第44話  休戦

文字数 2,010文字

「!!」
恐るべき雄敵である武田四郎勝頼と槍を合わせ、極限まで精神を研ぎ澄ませていた重成の五体にかつてない悪寒が走った。
得体の知れない巨大な野生の怒りと憎悪がはっきりと己に向けられたのを感じたのである。
「どうした、若武者よ!」
心技体の全てを尽くして戦っているからこそ否応なく相手の異変を鋭敏に感じ取ることが出来たであろう勝頼が訝し気に問う。
無論重厚なその構えに隙は一切生じていない。勝頼は重成が油断を誘う為に演技をしているなどと一瞬も疑わなかったようである。
死闘を通じて敵手の気性というものは自然と理解出来る物である。重成がそのような小賢しい小細工を用いないことは伝わっているだろう。
当然重成も勝頼の気性は幾分理解出来ている。いさささか屈折したものを抱えているが、本来は堂々たる戦いを好む武辺一途な人物であることを。
だから重成の五体に生じたわずかな異変を感じながら、結局その隙をつくことが出来なかったのである。
「……」
重成は勝頼に新たに敬意を抱きながらも、無言を貫き答えなかった。
(一体どうしたというのだ?私の中の神気が反応している。雷神トールから受け継いだ神気が……)
重成は雷の神気を抑え込もうとした。畏敬の念を抱くに相応しい敵手相手に己の力以外は用いたくはなかった。
だが重成の意志にも関わらず雷の神気を抑え込むことは困難であった。
目前の敵である武田勝頼相手に反応しているのではない。
このヨトゥンヘイムの大気、大地を覆う巨大な存在に対して反応しているのだ。
「……?」
重成の五体から雷が迸るのを目にし、勝頼は攻撃の手を止めて後ろに下がった。
しかしすぐに目の前の敵の変化よりももっと異常な現象を感じ取り、死者の将は身構えた。
「何だ一体、何が起こっているのだ?」
止みかけていたと思われた吹雪が再び激しさを増した。
「いや、これは吹雪ではない。氷雪が一点に向かって集まろうとしているのか?」
重成と勝頼は理解した。ただの氷雪ではない。原始的な意志と生命が宿っている。
これは霜の巨人が己の体を分解したものなのだろう。
それがある一点に向かって集約し、まさに一つになろうとしているのだということを。            (ひょっとしたら、今まで戦った霜の巨人達は真の姿ではなかったのではないか?あの獣のような知能で、群れを成す生態は擬態に過ぎなかったのかも知れん。それがまさに今本当の姿を取り戻そうとしているのか……)
重成と勝頼は不吉な予感に打たれ、呆然と吹き荒れる氷雪が集まろうとしている遥か遠くの一点を見つめていた。

「これは……」
実の兄であり、主君であった信玄に渾身の力を込めた太刀を浴びせようしてその間合いに入った信繁の全身が凍り付いたかのよう動きが封じられた。
左手に川中島の合戦で謙信の斬撃を防いだ軍配を握り、右手で太刀の柄に手を掛けた信玄も同様であった。
「霜の巨人共が何かを為そうとしているのか」
信玄は氷雪が集まろうとしている遥か遠方を見つめ、呟いた後、その瞳を信繁に向けた。
「兄者、無念ではあるが……」
信繁はそこまで言って、口をつぐんだ。兄と弟、武田家の総大将と副将が刃を交えるのは今回はお預けのようである。
お互い一旦退いて霜の巨人に対抗する為に軍勢を立て直さなければなるまい。
悲壮な覚悟で必殺の決意を定めたにも関わらず、結局一騎打ちがうやむやになったことにこの上もない無念と同時に安堵を覚えたことを兄に絶対に悟られたくは無かった。
信玄が巌のように厳めしい表情のまま無言を貫いているのも恐らく同様なのだろう。
光の神の僕と暗黒神の僕、互いに決して相いれることはないに存在となっても、やはり本質は血のつながった武田の兄弟のままであるらしい。
そのことがこれから先の戦いにどのような影響をもたらすのだろうか。
信繁は想像も出来なかった。
「退け、信繁。安心せよ、兵共がお前に手を出すことは無い」
信繁は一瞬も迷うことなく頷き、兄に背を向けた。
兄が、かつての主君は戦において手段を一切選ばぬ非道な人物であるが、この不可解な状況で小賢しい騙し討ちをするような真似をしないことは誰よりも信繁は承知している。
やはり武田家の甲冑を纏った死者の兵達は信繁のことなど眼中に入っていない様子で主君を守るべく整然と隊列を組みなおしていた。
「……」
その様子を見てかすかに苦い物を感じながら、信繁は強引に思考を切り替えた。
「ヴァルハラから援軍が来たらしい」
百戦錬磨の信繁は戦場の兵の気を察してそう確信した。
「ひょっとしたら、その援軍に反応して霜の巨人共は異常な変化を起こしたのか?」
何も根拠は無いが、信繁はふとそう思った。
「いずれにせよ、もう私などにはこの戦がどう決着がつくのか、想像も出来ん」
それは当然信玄も同様であろう。死者の兵に己を守らせながら、遥か一点を厳しい視線で見つめる信玄を見て、信繁は抑えていたはずの感情が昂り、こらえきれずその瞳に涙がにじんだ


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