肉筆原稿と愛読者 <前>

文字数 4,451文字

 興奮のためよく覚えていないのだが、その知らせを聞いたとき、私は小躍りせんばかりに歓声を上げたと思う。何しろ、ジョニー=リー=ミッシェルの未発表原稿を持っていると言うのだから。
 ジョニー=リー=ミッシェル!
 デビュー以来ヒット作を飛ばし続けてきた当代随一のエンターテイメント作家で、四年前に、クロケイド社と向こう十年で五作の独占出版契約を結んで話題になった。その契約額が凄い。前渡し稿料という形で一千万ドルだという。これに増刷分の印税が加算される。十一年目以降も、クロケイド社の他に二社が加わっての争奪戦になる状況があった。我がビッグスカイ社のような中堅出版社には、手も足も出ない高嶺の作家となってしまった訳だ。彼女を世に送り出したのは我が社だというのに、情けない。当時の編集者どもに眼力がなかったし、売り出す力もビッグスカイ社に備わっていなかった。
 この人気作家が急死したのは、つい半年ほど前。クロケイド社から二作目を刊行したばかりの頃だった。犬の散歩中に交通事故に遭い、呆気なく逝った。新聞に載った顔写真は、二年に一作のペースでベストセラーを書き続けてきた作家には見えなかった。家庭と隣近所のことしか知りそうにない、人のよさそうな中年の婦人だった。
 彼女の外見はともかくとして、その新作がもう読めないという事実は、ミッシェルファンのみならず、多くの読書人にショックと悲しみを与えた。クロケイド社にとっても大打撃だったろう。
 そんな折、私が受けた電話の主が、夢のような話を持ち込んできた。「ジョニー=リー=ミッシェルの原稿を持っているのだが、本にできないものだろうか」と。
 果報が向こうから転がり込んできた!
 などと最初は喜んだ私もすぐに冷静に立ち返り、眉に唾しながら、事情を聞き出してみた。悪質な詐欺の類だったら、即刻、追い払わねば。
 相手はミッシェルの昔のボーイフレンドで、カーコイル=アームストロングと名乗った。大手繊維メーカーの重役とかで、なかなかに忙しい身らしい。
「昔のと言われますと、どの程度前の?」
「学生時代ですよ」
 私の質問に、アームストロングは穏やかな調子で答えた。
「かれこれ三、四十年ほど前になりますか。パティとはSの州立高の卒業パーティで知り合いましてね。同じB大学に進むと分かって、そのまま親交を続けたのです」
「パティ?」
「え? ああ、失礼を。ご存知ありませんでしたか? 彼女の本名はパティ=ミッシェルです。当時の呼び名で、つい……」
 あとで調べると、アームストロングのこの言葉は事実だった。ペンネームに用いたジョニー=リーは、彼女が好きだったアジア系の映画俳優の名前から取ったらしい。
「大学を出ると同時に彼女とは疎遠になってしまいました」
「ああ、その辺りはいいですから、あなたがミッシェルの原稿を保有していた、そのいきさつをお聞かせください」
「彼女は学生時代、文学少女でした」
 彼の喋りには、懐かしむ響きが確かにあった。
「勉強そっちのけで熱を入れていましたよ。創作学科に行かなかったのが不思議なぐらいにね。そんな彼女の数少ない読者が、私でした」
「ほう。当時のミッシェルの習作を読む立場にあったと」
「その通りです。私と同じ役目を負っていた者は他にもいたようなのですが、ずっと続けていたのは私一人だったようです」
「それはまた何故? 多分、その頃からミッシェルの小説は面白かったでしょうに」
 疑問を口にすると、受話器を通して微笑の息が聞こえてきた。
「小説の善し悪しについて論じる能力に、私は自信ありませんが、当時の彼女の作品はプロ作家になって以降と比べると、恋愛の要素が過剰すぎたように思います。それでも、面白い作品ではあったのでしょう。それよりも問題だったのは、彼女が非常に悪筆だったことです」
「悪筆?」
「はい。読むのが困難なほどに。タイプライターを使えば?と薦めても、機械音痴だからと言って受け入れませんでした。なかなか、頑固でしたね。お金に余裕がなかったというのもあるかもしれませんが」
「あの、字が汚いから、読む方が投げ出してしまったと?」
「そうです。いや、私は投げ出さなかったのだから、これは想像ですが」
 これもあとで調べて、ジョニー=リー=ミッシェルが相当な悪筆だったことは事実だと判明した。我が社からデビューしたその一作のみ肉筆原稿だった彼女は、その後タイプライターを購入し、やがてワードプロセッサーの使い手となっていた。故に編集者も困らなかったらしい。
 それからも、ミッシェルのプロフィールを淀みなく話すアームストロングに、私は好感触を得た。当然、会いましょうと約して電話を切った。
 一週間後、カフェで実際に顔を合わせても、私の感触は変わらなかった。
 想像していたよりも若々しかったが、カーコイル=アームストロングは紳士然としていて、笑みを絶やさぬ人だった。
「とりあえず、原稿をお見せいただけますか?」
「もちろん。これです」
 黒いビニール製の手提げ袋から、ぼろぼろになった紙袋を引っ張り出したアームストロング。紙袋に大学の名前が入っているのが、何とか読み取れた。
 そして彼は改めて紙袋に手を入れ、原稿の束を取り出した。
「実はお電話してから心配になって、パティの著作全部に目を通してみたのです。まさか、すでに彼女が出版していたら、私は大恥をかいてしまう」
 こちらに原稿を向けながらのアームストロングの言葉に、私は背筋が寒くなった。その可能性を完全に見落としていたのだ。
「ど、どうだったんですか」
「ははは。大丈夫でしたよ。どの作品とも違います」
 胸をなで下ろしたが、私は緊張を新たにした。そうなると、目の前にある原稿はいよいよ貴重な物となる。もう読めないジョニー=リー=ミッシェルの新作で、しかも肉筆原稿だ。破くことはもちろん、手垢を着けさえしようものなら、業界のあらゆる方面から総攻撃を食らうに違いない。
 作品は相当な分量があった。何万語あるのか、見当も着かない。
 私はともかくも、最初になすべきことを始めた。筆跡鑑定のため、ビッグスカイ社の保管庫に眠っていたミッシェルの生原稿、その一部をコピーしてきた。
「……なるほど、この字は間違いなく、ミッシェルの手による物のようです」
 私は専門家ではないが、コピーした紙片の文字と、原稿にある文字とは同じに見えた。タイトルに Service - Lips と筆記体である。Lの崩し方が特にそっくりだ。
「これは大作だ。すぐさま読むという訳にはいきませんね……。コピーを取りたいところですが、よろしいでしょうか」
「ああ、私はかまいませんよ。所有権に関しても、問題ないでしょう」
「と、言いますと?」
 自信ありげな相手に向けた私の表情は、きっと怪訝なものだったろう。
 アームストロングは実に楽しそうに苦笑した。
「先日、お話ししたように、私は学生時代のジョニー=リー=ミッシェルの読者役をやっておりました。当時、立て続けに原稿を渡されましたから、卒業までに読み切れなかった物が残ったんです。社会人になってからは忙殺されていましたが、ミッシェルがプロデビューしたのを知って、思い出しました。いつか読んで、返そうという頭はあったのですが、ついつい、先送りになってしまって。
 それが、デビュー直後の彼女と何度か手紙をやり取りしまして、その中で預かる形になっている原稿にも触れておきました。それに対する彼女からの返答は、読者になってくれたお礼の意味を込めて、私にプレゼントするというものでした。一旦は辞退した私ですが、パティも引き下がらないものですから、ありがたくちょうだいすることにしたのです。そのときの手紙も、きちんと保管していますよ」
「ふむ。しかし、出版となると著作権も絡んできますので、遺族の方とも話し合いませんとね」
 生涯独身だったミッシェルだが、その家族で健在の者はかなりいると聞いている。
「そう言えば、アームストロングさんはどうして我が社に話を持ち込まれたのでしょうか?」
「パティの作品を最初に拾ったのは、ビッグスカイ社なのでしょう? 結果的に彼女の最後の作品となった『Service - Lips』もまた、ビッグスカイ社から出してやるのが、彼女も喜ぶんじゃないかと思いました」
「はあ」
 私は内心、おかしくてたまらなかった。ミッシェルはきっと、もっと大きな出版社を願っているだろう。
 そう言えば、この原稿の存在を知ったら、クロケイド社も黙っていまい。契約を盾に、「『Service - Lips』の出版権はうちにある」と言い出さないとも限らない。
 契約の中身が分からない内は何とも言えないが、「新作」という意味合いの文言があるかないかで、情勢が大きく変わるだろう。いずれにしても、よい弁護士を雇う必要が出て来るかもしれない。
「そうですね。では、とりあえずコピーを取って、それを社に持ち帰って、会議にかけましょう」
「お願いします。パティのためにも」
 アームストロングは、しんみりと言った。

