第1話

文字数 10,085文字


 昼休みが始まる5分前ぐらいから雨が降り始めた。窓ガラスに勢いよく大粒の水滴がつく。この様子だと当分止みそうにない。私は目線を黒板に戻す。教壇に立つ数学教師は淡々と数式を書き続けている、文字が汚く勘弁してほしい。私は四苦八苦解読しながら板書をノートに写す。
キーンコーンカーンコーン
授業終了のチャイムが鳴り、教員に一同礼をして昼休みが始まった。私はカバンから弁当を取り出すと教室を急いで後にした。


 一人で寂しく昼食を食べているのを絶対に見られたくなかった。惨めで可哀想な子だと思われるのはまっぴらだ。だから私は急いで胃の中に流し込んだ。弁当は冷たくなんだか味がしない。今私は屋上につながる階段に一人座っている。屋上は普段から鍵がかかっていて、それにこの雨なら誰も寄り付かないと思った。
腕時計を見る。まだ次の授業までまだ40分弱もある。どうしよう。スマホはカバンの中だ、教室には戻りたくない。図書館も無理。本も嫌いだし、本を読んでいる自分なんて想像できない。私は膝を寄せ、項垂(うなだ)れる。
何やってんだろ、私。みじめだ。
どうしてこうなっちゃったんだろう。誰がやったかはどうでもいい、でもどうして私に。
どうして私になすりつけたの。
気に食わないから? うざいから? ねえ、どうしてなの、私が何をしたっていうの?
高校生にもなって泣くなんてみっともないとも思ったが、どうしようもできなかった。泣いた跡を見られたら泣き虫だって思われる。だけど止めたくても止められなかった。スカートやブラウスの袖に頬を伝った涙がぽたぽたと落ちる。土砂降りだった。


 誰かが下の階段から上がってくる音がして私は顔を上げた。スカートはともかくブラウスの袖はぐしょぐしょになっている。顔を上げ前方を見ると男子生徒が立っていた。目が合った瞬間、私は腕で顔を見られないように隠した。すぐに弁当箱を取り上げ立ち上がる。見られたことが恥ずかしかった。私は男から顔を隠しながら階段を駆け下りた。私が通り過ぎるとき男は立ちすくんでいたが、通り過ぎた後で何か言った気がした。だけど私に気にする余裕はなかった。すぐに最寄りのトイレに駆け込む。幸いその時は誰も使用者はいなかった。私は鏡に映った自分の顔を見る。惨劇だ、目は腫れ充血している。涙の流れた跡がはっきり分かる。私はすぐに蛇口をひねり、ぴしゃぴしゃと顔にかける。何度かやると跡は見えなくなった。目の腫れは引くのを待つしかない。私はスカートの右ポケットを探る。ハンカチはいつも右に入れている。だがポケットに手を入れたが、いつもの布の感触はなかった。もう一度、今度は念入りに手を動かす。だが感じない。「ない」ハンカチは無かった。落としたんだ、でもどこで。「はぁー」思わずため息が出る。落とした場所は分かった、分かったのだが… まあいい、放課後にまた取りに行こう。


 昼休み終了ギリギリで私は教室に戻る。胃が痛くなるのを感じた。午後の授業、掃除、ホームルームが行われ放課後になった。カバンに入れていた折り畳み傘が無くなったり、弁当箱が何故かゴミ箱の中に移動したのを除けば、平穏な午後だった。雨はまだ降っている。まだまだ止む気配はない。私はカバンを肩にかけて、ハンカチを取りに教室を出た。


 ハンカチを落とした場所はあそこしかない、屋上につながる階段だ。私は足早に向かう。放課後なら誰もいないはず。私は屋上への階段を上り目的地まであと半分になった。私は顔を上げる。「あっ」屋上につながる階段には昼休みの男子生徒が座っていた。男は本を読んでいた。男の隣には本が4,5冊ほど積んである。男は私の方に目線を向ける。私は咄嗟に踵を返し駆け下りた。「待って」男の声が聞こえる。私は気にせず下駄箱に向かう。階段を降り、廊下が見えた時肩を叩かれた。振り返るとさっきの男が息を切らせて立っている。「これ、昼休みに落としましたよ」と男は私のハンカチを渡す。私は気恥ずかしさからか「私のじゃないです」と嘘ついた。もし認めたら、私は可哀想な子だと思われる。ハンカチを犠牲にしても惨めな奴だとは思われたくなかった。
「そうですか、分かりました」と意外と彼はすぐに引き下がった。「人違いですいませんでした」彼は頭を下げる。「私はこれで」と振り向き廊下を歩きだす。
「あの」と男が発したので私は立ち止まり、「なんですか」となおざりに言い振り返る。
「ハンカチは落ちていた場所に置いておくので、もし落とし主がいたら取りに行くように言ってください」と男はほんのりとほほ笑む。私は小さくうなずき無言で立ち去った。頬が火照るのを感じた。


