第2話 完結

文字数 1,903文字

 その日以来、磯谷は味付けを森里に任せ、部下たちの指導に熱を入れ始める。少しでも良い人材を育てようと躍起になったのだ。
 森里もこれまで以上に檄を飛ばすようになり、皆の士気が上がっていった。

 やがて一年が過ぎた頃、順風満帆に思えたグランメゾン・ラ・セーラに、再び問題が発生した。
 森里も味覚障害になったのである。
 彼はその旨を磯谷に伝えることが出来ず、チーフシェフの堺智恵(さかい、ともえ)にだけ打ち明けることにした。彼女は将来有望の女性シェフとして、森里の片腕を担っていることもあり、信用のおける人物であった。
「お任せください。副料理長の、いや、ラ・セーラの為であれば……」
 後は磯谷と同じパターンだった。森里の代わりに堺が試食して、部下にアドバイスを施す。他のスタッフは誰も味覚障害の事を知らない。いや、知られる訳にはいかなかった。

 すると二年もしないうちに奇妙な事が起こった。
 この日は国賓を招いた、大事な食事会であった。会場には総理大臣を始めとしたVIPが顔を連ねている。決して失敗の許されないイベントだった。
「では、磯谷総料理長。お願いします」
 厨房では、森里がいつものように舌平目のムニエルのソースの入った片手鍋を差し出す。スプーンでそれを軽くすくい、磯谷は少しだけ舌の上に乗せる。
「森里君、君はどう思うかね?」いつものやり取りが続く。
「そうですね。チーフの意見も聞きたいです。堺くん。君の感想は?」
 すると堺は部下である魚料理担当の関根シェフに味見を勧める。彼もまたひと口味見をすると、「君はどう思う?」と、サブに訊いた。
 彼もまたアシスタントのシェフに意見を求めると、最後は先月入ったばかりの見習いに、勉強のためだと参考意見を求めた。
「……よく分かりませんけど、このままでいいんじゃないでしょうか」
 それを聞いたシェフたちは口々にこう述べた。
「私もそう思う」
「自分も同じです」
「俺もだ」
「私も異存はありません」
「もちろん、私も同意見です」
 磯谷は腕を組んだまま、ゆっくりと頷いた。「そうか。ではそういうことで後は頼む」
 こんな調子ですべての料理が完成し、食事会は滞りなく行われた。
 
 味覚障害は、ほぼすべてのシェフに蔓延していったが、おかしなことに苦情は一件も来なかった。誰もその事実を語らないが、実は人口のほとんどが味覚障害になったからだ。
 それは外国人も同じで、客たちは三ツ星であるラ・セーラを信用しきっていて、文句を言う人は、まず、いなかった。
 それは大人だけに留まらず、子どもたちにまで広がりを見せていた。おかげで駄菓子は見た目だけが派手になり、味付けにはこだわらない商品だらけになった。

 そんなある日、グランメゾン・ラ・セーラを一組の家族が訪れた。彼らは十歳になる息子のバースデーのために予約していた。
 シェフおすすめのフルコースを注文した家族は、満足げな表情で食事を進めていく。だが、肝心の息子だけ、やや浮かない顔をしていた。
 やがてデザートの洋梨のシャーベットを食べ終わる頃を見計らって、磯谷はあいさつに回った。最近は部下たちに料理を任せきりで、やることといえば、それくらいしかなかったのである。
「本日の料理はいかがでしたか?」磯谷は笑顔を浮かべながら会釈をした。
「大変満足です。まさか総料理長直々にお礼が言えるなんて、こんな感激なことはありません」と父親が感謝の言葉を送った。
 今度は母親が「私も感動しております。来年もまたこちらでお祝いしたいですわ」と感謝の意を伝えた。
 夫婦は満足そうな笑顔を向けながら何度も丁寧にお辞儀をした。
 この店ではいつものパターンであり、苦言を述べる者は誰もいない。
 しかし、息子はナイフとフォークを置いていた。見ると料理を半分ほど残している。
「坊ちゃんには量が多すぎたかな? お子様ランチの方が良かったかもしれないね」
 磯谷はその子に向かって微笑みかけると、彼は不満そうにこう言った。
「ごめんなさい。せっかくのコースだけど僕の口には合わなかったみたい。オニオンスープは塩が利き過ぎだし、イワシのグラタンもチーズが合わない。……それにメインの仔羊のソテーも火が通り過ぎて固くなっているし、ソースが負けている。もっとバジルを利かせた方が良いんじゃないかな。最後のシャーベットも凍らせすぎ。風味が全然生かせてないよ。……これだったらコンビニの方がまだマシかな? それに全体的に素材の鮮度が悪すぎる。仕入れ担当の人はちゃんと仕事をしていないんじゃないの?」

 グランメゾン・ラ・セーラに、史上最年少の総料理長が誕生するまで、そう時間はかからなかった……。
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