第5話 小鳥は何故囀るのか

文字数 8,389文字

 突然、独歩社に駆け込んできた社長の姿に、社員一同は目を丸くした。
「独歩さん、どうしたんです?」
 ちょうどその時、帳簿を睨みながらそろばんを弾いていた吉江は、血相を変えて走ってきた独歩にうろんな眼差しを向けた。
「元婚約者に頰でも打たれたか?」
 小杉の余計なお世話がすぎる一言にも動じず、独歩はのしのしと社内を突っ切って、奥にある資料庫に駆け込んだ。
「独歩さん、何かお探しですか?」
 窪田が資料庫に首を突っ込んできたので、独歩は振り返って「手伝え」と指示を飛ばした。
「地図を探している。佐々城家周辺の、昔の地図だ」
「昔っていうと……どれくらいで」
「開国前」
「ええと、その辺りでしたら、こちらに」
 独歩社の前身である、近時画報社は多種多様な雑誌を手掛けていた。その雑誌の多くは独歩が立ち上げたものであり、様々なジャンルに対応すべく資料が取り揃えられている。古地図もその中のひとつだ。
 佐々城家の所在は品川町。元々江戸と横浜の主要路を繋ぐ、宿場がおかれていた町である。港との中継地だけあって、文明開化後の西洋化がいち早く始まった街でもある。そういう意味で、まだ珍しい異人館風の建物である佐々城家が、街並みに違和感なく溶け込めたのだろう。
 しかし、今注目すべきは、西洋化以前の時代である。
「佐々城家ができる前に、あの家がある場所や近くに、神社や仏閣、処刑場の類はないか?」
「宿場ですし、処刑場の類はないです。神社や寺も少し離れていますね……で、これで何がわかるんですかね?」
「知っているか? 怪奇の原因となる『霊穴』は、負の力が溜まりやすい場所や、元々神社や仏閣などがあった霊的な力が強い場所にできやすいそうだ」
 現在の佐々城家近隣には、そういった場所は存在しない。それは、あの家に通い詰めたことがある独歩自身が、何より知っている。
「本当に、佐々城家に『霊穴』があるかどうか、目星をつけたいってことですか? でも、何もない……」
「ないならないでいい。僕の推測がより確かなものになるよいうだけなのだから」
 窪田は「推測?」と続きを聞きたそうな様子を見せたが、残念ながらそれを語ってやるほどの時間はない。
「吉江、僕のステッキを知らないか」
「こちらにありますよ」
 吉江が脇に立てかけられていた、独歩愛用のステッキを手渡す。それを受け取り、独歩はめぼしい資料をいくつか小脇に挟んで、あわただしく駆け出した。
 そんな独歩を、小杉はあきれ顔で眺めていた。
「何だ、もう出るのか?」
「小杉、怪奇画報の創刊は少し遅れるかもしれない。その代り、危急の挿画を頼むかもしれないから、覚悟をしておいてくれ」
「ん? どういうことだ? 説明しろ」
「後でな! ごきげんよう、我が社の頼もしき仲間たちよ! ウメ子にもよろしく言っておいてくれたまえ」
 ばたばたと書けていく社長の背中を見送り、社員一同は揃って顔を見合わせた。
「だから、どういうことなんだよ……」



