第1話摩子、筑豊の炭鉱住宅に誕生

文字数 1,277文字

 北沢摩子は、博多の西、田川の香春岳が見える炭鉱町の炭鉱夫の頭・北沢重三の娘として1952年10月22日に生まれる。その後の炭鉱の落盤事故の時、朝鮮人炭鉱夫や自分の部下を助けるため命を落とした。その悲しい出来事に耐えられず、母、北沢タエは、東京に引っ越した。そこで、タエさんの美貌に惚れた奥さんをがんで亡くした、東京のセメント長者の息子、竹井俊介と知り合った。

 その後、1960年10月8日に結婚し入籍。そして、摩子は竹井の吉祥寺の家に入り、なに不自由なく暮らしをしてた。やがて北沢タエと竹井俊介の間に次女、竹井政子が1961年11月11日に生まれ、その後、1963年9月9日に長男、達彦が生まれた。長女の摩子は、タエに似て、容姿端麗だった。

 しかし次女の政子は、竹井俊介に似てがっちりとした体格で、不美人とまでは行かないが、普通の元気な女の子。長男は、タエに似て、きれいな顔して美男子だった。摩子は、1965年に三鷹中学に入学して、数学・計算、英語、音楽、美術が得意な子だった。勉強して、東京都立武蔵女子高校に入学して1971年に東京都立大学理学部化学科に合格した。

 一方、泉久美子は、泉財閥の御曹司の泉武義の長女として1953年2月16日生まれて、高円寺の近くの広大な敷地のお屋敷に住み、小さい頃から学習院に入り、いわゆる純粋培養のお姫様として育った。負けず嫌いで、我がままで、それでも頭脳明晰で、特に相手の心理状態を読むのが得意で、論争にはめっぽう強い、お転婆娘だった。

 学習院初等科から、そのまま、大学まで、全部・学習院という、生粋のお嬢様、持ち前の相手の心理を掴むテクニックを駆使して、3人の彼氏がいて、本命を決めず、ハンサムボーイ、スポーツ万能、頭脳明晰君3人を手玉にとって、うまく利用していた。この頃の日本経済は高度経済成長を続け、1960年代後半の実質経済成長率は10%を超えていた。

 この間、エネルギー需要は拡大を続け、1965年から74年の10年間に2倍強、1955年頃から見れば実に7倍に増大した。この時期は、大気汚染だけでなく、水質汚濁、自然破壊、の問題も日本各地で顕在化し、深刻度を増していた。やがて1974年の突然のオイルショックで、物価上昇と不況の二重苦に苦しめられる事になった。

 それでも若者達へ、アメリカから入ってくる新しい音楽、流行を憧れを持って受け入た。その後、摩子は1975年に東京都立大学理学部化学科出て日本で有名な製薬会社の研究員として鎌倉の研究所に通い家から遠いが通っていた。しかし仕事は5時に終わるので、ゴーゴークラブ・ディスコクラブに行くことができた。

 一方、泉久美子は大学を卒業して外資系金融機関の日本支社に入社した。その後1977年頃からケントス六本木にも、彼氏と顔を出しABBA、オリビアニュートン、ジョン、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームス、テンプテーションズ、フォー・トップス、マーヴィン・ゲイ、スモーキー・ロビンソン、スティーヴィー・ワンダーなどモータウンサウンドが流れ、踊を楽しんだ。
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