 翌日、私はハンカチを取りに朝早く登校する。今日は朝から土砂降りだった。昼頃に止むとお天気お姉さんは言っていたが信じ難い。昇降口に着き靴を脱ぐ。いつもより20分ほど早いので校舎には生徒の人影はほとんどない。ハンカチは屋上への階段の手すりにかけてあった。罠かと思ったが見渡しても誰もいない。私はすぐにハンカチをポケットに突っ込む。そして朝のホームルームが始まる時間5分前まで階段に座って時間をつぶすことにした。


 チャイムが鳴り、昼休みになる。私はペットボトルと弁当箱を持って教室を出た。クスクスと笑う声が聞こえる。今日もまた胃が痛む。新しい場所を探すことにした。誰もいない場所、存在が否定されない場所、私がいてもいい場所を。


 屋上への階段を上がると案の定、男が座っていた。文庫本を読んでいる。男は私を一瞥すると「ありがとう」と言って微笑んだ。「昼に来たらここにかけてあったハンカチが無くなってたんだ。君が伝えてくれたんだろ」と言う。私は「ええ」と嘘をつき男の厚意に甘えることにした。私は意を決して、「昼食、ここで食べても?」と言った。言っている自分はとても惨めだと思ったが、便所飯だけは嫌だ。
「僕は別に構わないよ」男は柔らかい口調で言う。否定されない場所をやっと見つけた。「ありがとう」私は階段に座り弁当を食べることにした。


 「本は好きですか?」男が突然聞いてきた。私は驚きで手に持ったスマホを落としそうになる。私に言ってる? と思ったがここには私しかいない。「嫌い」と私は声のする方を見ずに言う。本なんて嫌い。
「そうか、それは残念」と男は少し気を落とす。それ以降男は黙ったままだった。私は手持無沙汰にスマホをいじる。面白くもなんともないが何もしないよりはましだった。思考停止にスクロールしてゴミみたいな情報を体内に取り込む。ため息が何度か出た。
予鈴がなったので私は荷物を持って教室に戻った。

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 午後になってよいことが一つあった。昨日なくした折り畳み傘が見つかった。ゴミ袋に入っているのを学校職員の方が持ってきてくれた。軸はひしゃげ、骨はバキバキに折れた痛々しい見た目だったけど戻って来たのは素直にうれしかった。職員の人に壊れた傘は自宅で処分するように小言を言われた。私は頭を下げて謝った。
放課後になり教科書などをカバンに詰め込む。外を見ると土砂降りだった。やっぱり。私は心の中で呟く。カバンに着いた埃を払ってから帰宅するために下駄箱に向かった。
下駄箱に着きスリッパを脱ぐ。自分の番号の下駄箱を開ける。「まじか」思わず声が出た。
私は戸を閉め、学籍番号を確認する。やっぱり合ってる。番号は正しかった。はあぁ。ため息が出た。下駄箱の中は空っぽだった。どうやら私の靴を誰かが間違えて履いて行ってしまったらしい。困った、傘なら学校貸し出しのを借りればよいが靴がないと帰れない。スリッパで帰るか。私はそう思い、雨脚が弱まるまで校舎にとどまることにした。

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 とどまると決めたはいいものの特に行く当てはなかった。トイレに籠るのもありだと思ったが、個室からだと天気が分からない。それにトイレの個室は逃げ場がない。囲まれたら終わりだ。私は結局男がいるであろう屋上への階段に向かった。