 すっかり日が暮れてしまった。
 花袋が國男を連れてくるのと、独歩が何やら資料を抱えて帰ってきたのはほぼ同時であっただろうか。
 國男は独歩、花袋、藤村と共に一階に部屋を借りて何やら話し込んでいる。
 一方、ハルは信子の部屋にある長椅子に布団を用意して、同じ部屋に眠る支度を整えていた。
「ごめんなさいね、ハルさんを私の家の事情に巻き込んでしまったみたいで」
「大丈夫です。家には連絡しましたし、正直に言うとこんな事件があったのに、一人で眠る信子さんを放っておくなんてできませんから」
 信頼している使用人が無残な死を遂げて、しかも一人は行方不明。ショックを受けていないはずはない。それでも信子は表面上、気丈に振る舞っている。
「私がいることで、信子さんが少しでも気が楽になるのでしたら、これくらいはさせてください」
 出会った当初にハルが抱いた信子への印象は、冷たい美貌でかつての恋人である独歩をいいように扱う女性、というものだった。
 だけど、彼女がかつての恋情を利用するような女性ではないことはすぐにわかった。ついでに言えば独歩に独善的なところがあるのは、ハルも知るところである。かつて愛し合っていたはずのなのに、いざ結婚となると急速に熱が冷めていくのも理解できないではない。
 信子は少しだけ困ったような顔をして、微笑んだ。その笑みには、当初に冷たさなどみじんもない。
 素直に、気丈で美しい人なのだと思う。
「……貴方、けなげでいい娘ね。国木田にはもったいないくらいに」
「え、ど、独歩さんは関係ないです!?
「あるわ。あの人に恋をしているでしょう? 私もね、あの人に熱を上げたことがあるからわかるわ。あの頃の私と同じ目をしている」
「え、あ……そ、そんなことは……」
「嵐のような暴君なのに、同じくらいに繊細で、人情深くて、ロマンチストで、理想主義。酷い別れ方をしたのだから、佐々城家の事情なんて本当は関わりたくないだろうに、仕事だからといって手を尽くす。あの人、極端なのよ、色々と。普通の女にはついていけないわ」
「そ、そうです……か……」
 ハルは何とも言えない顔をして、信子を見た。
 冷たさの消えた顔。誰にも見られない場所で、女の子同士だけで秘密の恋の話をしている時のような、甘酸っぱい感情を秘めた笑み。
「私にはあの人は激しすぎて合わなかったから、これはアドバイス。あの人は軽く見せているけど、相当重いわよ。女の子と遊んでいるように見えるのもフリね。国木田独歩を落とすなら、覚悟を決めて添い遂げるつもりでいかないとダメなの」
「え、ええ……いや、私は……そのぉ、独歩さんは、あの、好きとか……う、まだわからないです」
 気になっているのは事実。ハルは観念して、そう白状した。恋なのかどうかはわからない。ハルはまだ、男性とそういったお付き合いをしたことがないのだ。
 たまたま長屋の隣に引っ越してきて、軽くて、女の子にすぐ声をかけて、褒め上手で、仕事熱心で、頭もよくて、口が上手くて、だけどお金に関してはびっくりするほどどんぶり勘定。
 惹かれるところと引いてしまうところのふり幅が大きすぎて、これが恋なのかもわからないけど、目は離せない。
 信子は少女のようにころころと笑った。
「貴方、それこそ恋じゃないの? 振り回されて、浮かれて、幻滅して、だけど離れるには惜しいのよ」
 無邪気で大胆で、魅力的な少女。
(あ、これは独歩さんが恋するのは仕方ないな)
 そんな風に思わせた。そして、それが過去形になっているのだから、彼女の中で独歩への恋は本当に終わっているのだと。
「さぁ、寝ましょうか。夜が更けてしまうわ」
「あ、はい」
 信子が夜着に着替えるのを、何となく直視しづらくてハルは目をそらそうとした。
 ――その時だった。
「……え?」
 信子の肩越しの視界が、一瞬大きくゆがんだように見えたのだ。それは本当に一瞬だった。
 ハルは、今までに不可解な音をよく聞くことがあった。独歩と出会って、それがいわゆる『霊感』であるらしいと知ったが、少なくとも『見える』わけではない。
 それなのに、一瞬、視界が歪んだ。
(……気のせい?)
 だけど、それを否定するかのように、耳の奥に小鳥の声がうるさいほどに響き渡る。
「どうしたの? ハルさん」
「いえ……何も」
 不安にさせるようなことは言いたくない。
 そのまま、長椅子に横になった。信子がランプを消して部屋が暗くなる。疲れていたのだろう。信子の寝息が聞こえてくるのは、割とすぐだったように思う。
 灯りをつけたら起こしてしまうかもしれないから、ハルは窓から漏れる月明かりを頼りにして、そろりと部屋を抜け出した。