 事態が急転したのは、それからまた一週間後だった。
 ミッシェルの遺族代表から、通知が来たのだ。
 その書状によると、アームストロングが保管していた原稿を、遺族が高額で買い上げたらしい。そして改めてクロケイド社を筆頭とする大手出版三社にビッグスカイ社を加えて、四社の編集者とお会いしたいと言ってきた。どうやら、最も儲けるための道を模索しているようだ。
 私は早速アームストロングへ電話を入れたが、すでにその住所に彼はいなかった。名刺を頼りに、彼が勤めるはずの大手繊維メーカーに問い合わせしたところ、退職していた。大企業の重役職を放り出してもいいと思える好条件……ミッシェルの遺族らが一体どれほどの金額を彼に払ったのか、想像もつかない。
 裏切られた気持ちに落ち込みつつも、今度の原稿争奪戦に限れば、我がビッグスカイ社も他の三社と同じ立場にある。ひょっとすると、後ろめたさを感じたアームストロングがせめてもの罪滅ぼしに、口添えをしてくれたのかもしれない。まあ、感謝するほどではないが。
 ミッシェルの遺族らからの通知を受け取ってから、今度は三日後。私は、K山脈をいくらか分け入ったところにある別荘地へ向かった。ミッシェルの遺族の一人で、彼女の兄に当たるアンドリュー=ミッシェルが所有する豪邸のような別荘で、ビジネスの話し合いをするためだ。
 着いてみると、私が最後の客だと知れた。
 と言うのも、他の三社から使命を背負ってやって来た編集者達は顔を揃えていたし、他の遺族に関しては、アンドリューが代表して全てを仕切っていると聞かされたからだ。
 アンドリュー=ミッシェル。
 クロケイド社のロン=フレデリクス。
 スイングブック社のトーマス=エデン。
 リードライト社のジャニス=ウォルシャム。
 そして私の五人で、火の入ってない暖炉前のテーブルに着き、会合は開始された。
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