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 「あっ」と男が発する。案の定、男は本を手に座っていた。昨日と同じように、男の隣には本が積まれている。私は無言で頭を小さく下げ階段に座った。男は何も言わなかった。そうして30分過ぎた。
30分経ったが一向に雨は止まない。私はいい加減スマホを眺めるのはうんざりしており他にすることもなかったので顔を伏せた。顔を伏せると思考停止だった脳が動き出す。悪夢がフラッシュバックする。ヤバイ。私は顔を上げた。結局今日も泣いてしまった。泣くな、私。急いでハンカチで目元を拭いていると、「泣きたいときは泣いてもいいんじゃないかな」と男が背後で言う。
「うっさい、あんたには関係ないでしょ」自分でも思わず大きな出た。私に構わないで欲しい。「ごめんなさい」私は小さく謝る。
「泣いてなんかいません。目にゴミが入っただけです」と下手な嘘をついた。
「そう、僕の勘違いか。なら悪いことをした」男は言うと、私の後ろで立ち上がる音がした。コトンコトンと男が階段を下りて私の横を通り過ぎた。屋上への階段には私一人になった。
ようやく一人になれた。だけど一人になったからって涙は止まらず寧ろ勢いを増すばかりだった。

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 「おい、お~い」ふわふわする意識に何者かの低い声が遠くから聞こえる。私は目を開けて顔を上げる。頭がガンガンする。目の前に男が立っていた。「へぇっ」と私は驚き後ろに下がろうとしたが階段に腰を思いっきりぶつけた。ううぅ。頭はぼーとして回らないし、腰も痛い。私どうして… ああ、雨が止むのを待っていたんだ。
「もう下校時刻だよ。そろそろ帰った方がいい」男はなぜか私を心配そうな顔で見つめる。あたり一面を見渡すと、確かに薄暗い。時計を見てかれこれ一時間ほど寝ていたことに気づく。「ありがとう」私は男に礼を言った。男は微笑む。
「雨はまだ降ってます?」私は男に尋ねた。「ああ、今日は止みそうにないね」と男。私はその返答を聞き落胆する。
男が「傘を忘れたの?」と聞いてきた。私は首を横に振る。「あります、でも壊れてます」私は何故か正直に答えていた。
「傘はいいんです。問題は靴で」私はぼんやりと斜め下を見つめる。
「靴が無いんです。多分誰かが間違えて私のを履いて行ったんだと思います」
言い終わって後悔した。何言ってんの、私。泣きすぎておかしくなっちゃったの。私は男の表情を見るのが怖くなった。目の前の男が憐みの目で私を見つめていると考えると、顔を上げられない。
「そうなんだ」案の定男の声は少し曇っていた。止めて。可哀想とか言わないで。同情なんてしないで。心の中で叫ぶ。
「なら僕の使う?」男は言う。はぁ? 私は思わず顔を上げてしまった。
「でも…そうしたらあなたのが」
「ああ、それは大丈夫。靴は2足あるから」男はマイペースな口調で言うと、階段を上がる。私は立ち上がって男の背中を追うと、男は屋上の扉のところでごそごそと何かをやっている。男は「これは秘密にしておいて」と言うと、次の瞬間屋上の扉が開いた。うそ⁉ 屋上にはでっかい南京錠がかかっていて教員しか入れないはずだ。私が戸惑っているうちに男が扉の向こう側から戻って来た。手には男物の靴を持っている。
「どうぞ」男は私に靴を渡す。私は受け取りながら「どうして屋上の鍵を」と聞いた。
「どうしてだと思う?」男は小さく微笑む。「分かりません」
「まあ考えてみて。もし分かったら君に屋上の鍵をあげる」と男は言う。その時、校内にチャイムが響き渡る。「急がないと。門が閉まる」私たちは急いで下駄箱に駆け出した。下駄箱に着き傘は学校の貸し出し用のを借り、靴は男の靴を履いた。靴はぶかぶかで歩きにくかった。「明日の昼に返します」私は男に言う。男は返事を聞き「了解」とほほ笑む。
私たちは昇降口で別れた。

