第3話

文字数 1,171文字

 大学には学部毎に図書館があり、24時間利用できる。日暮は検索用コンピューターの前で寝落ちしそうになり、がばりと顔を上げた。何万冊というジャーナルからキーワードで記事を選別し、概要を読んでいるうちに、意識がフェード・アウトしてしまう。論文前半のレファレンス・レビューにすら辿り着けない。英語は全て眠りの呪文に違いない……凝った首を回してストレッチしていると、ひなびた書架の影からケンさんが歩いてくるのが見えた。
「やあ、小野さんも遅くまで大変だね」
 ケンさんはポスドクの研究員だ。オーストリア人の父に日本人の母、住んでいるのはオースト“ラ”リアである。日暮は、ほぼ活動停止中の日本人学生会でケンさんと知り合った。明るいブラウンのあっちこっちに跳ねた髪に、隈が酷い。
「ケンさんは、何してるんですか」
「今書いてる論文の共同研究者と、オンラインで打ち合わせしてたんだけど」
 シカゴなもんで、時差がね。あちらは助教授なんだけど、アメリカはオーストラリアよりも大学教職の権威が大きいみたいで、気を遣って疲れるよ。普段は温厚で陽気な、みんなのまとめ役であるケンさんがここまで言うのだから、相当なものである。
「小野さんは、やっぱり研究員目指すの?」
「いいえ、日本へ帰ります。リサーチ好きだけれど、専門にできるほど向いてはいません」
 そうだね、このギョーカイも厳しいしね。まずフルタイムのポジションが少ないし、ジャーナルに論文書いて評価されないと契約打ち切られるし、テニュア(終身在職権)までどれだけかかるのか見当もつかない。二人で話しながら図書館を出ると、道端に大分間隔を開けて立つ電灯の向こう、ざわりと大きく揺れた柳の枝葉の影に混ざって、見知った横顔が見えた。日暮は思わず首を傾げる。
「趙さん?」
「ユージーン・チャオ?小野さん、友達なの?」
 どうやらケンさんも知っているほど、有名人であったらしい。日暮は気が進まないながらも、ケンさんに尋ねた。
「寮で隣部屋なんですけど、最近やっと知り合いになりました」
「まあ……いろいろな噂が絶えないよね」
「そうなんですか?」
「僕も耳に入ったっていうだけだけど。趙グループの関係者なのか、そもそも根拠無く趙姓を名乗って、オーストラリアの趙家から留学資金を出させたとか、養子になったとか。独学のトレーダーで、とんでもない利益を上げてるとか」
「バッジャー・ホールの超不安定なインターネット環境で取引するのはリスキーですよ」
「それね」
 ケンさんがやっと笑った。小野さんが気にならないのならいいんじゃないかな、何が正しくて何が正しくないか、なんて決められることの方が珍しいよ。だから研究するんだ。この膨張する複雑な世界で、個人が見聞して理解できることは僅かだ。大切なのは直感(インテュイーション)だ、自分なりの理論(ロジック)を完結させられるかどうかということだ。
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