第1話

文字数 1,786文字

 数年前のある冬の日、整形外科外来経由で80歳代の男性が地域包括ケア病棟に入院してきた。
 彼は奥さんと自宅で老々介護の生活をしていた。自宅では歩いていたが、数週間前に転倒した。その後、腰痛で動けなくなり床上の生活になった。
 整形外科では入院が必要な病気はなく、自宅で疼痛のコントロールと安静でよいとのことだった。
 奥さんも高齢で、自宅でご主人の介護は困難なため、地域包括ケア病棟に入院となった次第である。
 病歴では、彼は以前に介護認定は受けたが、本人がデイサービスに行きたがらず介護サービスの利用には(つな)がらなかった。また、自宅への人の出入りは好まず、環境が変わると本人が落ち着かなくなるため、家族も泊まらずに日帰りをしていたとのこと。今回も本人は入院したくはなかったが、腰痛があり動けなくなったので、渋々入院を受け入れたそうだった。

 入院後(ほど)なく、不穏な雰囲気が漂ってきた。
 「ナースコール押しただけなのに何だ!」
と、彼はナースコールで呼ばれて来たスタッフに(から)んできた。
 さらに夕食前から落ち着かなくなり、不安定な歩行ながら病棟内を徘徊しだした。なだめるスタッフに
 「 俺どこ馬鹿にしったんが?(俺のことを馬鹿にしてんのか?) まずさここさはいらんね。(兎に角ここにはいられない。)
と荒れ模様の雲行きだ。
 夕食後、奥さんに来院してもらい入院継続の説得をしてもらった。
 それがいけなかったのか、彼の帰宅願望に火が点いた。
 「助けてくれ~っ! しょんべこごさっすっぞ!(小便をここでするぞ!)
 奥さんの帰宅後、再度、不穏になって大声を出した。トイレへ誘導するスタッフの顔を殴ったり蹴ったりしようとして暴れた。

 診断は、入院を契機に発症した【せん妄】である。

 【せん妄】とは、脱水、感染、炎症、貧血、薬物など、身体的な負担がかかった時に生じる「意識の混乱」である。入院患者さんの 2~3割に起こり、高齢者、特に認知症を合併している人はさらに生じやすい。また、せん妄は身体の状態だけでなく、環境的な変化によるストレスもひとつの要因となる*。
 場所や時間が認識できない失見当識(しつけんとうしき)や覚醒レベルの異常が生じ、幻覚・妄想などにとらわれて興奮、錯乱、活動性の低下といった情緒や気分の異常が突然引き起こされる**。(*https://yokohama-shiminhosp.jp.>shinkei-seisin>delirium:「せん妄」|精神神経科-横浜市立市民病院 、 **Medical Note:「せん妄の基本情報」 を参考にした)
 私が学生時代に教わった「せん妄」の状態とは、急に視野が狭められ、ちょうど新聞紙を丸めた筒でのぞく範囲しか外部が見えない状況に似ている。そんな状況で知らない部屋に入れられても、窓があるかどうかも分からない、時計がどこにあるかどうかも分からない、だから時間も場所も分からくなる。人も顔の一部しか見えない。だから相手が誰だかよく分からないのだ。
 ()(かく)、見える意識の範囲が極端に狭くなって、全体が見えない状況なのだ。だから治療の原則は身体的な原因を取り除くことと、なるべく元の状態、環境に戻すことだ。元の環境に戻れば、狭い視野でも「嗚呼、ここに何があった筈だ」と患者は安心する。
 成る程…。今になって実用的で分かりやすい精神科の授業だったと思う。そしてそれを覚えている元医学生も立派だの。(←自画自賛、へへへ)

 夜、携帯が鳴った。病棟からだった。
 「先生、もう限界です。〇×△さんが『家さ帰る!』って暴れて鎮静剤も効きません。」
 「そうですか…。それは困ったですねぇ。」
 (思案すること、この間、数秒)
 「ところで患者さんは腰痛は訴えていますか?」
 「えっ! 腰痛ですかっ?! いいえ、腰が痛いどころか、独歩で徘徊して大声上げています。」

 出した私の指示は「退院」だった。

 さて写真は、行きつけの居酒屋の豚キムチ炒めである。

 何年間もこの店に通っていて初めて注文した。以前に「変化に対応できない、例えば行きつけの店に執拗(しつよう)にこだわる老人は、前頭葉機能が低下している…。」なる記事を読んだことがある。
 最近、成る程、確かにそうかも知れないと思う。行きつけの店は、店に入ってからの展開が読めて安心する。そのうち、私も環境の変化に対応できなくなって【せん妄】になるのかも知れないなぁ…と思った。(苦笑)

 んだぁ。
(2024年2月)
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