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 翌日の朝、下駄箱を開けると私の靴が戻っていた。きっと間違いに気が付いて返却したのだろう。靴は水が滴っていて雨水の匂いがする。雨の中に一日中晒されたかのようだ。
 昼休みになった。外は相変わらずの土砂降りである。私は男がいる屋上への階段に向かった。案の定男はいつもの場所に座っていた。男が私を一瞥し読んでいた本を閉じる。私は男の場所まで階段を昇る。「これ、ありがとう」私はビニール袋から昨日借りた靴を取り出した。「どうもどうも」と男はビニール袋ごと受け取った。「それと…これは昨日の靴のお礼」私はポッキーひと箱を渡す。「ありがとう」と男は嬉しそうな表情を見せた。
「じゃあ、私はこれで」と階段を下ろうとすると、「待って」と言われた。「ポッキー、一緒に食べない?」と男はほんわりとほほ笑む。断ることを躊躇わせる表情。
「じゃあ遠慮なく」私はうなずくと男の隣に座った。ポッキーの箱が空けられ4つの小袋が現れた。男は半々にしようと提案したので私は2つの小袋を手元に置く。
「なんでここで本を読んでいるんです?」私は袋を開けながら訊く。
「ここが部室だから」男は言う。
「えっ」
「探偵小説研究会。そして僕がその部長。ほら」男が横に置いてある文庫本の表紙を見せる。“五匹の子豚 アガサ・クリスティー”と書かれていた。タイトルも作者も聞いたこともない。
「それも推理小説なんですか?」
男は微笑みながらうなずく。「まあ、研究会と言っても部員は僕一人なんだけどね。部室も僕がただ占領しているだけだし」ハハハと笑う。不思議な人だ。この人はいつも微笑みが絶えない。少しうざい。
「そうだ。君も探偵小説研究会に入らない?」男は屈託のない笑顔を見せる。自分の頬が火照るのを感じた。心臓の鼓動が分かる。
「私、本が嫌いなので」と顔を伏せて応えた。この人、まぶしい。
「了解。無理強いはしないよ。去る者は追わず来る者は拒まず、だからね」
「何ですかそれ」「うちの部活のスタンスかな」男はポッキーを口に運んだ。
「でもなぁ、探偵小説研究会って少し名前が堅苦しい気がするんだ。なんかいい名前無いかな?」と男はこちらを見る。「私ですか」「そう、何かいい案ない?」私はポッキーを見つめる。「私、小説も研究会も嫌いです。だからその… 探偵部… とかはどうですか?」私は発言の幼稚さに恥ずかしさを覚えた。男の方をちらっと見る。男はなぜか目を輝かしていた。
「いいね、それ!」男は少し興奮気味に喜び親指を立ててグッジョブのポーズをした。「ミステリーの味わい方は何も本だけじゃない。テレビや映画、漫画楽しみ方は多種多様だし小説だけに絞るべきじゃないかも。それに研究会って聞くと勉強会みたいなイメージだし。探偵部、シンプルでいいね」と男は満足げに頷き「よし、探偵部にしよう」と言う。男は私の顔を見つめる。「ありがとね」と笑う。私も口角を上げる。
「笑顔の方が何倍も魅力的だよ」と男。私は男に聞きたいことがあったが聞くかどうか逡巡していた。けど私は聞く事にした。とっくに泣いていたのはばれてるし。私は膝を立てて身を少し丸める。
「なにも聞かなんですか」と私。
「なにを」
「なにをって。私がどうしてここにいるのか、とか泣いてた理由とか」私には謎だった。私が男の立場なら聞いたはずだ。男は不思議そうに考え込む。
「別に。誰だって独りになりたい時もあるし、泣きたい時もある。それとも君はその件について話したいの?」不敵な笑みでこちらを見る。
「それは別に… ないです」
「なら言わなくていいよ。またいつか話したくなった時、その時にじっくりと聞くとする」
「そんな時絶対来ないし」と私は小さく呟いた。私の心は多分この天気みたいに土砂降りのままなんだ。
「さあね、今はこの天気みたいに土砂降りだからそう思うだけかも。でも止まない雨は無いし明けない夜は無い。僕はそう思っている」男は私の心を透視した発言をする。私が振った話だが切り上げたいと思った。
「どうしてここに拠点を置いたんですか。探偵小説研…」「探偵部だよ」「探偵部の」
男はう~ん、考え込み腕を組む。
「どうしてか、難しいね。まあ強いて言うならば、“スタンド使いは引かれ合う”ってことかな」
「何の話ですか、それ」「ジョジョの奇妙な冒険って知らない?」「知らないです」と私。
「そう、それは残念」男は少し残念そうな顔をした。結局答えは曖昧になった。
「そうだ、話変わるけど、階段で膝を立てるのは止めた方がいいかも」男は私を見て言う。
「どうしてです」私がそう聞くと男の頬がほんわり紅潮した。
「階段の下からだと見えちゃうから…」男の発言を理解すると私は顔がどんどん熱くなるのを感じた。「変態!」私はすぐに立てた膝を戻す。
「いや、本当の変態なら教えないはずだ。それに僕は見たくてみたわけじゃなくて。たまたま一瞬目に入った程度だし…」
「ほんとサイテー」
「ごめん、悪かった。忘れてくれ」
この後も私と男との会話は続いた。男と話していると、昼休みの時間はあっという間に過ぎた。予鈴がなり昼休みの終わりを告げる。私と男は荷物をまとめ立ち上がる。
「外を見て」男が屋上の扉の窓を指さす。
「あっ」思わず声が出た。「ほらね。止まない雨はないでしょ」
土砂降りだった雨は止み、雲の隙間から青空が覗いている。扉の小窓からはまばゆい光が差し込んでいた。