 独歩社を出た後、独歩はほとんどどこへも寄らずに佐々城邸へと帰ってきた。まさにトンボ帰りだ。
 どうやら、それは花袋も同じであったようだ。彼が國男を伴って佐々城邸に戻ったのは、独歩とほぼ同時刻である。すでに日が暮れていた。泊まり込み確定だ。
「お帰り、独歩君、花袋君。國男君もお疲れ様。信子さんとハルさんには、先に部屋に戻ってもらったけど、良かったよね?」
 出迎えた藤村が、上階を指す。彼女らは、信子の私室がある二階にいるらしい。
「大丈夫だ。夜中まで女の子を男の会合に付き合わせるのは忍びない」
「むさ苦しいだけだもんね……」
 そう言って、藤村が眼差しを向けたのが花袋と國男だったので、二人はやや据わった目になった。
 小柄な優男の独歩と幽鬼のごとき痩せ方をしている藤村に比べれば、体格の良すぎる花袋と精悍な印象の國男は、並ぶと男臭い印象になるのは否めない。
「むさ苦しいとは失礼だなぁ。怪奇事件の解決に俺が必要だと言うから、ここまで来てやったというのに。というより、オカルトのことなら最初から俺を呼ぶべきだ。霊感ばかりアテにするからこうなる」
 ある意味誠実に傷ついている様子の花袋をよそに、國男は芝居がかった仕草でフンと鼻を鳴らした。彼にとっては「むさ苦しい」発言よりも、オカルト話で除け者にされたことの方が余程重大であるらしい。
「そう機嫌を損ねないでくれるか? こうして助力を頼んでいるということは、結局君のもつ素養が僕に必要だと気がついたからにほかならない」
 独歩が満面の笑みでしっかりと握手したので、それだけで國男はだいぶ機嫌を直した。
 基本、友人たちが相手でも帝王のごとき振る舞いをする独歩である。奇妙な話に思えるが、「独歩の頼みをきいてやる」というのは、少なくとも龍土会に出入りする仲間内ではある種の武勇伝なのであった。
 酒の肴に「独歩君のこんな無茶ぶりを聞いてやった」というのは、いつもは花袋の役割であるからして、國男はいい話のネタができたと思っているに違いない。
「して、花袋に伝言を頼んでいたわけだが」
「おう、俺の知識を総動員してやるぜ」
 國男はいくつかの書物を差し出した。
「鳥に関する民話や伝承は、日本はもちろん、世界中にある。海外については、翻訳されている本が少ないからまだまだ調べが足りないが……」
「構わない、聞かせてくれ」
 花袋に彼を呼んできてもらう際、ひとつ調べものを頼んだ。それは「鳥にまつわる伝承が存在するか」という点である。
 帝都における『霊穴』の発生と、それに付随する怪奇現象の多発は開国以降の出来事である。しかし、明治の時代よりもずっと前から様々な怪奇話が脈々と伝えられている。それは帝都に限らず、日本にも限らず。
「小鳥前生譚と呼ばれるものがある」
「ことりぜんしょうたん?」
 恐らく、「前生譚」の部分がピンとこなかったのだろう。花袋がオウム返しに尋ねた。
「簡単にいうと、小鳥の姿や鳴き声などを結び付けて、人間だった前世で犯した罪の償いを行っている、と見なす伝承のことだ。有名なのは『ホトトギスと兄弟』だな」
「おお、それなら俺も知っているな。温泉旅行にいった先で、聞いたことがある。弟を殺してしまった兄が、ホトトギスに生まれ変わって嘆き続ける話だ」
 ホトトギスと兄弟は、典型的な小鳥前生譚のひとつである。
 体の弱い兄のために、弟は毎日滋養のある山芋を食べさせていたが、兄は動けず家から出られないため、弟の苦労がわからない。きっと、外で自分よりもいいものを食べているのではないかと考える。
 そして、猜疑心からついに弟を殺してしまい、その腹を割いてみると、弟は粗末なものしか食べていなかったことがわかった。後悔のあまり兄の魂は小鳥となり、いつしか「おとうとかわいや」と鳴くホトトギスとなった。
「…………身につまされるな」
 ついこの間も弟の収二に家賃の世話をしてもらったばかりの独歩は、その逸話を聞いて思わず真顔になった。
「たまには収二にお礼をしてやれよ」
「そうだな。とはいえ、そもそも僕ら兄弟はお互いに疑いを持つようなことはしないが……」
「お前ら兄弟、隠し事とかまるでないもんな……」
