第1話

文字数 1,773文字

 味覚障害とは、味や風味といった感覚がマヒするという、一般的に味オンチと呼ばれる症状である。
 磯谷(いそたに)もその一人だった。だが、彼の場合、生まれつきそうだったわけではない。むしろ味覚は人一倍敏感で、己の舌に絶対の自信を持っていた。
 しかし、十年ほど前から、少しずつ舌にしびれを感じるようになり、ここ二、三年は味覚どころか匂いすらも感じなくなっていた。
 これが一般人であれば、味覚が無くなったところでさしたる問題はないだろう。五十を過ぎてグルメを気取ったところで、誰も気に留めない。古女房の微妙な味付けの手料理に辟易することもなく、苦手なニンジンも気にせず食べられるようになったのは、むしろ好都合といえるかもしれない。
 しかし磯谷の場合は事情が違った。何せ彼は一流ホテルの三ツ星フレンチ『グランメゾン・ラ・セーラ』の総料理長だったからだ。

 総料理長といえど、磯谷自身が包丁を持ったり、鍋をふるうことはない。ここ十年、ほとんどの作業を部下に任せているからである。
 だが、最後の仕上げだけは磯谷が味見をせねばならない。彼のジャッジ次第では作り直しを余儀なくされることも少なくなく、それがラ・セーラの総料理長としてのプライドだった。

「磯谷総料理長、お願いします」
 この日も副料理長の森里(もりさと)がオニオンスープを出してきた。グランメゾン・ラ・セーラのオニオンスープと言えば、創立以来の定番料理の一つであり、この味を求めて全国から舌の肥えた客が訪れるほどだった。
 磯谷はスプーンで一口すする。が、この日も全く味を感じない。
「森里、君はどう思うかね?」磯谷はいつもの台詞を吐く。
「僭越ながら少しだけ言わせてもらいますと、若干塩味が足りないと思います。ひとつまみ加えてみてはいかがでしょうか?」
「ワシも同じ意見だ」
 磯谷の指示に従い、森里は直ぐに塩を加えた。
 最近はいつもこの塩梅で、味覚障害を何とか誤魔化している。しかし、いつまでも騙しきれるものではないことは、彼自身、充分把握していた。部下たちの視線に怯え、いつまで調理場に立っていられるのか、不安で仕方がない日々を送っていた。

 その日は遂に訪れた。
 閉店作業を終えた森里が磯谷の元にやってきて「お話があります。お時間を頂けないでしょうか」とためらいがちに頭を下げた。彼の表情はいつになく険しい。
 もう隠し切れないと悟った磯谷は、森里を連れて控え室に入り、他に誰もいないことを確認してから、味覚障害を告白した。
 一瞬、眉を引きつらせたものの、森里の眼球は1ミリも動かない。
「……やっぱりそうだったんですか。実は少し前から怪しいと思っていました。どうしてもっと早く言ってくれなかったんです? お気持ちはわかりますが、これでは店を……あなたを信用して来店されたお客様を騙すことになります――それでもよろしいのですか?」
 すまないと心から謝罪した磯谷は、「もう潮時だ。潔く身を引くよ」と伏し目がちにコック帽に手をかけた。
 だが、森里はその手を掴み、磯谷を説得した。
「磯谷総料理長、私はあなたを尊敬しています。私だけではなく、スタッフ一同、みんなあなたに憧れて、ここに集まったんです。……そりゃ、あなたには厳しいこともさんざん言われました。心が折れそうになったことも、一度や二度ではありません。……ですが、あなたあってこそのラ・セーラです」
「……このまま総料理長を続けても構わんというのか?」
「もちろんです。あなたは厨房にいるだけでいいのです。それがラ・セーラの威厳に繋がるし、スタッフも実力を発揮できます。あなたはそのために存在していると言っても過言ではありません。……お願いです、辞めるなんて言わないでください。私の為にもみんなの為にも……そしてグランメゾン・ラ・セーラを訪れる全てのお客様の為にも」
「……ワシがそれほどまでに慕われているとは思わなかった。ありがとう。これから迷惑をかけるだろうが、それでも……」
「何をおっしゃいます。あなたほどではありませんが、我々だって味付けには自信があります。ここは私に任せてくれませんか。但し、この事はここだけの秘密にしておいてください」
 感動に打ち震える磯谷は、涙を滲ませながら森里と固く握手をした。そして今後の事を打ち合わせると、二人は笑顔で厨房に戻った。
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