15
 かれこれ2週間ほど経った。私は昼休みは屋上への階段に向かうことが当たり前になっていた。男はいつも私よりも先に居た。晴れた日は屋上に出て弁当を食べた。男はただ黙々と本を読んでいて男の方から何か話すことは無かった。でも私が話を振った時は、本を読むのを止め話に付き合ってくれた。相変わらず教室に私の居場所はない。まあ、当たり前か。私が何かしなければ変わらないのだろう。
「あの…」私は男に話しかける。「なに?」と男は本を閉じてこちらを柔らかい眼差しで見る。ヤバイ、いざ話すとなると平常心を保てなくなる。落ち着け、私。
「こ、これは私の友達の話なんですけど。少し聞いてもらえますか」私は手をもじもじさせながら少し俯く。「うん」と男は優しく言う。
「その友達は教室に居場所が無いんです。どうしてかって言うと、クラスメイトを傷つけてしまったから。でも本当のところは、その友達は無実で誰かに嵌められたんです。だけど誰も、クラスメイトも教員も信じてくれなくて… その子は孤立しました」言っていて悲しくなっている。
「うん」と男。
「その子に対していじわるが始まりました。ものが無くなったり、見つかっても壊れていたり」
「それは…。しんどいね」
「友達は教室から逃げ出しました。ただただ当てもなく逃げて、幸いにも別の居場所を見つけました。そこは存在を認めてくれる場所で少なくともそこでは彼女は幸せでした。でも心の端っこに、逃げたことに対しての負い目みたいなものがあって。彼女は時々思うんです、もう自分は普通の高校生活を送ることはできないって。あの時一人になっても戦っていれば状況はちがったのかなって。だからその… 負けを認めて逃げた自分を、最後まで戦うことをしなかった自分の弱さを彼女は認められず… 苦しんでいます。それで、その。どうすればいいと思いますか? すいません、言ってること分かりにくくて」結局何が言いたいんだ、私。
男は深く黙った後、口を開いた。
「逃げることに対する負い目か… その友達、逃げることができただけでもすごいと思よ。世間だと逃げる力も無くて自殺する人もたくさんいる。逃げることは悪い事じゃないと思うな、社会や世の中が間違っている時も往々にしてある。逃げちゃ駄目だなんて社会的強者の理論だよ。生きるための逃げは全然ありじゃないかな」
「でもその子は普通の高校生になりたかったんです。でもそれも、もう無理で…」
「確かにその子は普通にはなれない」と男は言う。「第一に普通の高校生なんていないんだ。隠すのがうまいだけでみんなどこかしら異常で異端なんだよ。普通っていうのは幻想だと僕は思うけどな」
変な人だ、私は男の発言を聞いて思った。屋上に風がスーッと流れ込む。
「いじめはなんで起きると思う?」男は突然私に訊いてきた。突然の問いに慌てる。
「ええ… それは… 分からないです」
「いじめは、人間だけの現象じゃない。いじめっていうものは、動物に備わった本能の一部なんだ。知ってた? 人間以外の動物にもいじめは存在するってこと。チンパンジーは集団で仲間を暴行する例があり、金魚は弱い個体を攻撃する習性がある。集団の中の弱者や異物を排斥しようとするのは生物の本能的性質なんだ。そして理性を備えた人間でさえその名残がある」
「何が言いたいんですか?」
「いじめをする人間とは知能が動物に近いってこと。彼・彼女らは本能の奴隷なんだ。そして僕らはそんな低俗で野蛮な人間に関わるほどお人よしじゃないし暇じゃない」もしかして慰めてる? 随分と変わった慰め方だ。私はおかしくて少し笑う。
「君の友達に言ってあげて、君の大切な時間を猿と戯れるのに使うのは勿体ない。大切な人、大切なモノのために人生は使うべきだって」男の口調からは確固たる意志を感じた。
「分かりました。でも人を猿扱いは差別的ですよ」私は少し揚げ足を取る。
