第1話

文字数 1,336文字

 留学生寮は眠らない。寝ている場合ではないのだ、青春は短く、留学生活はもっと短く、課題提出期限は世知辛い。小野日暮は朦朧とした頭を上げて被っていた毛布を無造作に払い、コーヒーを淹れるために自室のドアをよろよろと開けた。

 日暮が修士留学生として滞在している通称バッジャー・ホールは、キャンパス内でも古い建物の一つであり、留学生が多く住む小さな学生寮だ。比較的安い寮費に見合ったレンガつくりの煤けた内装に、共同バス・トイレとキッチン、ベッドルームは個室だが、電熱線ヒーターに冷房無しという環境である。既に真夜中を過ぎた時間で、蛍光灯がちりちりと白く揺れるキッチンには誰もいない。電気ケトルをオンにし、カップボードを開けてインスタントコーヒーの粉を取り出す。

 キッチンから続きになっている共同スペースのテーブルにカップを置いて、次のパラグラフをどう書こうかと思案していると、ぼんやりと照らされた階段を駆け上ってくる、良く知った顔が見えた。開発学で一緒のサハだ。
「グレ、何してんの」
「国際機構論のアサイメントだよ。2500ワード。サハは?」
「人類学のグループ・アサイメントでプレゼンテーション作ってるんだけど、お腹空いちゃって」
 恐らく一階の自習室にグループ・メンバーが集まって、喧々諤々揉めているのだ。アルバイトにも忙しい、中には家族と共に留学してきている学生たちは、講義以外でなかなか時間を合わせることが難しい。従って、グループ・アサイメントで誰と組むかは、重要なカギである。日暮が単位を落とさずにいられるのは、一重に優しく勤勉なクラスメイトたちのお陰である、と感謝してもしきれない。じゃあね、とサハは手を振って行ってしまった。あれ?でも今ラマダンじゃなかったっけ?確か夜の間は食べられるんだっけ……よく体力もつなあ。

 留学生が多い学生寮で生活していると、意外なことが次々起こる。いろいろな国のご飯に誘われるのが一番楽しいが、共同キッチンが唐辛子の煙でいぶされたり、血の滴る食材を持ってうろうろしていたり、見知らぬ調理器具が凄い音を立てていたり、共同冷蔵庫内で不思議なにおいがするのは、なかなかスリリングである。お酒を飲んで共同トイレで寝落ちる者、挙句にケンカになり卵の投げ合いになって、寮監から注意を受ける者(壁に染みができた)、大音量カラオケ、部外者の宿泊は登録制だが、どうも同棲しているっぽい部屋……本当に面白い。と、思わなくては暮らせない。

 いやはや、オーストラリアくんだりまで来て、修了しないわけにはいかんでしょう、学費高いしさあ、みんな頑張ってるしさあ、と日暮は腹をくくり、湯気の立つカップを持って、部屋へ戻ろうと踵を返した。その時、開かずの扉が開くのが見えた。バッジャー・ホールへ越してきて半年、日暮は隣りの部屋の住人を一度も見かけたことがなかった。艶やかな黒髪をクリップで纏め、長い手足は小麦色の肌、彫の深い目鼻立ちがこちらに振り向く。日暮は息を呑んだ。柔らかな睫毛に縁どられた瞳はしかし、どこを見ているか分からない。夜のしじまに立ち尽くす様子は、ちょっと人間離れしている。恐ろしさ半分好奇心半分で、日暮は彼女に近付き名を問うた。

(チャオ)

 とだけ、彼女は応えた。
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