 収二が神戸に行くまでは、何かと行動を共にしてきた弟である。死んでも後悔で小鳥になることなどなさそうだ。
 それはともかく――。
「何故、この家に起こる怪奇が『小鳥』になるのかについて、原因を考えてみたのだが、直接的な答えになるものはなさそうだ。しかし、元から人間が死んで小鳥になるのがありふれた怪奇の形であるなら、話は違ってくるな」
「どういうことだ? 独歩」
「これは佐々城邸周辺の、開国前の地図だ。神社や仏閣などの霊的な力が集まりそうな場所、処刑場など負の感情を集めやすいような場所はない。調べた限りでは、鳥に関するような場所も」
 そもそも、元は宿場が中心の町なのだから、宿や商業施設が多い。佐々城家は裕福な医師の家であるし、荒れた場所やいわくがついた場所にわざわざ屋敷を建てたりもしないだろう。当然の結果とも言える。
 怪奇が発露する形式が小鳥になったのは、この土地や屋敷に要因があるわけではなかった、ということだ。
「國男の言う『小鳥前生譚』を今回の一件に当てはめるとしたら、怪奇が鳥の形で現れたのは、何か伝えたいことがあったから、という見方もできる。大げさに言えば、怪奇によって小鳥にされたのではなく、怪奇を利用して意思を伝えるために小鳥になった、ということだな」
 怪奇は『現象』であるから、そこに人の意思が介在する場合は、怪奇が人間に憑りついているということだ。
 この土地には、怪奇としての『現象』が成立するほど小鳥に関する要因がない。そもそも、怪奇の根源である『霊穴』ができやすい環境にすらない。
 だから、佐々城家で死んだ人間が鳥の声を放つという『怪奇』は、人に憑りついて起こったことになる。
「ううむ、理屈としてはわからなくはないけど、それじゃあ怪奇の大元はどこなんだっていう話と、その小鳥の囀りが何を伝えようとしているか、ってことになるわけだが。一般的な小鳥前生譚では、大体生前の後悔というのが多い」
 國男が何やら考え込んでいる。他にも違った説話があったかどうか、記憶をたどっているのだろう。
「そういえば、ホトトギスには死出の田長との異名もあったな。冥府の途中にある山から飛んでくる、なんて言われている。ホトトギス自体、中国では王の魂が宿っていて、愛する国を滅ぼされ血を吐くまで鳴いた、なんて故事が残っているくらいだ。不如帰という感じを当てるのは、それが元だな」
「ああ、それは知っているぞ。ほら、蘆花が書いた本のタイトルだ。たしか口が赤いから、血を吐くまで鳴いたといういわれになったんだったな」
 独歩の記者時代の同僚で、作家仲間でもある徳富蘆花は、著作のタイトルにホトトギスを用いた。ヒロインが結核で亡くなる結末ゆえだろう。
 ホトトギスは鳴き声に特徴がある鳥である。もし、佐々城家で聞こえた小鳥の鳴き声がホトトギスのものであったら、信子ははっきりとそう答えたはずだ。独歩が井戸の底で見た鳥も、ホトトギスではなかった。見たこともない気がするし、どこかで見たような気もする。怪奇によって生まれたのであれば、現実には存在しない鳥かもしれない。
「死告げの鳥が囁くわけだな。鳥が鳴くごとに、死人が増える。死人が増えたら鳥も増える。今晩は五羽鳴くかもしれないぞ」
 全く笑い事ではないし、その確認を結果的に部外者であり年頃の純な少女であるハルに任せている形なのは、申し訳なくもある。
 ただ、音に関しては男性陣に、霊感で確実に察知できる宛てがない。件の鳥の声を信子本人が聴いたのか、使用人が聴いたのか、あるいは両方か――それはわからないが、全くの部外者である独歩たちに聞こえる保証はないのだ。小鳥の声がする理由が、信子やこの家の使用人たちに、何か伝えることであるならなおさら。
「そう、この家のどこかには存在するであろう『霊穴』についてなのだが、僕は一つの仮説を立てた。この説が、あり得るかどうかについて、客観的な意見を聞きたい」
 実を言うと、國男を連れてきてもらった本題はこちらなのだ。知識の話であるなら、國男が一番詳しい。本人が自称するだけある。
「そもそも、怪奇の原因たる『霊穴』の発生は明治の世になってから、つまり開国してからだ。そして、少なくとも目立った怪奇現象は帝都に集中した。僕はこれについて、もしかすると『霊穴』は海外から持ち込まれた要因によって、発生するようになったのではと考えている」