「ごめん、つい熱くなった。そこは君がうまく伝えてよ」男は頭をポリポリ掻く。私の大切な人、大切なモノ、何だろうか。しっかり考えたことも無かった。
「あ、あの。友達のことでもう一ついいですか」「もちろん」
「彼女は犯人に復讐してやりたい気持ちがあって。復讐なんて、そんなことできないのに気持ちは日に日に増すばかりで。止めようと思っても、止められないんです。どうすればいいんでしょうか」復讐なんて不健全だとは分かっている。
男は沈黙した後、おもむろに口を開く。
「自分の感情は隠すことはしても、殺してはいけないと思うな。自分の感情を大切にしてあげたらどう。復讐してやりたいと思うのは当然だと思う。多分その友達が困っているのはその怒りの矛先だよね。振り上げた拳をどこに下ろすべきか分からない。だから苦しんでいるんじゃないかな。あくまで僕の考えだけど」この人はどうしてこんなにも分かるんだろう。私は寒気がした。
「復讐したいなら、復讐すればいいんじゃない」「えっ」意外だった。
「ただいじめに対していじめで返すのは非生産的だし、まず勝ち目がない。相手はクラス全体だし。もっと賢くやらないとね」
「どうやるんですか」
「ここを使うんだよ」と男は自身の頭を指さす。「まずはヒエラルキーの上位に行く。そのためには何かに秀でていないといけない。一番公平で簡単なのは勉強だ」
「無理です、無理です。私、勉強苦手で。この高校にもギリギリで入ったし」
「えっ、君の話じゃなくて、君の友達の話だろ」男はニヤッと笑う。頬が火照るのを感じた。
「そうでした、友達の話でした」私は恥ずかしくて少し目線を下げた、
「勉強して学年一桁にでもなれば、周りからの目も変わるだろ。嘲笑や侮蔑は称賛や尊敬に変わる。何人かはその子のもとに仲直りしないかと言ってくるはずだ。そしてその時こそ、復讐の時、思いっきり言ってやるんだ『今更何言っても遅い、ざまあみろ』ってね」男は目線をこっちに向ける。
「ざまあみろ、ですか」私が驚くと、「そう、ざまあみろ。自分を馬鹿にした人間を後悔させてやる。他者を貶める復讐よりも自己を高めて見返してやる復讐の方がよっぽど生産的で、理知的だろ」と男は言った。
「すごいポジティブですね」「ポジティブな思考を選択しているからね」男はほんのり微笑む。
「でもそれは頭がいい人の話であって、勉強ができない人には… 難しくないですか」言っている自分はとても情けないと思った。男は目線を下におとす。
「君は自分自身のこと嫌い?」「えっ」と私。男は地面を見ながらゆっくりと口を開く。
「信じてあげたらどうかな。もっと自分のことを。自分はできる奴だって。自信には根拠のある自信と根拠のない自信の二種類ある。どっちが大切だと思う?」
「根拠がないと自信は持てません」
「そうかもしれない。でも僕は最後の最後大切になるのは根拠なき自信だと思うんだ。根拠のある自信は根拠が否定されたときに結構簡単に無くなる。でも根拠の無い自信は根拠が無き故に何事にも揺らがない。自分を信用する、じゃだめなんだ、自分を信頼してやらないと。勉強は“今は”できないかもしれない。でも未来はどうとでもなるんだよ」男は噛みしめる様に言った。
「私にも…、できる?」この人と話をしているとできるように思えてくる。不思議と気持ちが高まる。信じてみたいと思えてくる。
「できるよ。人が本気で努力してできないことなんて何一つないんだよ」男は屈託なく笑う。
その笑顔はこの世のものじゃないぐらい、とてもやさしくて直視は数秒しかできなかった。
「あの… 私の復讐に手を貸してくれませんか?」自然に口から言葉がこぼれていた。どんな頼み方だと言ってから思った。
「いいよ。君にその覚悟があるなら」男は微笑んだ。
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