、彼らがいたからだ。
「おら、止まれっ!」
 國男が足をひっかけ、そして花袋が少年を取り押さえる。花袋は足が早く、そして体が大きい。國男も歩き回ることが多く、なかなかの健脚の持ち主。この二人から逃げ切るのは、痩せぎすの少年には荷が重かろう。
「くそぉ! 離せよう!」
 少年は暴れたが、大柄な花袋に押さえつけられてはどうしようもなかった。独歩と収二は少し経ってから追いつき、そして少年の手から財布を取り戻す。
「少年、僕はそんなに金持ちに見えたかい」
 少年は睨みつけるだけで答えない。歳の頃は八歳ほどか。十歳には満たないように見える。独歩は肩をすくめて、そしておどけたように笑って見せた。
「そりゃあ、ここに住む彼らよりは多少の金をもっているがね、家賃を払ったばかりなので、その財布に入っているのは二束三文だ。盗みを働くなら、服装や身なりだけではなく羽振りの良さを確かめてから狙いたまえよ」
「いや、何盗みのアドバイスしてるんだよ、お前」
 國男が静かに釘をさし、花袋は呆れた眼差しを独歩へと向ける。
「あとで代金払うってな、お前」
「あとでは払うとも。値段は覚えておいてくれ、花袋」
「すみません、花袋さん。ここは僕が代わりに兄さんの分も払いますので」
 果たしてそういう問題なのか。
 疑問はさておき、盗人である少年は花袋に取り押さえられたまま果敢にもこちらを睨みつけている。
 擦り切れて何度も直した後のある着物は、何日洗っていないものかもしれない。ノミやシラミもついていようが、このあたりに満足な風呂屋があるわけもなし、そこにいく金があるわけもなし。
 むしろ貧民窟の住人としては、彼は多少マシな格好をしていると言える。
「僕の財布は返してもらう。先ほども言った通り、僕は大した金は持っていない」
 そう言って、財布を開いた。五銭ほど入っている。
 貧民窟では、残飯を買うのに必要な金は一厘から三厘かそこら。独歩たち庶民が食べるそば一杯が、一銭五厘。このあたりならもう少し安かろう。つまり、彼にとって一銭の価値は三日か四日食いつなぐほどのものだ。
 やはり同じ貧乏人でも、独歩の方がよほどマシな生活をしているということである。
「立ち向かってきた度胸に免じて一銭恵んでやろう。そばでも食べたまえよ」
「おま……っ、持っているなら俺に茶屋の金を先に払え!」
 ここでほどこしをするな、とは言わないあたりが花袋らしい。國男と収二は、呆れてものも言えない様子。
 名も知らぬ少年だけが、敵意の眼差しを変わらずむけてくる。元気でよろしい。
「同情したつもりか?」
「いいや。これは投資だ。たとえば君が将来この一銭で生き延びたことを思い出して、別の貧しい子供に一銭くれてやることがあるとする。すると、その子も貧しく苦しい日を生き延びる。子供には未来がある。明日生き延びる権利がある。大人になった時に、貧困から脱している可能性があるならば、僕のこの一銭は一円どころか百円くらいの価値にでもなる。生きるために盗むくらいなら、生きるために同情を受け取れ。この一銭で何かを買って、売って増やすも君次第だ。君には生きる力がある。酔っ払って潰れている爺とは違う。だから僕は君に一銭を投じる」
 はたして、この少年が独歩の屁理屈を理解したのかどうか。しかし、少年は押さえつける花袋の下から精一杯に手を伸ばして、一銭を確かに受け取った。
「俺にはひとつしたの妹がいる」
「なるほど、もう一銭必要だ」
 握らせた一銭に、もう一銭を足す。
「名前を教えてくれ。投資したんだから、それくらいの権利はある」
「亀太郎だ! 妹はおつる」
「亀に鶴か、なるほど縁起がいい。君たちにはその内ツキが回ってくるだろう。僕は国木田独歩。記者で、編集で、詩人で、文学者だ。君と妹がもう少し大人になったら、麹町まで訪ねてこい」
「兄さん……」
 自分の財布を盗んだ相手に、二銭も渡しただけではなく、遠まわしに世話をするようなことまで言い出す。独歩の自由気ままさには慣れきった友人たち、弟の収二も、これにはさすがに閉口した様子である。
 独歩だって、むやみやたらに金をばら撒くような人間ではない。そもそも、そんなに金を持っていない。
 ただ、この少年には貧困に負けない強い力を感じたのだ。子供が力強く生きることを、応援できない大人であってどうするのか、という信念の問題である。
 亀太郎は花袋が呆れて手を緩めた隙に、するりと下から抜け出した。
「あっ、待て!」
 花袋が立ち上がったが、独歩がそれを制する。