「それは無理がないか? それだと、幕府があった時代から海外と交友があった長崎の出島はどうなのか、という話であるし、仮に長崎は出入りする人間が限られていたからとして、主要な港である横浜が大丈夫、とはならない」
 國男の指摘はもっともなことだ。東京は海外との窓口ではない。帝国の首都である以上、異人も多く住んではいるであろうが、横浜には怪奇の噂がさほどないことの理由にはならないだろう。
「帝都自体が、霊的な場所であると言えなくもない。長く政治の要が置かれている都だ。様々な陰謀の舞台になってきた。政治の要というなら、奈良や京都の方が歴史はあるが、あちらには海がないからな」
「うーむ……まぁ、土地によってその手の話が集まりやすい、というのは確かにあるな。帝都内でも、澁谷みたいに怪奇の巣窟みたいな場所もあれば、さっぱりその手の話を聞かない地域もある。だけど、澁谷が怪奇の巣窟になっている時点で、この話には無理がないか?」
 霊穴の発生は帝都のみ――これは、帝都の管轄以外では怪奇現象を処理する機関が存在していないことも影響している。もちろん、発生件数が多ければ自然と設置する流れになるのであろうから、帝都だけが多いのは事実。
 帝都の中でも、極端に『霊穴』が多いとされるのは澁谷村の周辺だ。独歩がかつて住んでいた場所でもある。あんまりにも怪奇現象が多発するので、『死部屋』と揶揄されていたくらいだ。おかげで、独歩と弟の収二は、職を転々とした赤貧時代も安い賃料でいい家に住めた。
 そんな余談は置いておくとしても、澁谷村の近くには巨大な『霊穴』のるつぼと呼ばれる区域もあり、政府は『明治神宮』を建立してその区画を神域として人が住まないように隔離した。
 澁谷は港からは遠い方だ。独歩の理論で言えば、港からの中継点である品川町の方が、よほど怪奇現象の巣窟になりそうなものである。
 だから、國男の指摘は的外れなものではない。
 ただ、やはり鎖国の時代が終わりを告げると共に、異国の文化と一緒に怪奇が増えて行ったというのは、独歩の中でどこか引っかかるものがあった。
 この佐々城家で怪奇現象が起こったのは、信子が帰ってきてからだ。
 米国の婚約者の元に送り出されて、しかしその船で引きかえしてきた信子。彼女が海外から、何らかの理由で『霊穴』を発生させる要因を持ち込んでしまったとしたら?
 もし、増えていく小鳥の囀りが彼女にそれを伝えようとしているなら?
 信子に怪奇の原因となるものを見つけてほしいのか、あるいは逃げて欲しいのか――。
 黙りこんだ独歩を見て、少しだけ國男はバツが悪そうな顔になった。花袋もつられて気まずくなったようで、視線をあちらこちらへさまよわせる。
「國男、可能性はないのか?」
「そりゃあ、可能性で言えばゼロではないさ。花袋は霊感持ちだから、俺よりもその辺は実感できるんじゃあないか? 独歩の言っていること、お前はどう思う?」
「うーん、確かに開国したらいきなり怪奇現象が増えたってのは確かだから、海外から来た説もありじゃあないかと思うけどな、俺は」
 花袋の意見は独歩と概ね同じものであったが、そもそも花袋は自分自身が議論に参加している時以外は、独歩の意見を尊重する傾向がある。アテにしていいかわからない。
 その時だった。今まで興味深げに耳を傾けつつも、会話には参加していなかった藤村が、急に椅子から立ち上がったのだ。
「独歩君、上から変な気配がするのだけど」
「上から? ハルちゃんと信子の部屋か?」
 独歩は思わずステッキを手に取った。何かがあればこれでガツンと一発である。
 しかし、独歩たちが行くまでもなく、ハルがランプを片手に部屋に転がり込んでくる。
「独歩さん、信子さんの部屋に何かあります!」
 ハルの言葉を、その場にいた全員が理解するよりも早かった。
 ――鳥が鳴いた。
 それは、その場にいた全員が聴いた。
 鳥の声は、聞き取れた限りでは――五羽。
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登場人物紹介