「もうお前らからは金はとらねえよ!」
 少年の捨て台詞に、独歩は片手を上げて返した。
「なぁ、二銭で少年と少女が少しの間腹を満たせて、人の金を盗む前に一歩立ち止まって考えるようになるのなら、これは彼らの学びに必要な投資であったと納得するべきじゃあないか?」
「兄さん、子供には甘いんだから……」
「まぁまぁ、亀の縁だよ」
 収二をまるめこんだ後、花袋と國男は顔を見合わせる。亀の縁とはいかに。
 彼らの疑問を察したのだろう。収二が苦笑いで答えた。
「兄さん、昔は亀吉って名前だったんだ。大学にいった頃に名前を哲夫に変えたけど」
「そうそう、僕は昔、国木田亀吉くんだったんだよ。ずいぶんとやんちゃだった」
「体格で負けるからって、わざわざ爪を伸ばして、喧嘩になったら相手の顔を引っ掻くんだよ。だから兄さんの子供の頃のあだ名、ガリ亀だった」
「喧嘩には知略も必要さ。そうだろう、収二」
「知略っていうのかなぁ、アレ」
 力で勝てないものを作戦で勝とうと試みるのが、作戦でなくて何と呼ぶのか。ひとまず、子供時代から体格差でさほど困ったことのなさそうな親友たち、及び弟を前に「フン」と鼻を鳴らした独歩であったが、その憤慨は一瞬に霧散してしまった。
 先ほどの少年が消えたのは、例の怪しげな産院の曲がり角。あの産院の子であったのかもしれない。もしくは、あそこで下働きでもしているのか。
 しかし、独歩が気を取られたのは少年の行方にではなかった。
 そもそも、この産院まできたのは、あの赤子を連れた娘を追ってきたのだ。そして、独歩は今まさに産院から出てきた娘の姿を見たのである。
 ――彼女の腕には、赤子が抱えられていなかった。
 つまり、何らかの事情で赤子はあの産院に預けられたということだ。
 娘は暗い表情で、呆然とする独歩たちの脇をすり抜けて坂道を下っていく。時折足を止めて、振り返ろうかと迷う素振りを見せ、しかし振り切るようにして足早に、坂を下へ、下へと――。
 独歩たちは、誰からともなく視線で示し合わせて、静かに彼女の足取りを追った。
 娘は坂を下り切ると、縁切り榎の前で足を止める。小さな社が建てられた神域に、彼女は足を踏み入れなかった。ただ鳥居の外側から、そっと手を合わせて礼をした。
 そのまま彼女は、もう足を止めなかった。駅のある方へと黙々と歩いていく。
 縁切り榎の前まで来ると、独歩は彼女と同じように足を留めた。独歩たちの目的は、見知らぬ母子の素性を知ることではない。縁切り榎とそれに纏わる逸話を探して、民衆の興味を惹きそうな記事に仕立てることだ。だから、彼女を追うことに意味はない。そのはずだったが――。
「どうにも引っかかる。こんな場所の産院に、子供を預けるものか?」
 子供を預けること自体は、さほど珍しくはない。
 不義の子供、妾の子供、育てる金を持たない親の子。そういった、行き場の無い子を産院などが養育費を取って引き取り、働き手の欲しい農家や、子供に恵まれなかった夫婦などの元へ里子として引き渡す。
 そういった子供が生まれずに済むのが一番ではあるのだが、残念ながらそうではない。せめて良い里親の元に行けるようにと願いながら、金を持たせて預けるのだ。
 とはいえ、ここは貧民窟、岩の坂だ。縁切り榎まである。悪縁を断ち、良縁を結ぶ榎といえども、こんな場所まできて子供を預けに来るというのはよほどの訳ありではないか。
 その時、コツン、と頭の後ろに何かがぶつかった。
「いたた、なんだ? どうした?」
 振り向くと、そこには女の子を連れた亀太郎が小石をいくつもぽんぽんと投げつけている。連れてきた女子は、先ほどいった妹のおつるか。
「やめないか。鶴亀の縁起も小石と一緒に飛ぶぞ」
 睨みつけた独歩に、おつるらしき少女は「ひゃっ」と声を上げて亀太郎の背に隠れたが、彼はひるまなかった。
「お前には、俺とおつるがもらった一銭の恩がある! あの女のことを気にしてるみたいだから、特別に教えてやる。あそこの産院が子供を預かるのは、一ヶ月だけだ。一ヶ月後には、赤子はいない。じゃあな!」
 そのまま、二人は一目散に駆けていく。
 それを呆然と見送った後、四人はほとんど同時にあの娘が去った道を振り返ったが、すでに彼女の姿はなかった。
 あるのはただ、貧民たちがひしめく坂道と、涼しげに葉を茂らせた縁切榎だけ――。
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登場人物紹介

国木田独歩

作家にして詩人、そして『独歩社』を経営する自称敏腕編集長。。

激情家だが、物事を見る目は意外と冷静で頭は回る。口が上手い。

怪奇を『見る』霊感を持つ。

田山花袋

独歩の親友で、作家仲間。度々助手役に駆り出される。

社交的かつ情熱的な独歩とは正反対の性格で、純情で内気、生真面目。背が高く体格もいいため、威圧的に見られること気にしている。ド近眼。勘が鋭く鼻がきき、匂いには敏感。そのせいなのか、怪奇の『匂い』をかぎ当ててしまう霊感を持つ。

榎本ハル

独歩が下宿する長屋の娘。16歳。
しっかり者で、独歩や花袋からは「ハルちゃん」と呼ばれている。独歩のことは気になっているが、女性に軽薄なところがあるのでアプローチを素直に受け止められない。怪奇の『音』を聴く霊感があり、独歩社の怪奇取材に協力することがある。

島崎藤村

独歩、花袋、共通の友人で、詩人であり作家。仲間内では一番の売れっ子作家である。物静かで、よく言えば落ち着いた、悪く言えば陰気で無愛想な青年。怪奇の『気配』を察知する霊感を持ち、独歩とは違い姿は見えないものの、見えない場所に潜んでいる怪奇や霊穴の場所も探し出せる能力を持つ。

松岡國男

独歩、花袋、共通の友人で、詩人。民族学の研究をしており、怪異に関する造詣が深いオカルトマニア。怪奇に強い関心を示し、日本各地の民話や怪異譚を収拾しているが陽キャすぎて本人には全く霊感がない。後に婿入りして姓を柳田と改め、民俗学者として大成することになるが、この時点では未婚。

佐々城信子

独歩のかつての婚約者の女性。名家である佐々城家のご令嬢。

独歩と破局後渡米していたが、日本に戻ってきた。

ある事情から、独歩社に取材の依頼をしてくるが――?

小杉未醒

独歩社の一員。独歩とは社員の中で最も付き合いが長く、従軍記者時代からの右腕的存在。

挿画担当。気鋭の画家でもある。体格がよく運動が得意。ツッコミ役。

吉江孤雁

独歩社の一員。小杉の次に独歩との付き合いは長い。窪田とは歌人仲間。

記者であり、実質上の会計担当。真面目な性格で、冗談があまり通じない。独歩社の困窮で胃が痛い。

窪田空穂

独歩社の一員。独歩社になってから入社した新入り。吉江とは歌人仲間。

独歩のことを作家として尊敬しており、独歩社の仕事を熱心に手伝う一方で、できれば文学で成功してほしいと考えている。

日野ウメ子

独歩社の一員。唯一の女性社員で、写真師。窪田と同時期に入社した新入り。

普段は撮影や取材などで出歩いているので、社には不在がち。ハルと仲が良い。

実は良家のお嬢様。

国木田収二

独歩の弟。現在は母親と一緒に神戸に住み、新聞社で記者をやっている。

兄弟仲は非常に良く、むしろ独歩の願いは度々聞いてしまうブラコン。

弟だが独歩よりも背が高い。一見、温厚そうだが意外と短気。

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