国木田独歩

作家にして詩人、そして『独歩社』を経営する自称敏腕編集長。。

激情家だが、物事を見る目は意外と冷静で頭は回る。口が上手い。

怪奇を『見る』霊感を持つ。

田山花袋

独歩の親友で、作家仲間。度々助手役に駆り出される。

社交的かつ情熱的な独歩とは正反対の性格で、純情で内気、生真面目。背が高く体格もいいため、威圧的に見られること気にしている。ド近眼。勘が鋭く鼻がきき、匂いには敏感。そのせいなのか、怪奇の『匂い』をかぎ当ててしまう霊感を持つ。

榎本ハル

独歩が下宿する長屋の娘。16歳。
しっかり者で、独歩や花袋からは「ハルちゃん」と呼ばれている。独歩のことは気になっているが、女性に軽薄なところがあるのでアプローチを素直に受け止められない。怪奇の『音』を聴く霊感があり、独歩社の怪奇取材に協力することがある。

島崎藤村

独歩、花袋、共通の友人で、詩人であり作家。仲間内では一番の売れっ子作家である。物静かで、よく言えば落ち着いた、悪く言えば陰気で無愛想な青年。怪奇の『気配』を察知する霊感を持ち、独歩とは違い姿は見えないものの、見えない場所に潜んでいる怪奇や霊穴の場所も探し出せる能力を持つ。

松岡國男

独歩、花袋、共通の友人で、詩人。民族学の研究をしており、怪異に関する造詣が深いオカルトマニア。怪奇に強い関心を示し、日本各地の民話や怪異譚を収拾しているが陽キャすぎて本人には全く霊感がない。後に婿入りして姓を柳田と改め、民俗学者として大成することになるが、この時点では未婚。

佐々城信子

独歩のかつての婚約者の女性。名家である佐々城家のご令嬢。

独歩と破局後渡米していたが、日本に戻ってきた。

ある事情から、独歩社に取材の依頼をしてくるが――?

小杉未醒

独歩社の一員。独歩とは社員の中で最も付き合いが長く、従軍記者時代からの右腕的存在。

挿画担当。気鋭の画家でもある。体格がよく運動が得意。ツッコミ役。

吉江孤雁

独歩社の一員。小杉の次に独歩との付き合いは長い。窪田とは歌人仲間。

記者であり、実質上の会計担当。真面目な性格で、冗談があまり通じない。独歩社の困窮で胃が痛い。

窪田空穂

独歩社の一員。独歩社になってから入社した新入り。吉江とは歌人仲間。

独歩のことを作家として尊敬しており、独歩社の仕事を熱心に手伝う一方で、できれば文学で成功してほしいと考えている。

日野ウメ子

独歩社の一員。唯一の女性社員で、写真師。窪田と同時期に入社した新入り。

普段は撮影や取材などで出歩いているので、社には不在がち。ハルと仲が良い。

実は良家のお嬢様。

国木田収二

独歩の弟。現在は母親と一緒に神戸に住み、新聞社で記者をやっている。

兄弟仲は非常に良く、むしろ独歩の願いは度々聞いてしまうブラコン。

弟だが独歩よりも背が高い。一見、温厚そうだが意外と短気。

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