第1話

文字数 2,953文字

 雀だろうか。チュンチュンと鳴く鳥の声だけが聞こえる。

 いつもは少女たちの笑い声に溢れているこの見習い女官の棟も、今はひっそりと静まり返っている。当然だ。皆、料理の修練に出払ってしまったから。サユ一人を残して。

 昨日の朝起きると体がだるく、ふらふらして立ち上がるのが億劫だった。すぐに教育係の女官が様子を見にきて、風邪をひいたようだから休むよう言われた。それで昨日は一日中寝て過ごしていた。

 今日の朝は頭がすっきりとしていて、体を起こしても問題は無かった。それなのに、大事を取って休んでいろと、また部屋に一人で残されたのだった。

(今日は大切な日なのに)

 することもなく、ただ布団に寝転んで天井を眺めていると、嫌でも今日の修練が想像された。

 今日は冬の終わりに漬けた漬物を開ける日なのだ。

 宮中には、女官の属する部署はたくさんある。洗濯、掃除、裁縫などなど。この棟に住む見習いたちが属しているのは料理の部署だ。彼女たちは日々料理に関する知識や技術を学んでいる。

 漬物をつけたのも修練の一環だった。野菜の塩漬け(ソジャチムク)はこの国で一般的な漬物である。冬の終わりに、香辛料を混ぜた塩を塗って瓶の中にぎゅうぎゅうに詰め込み、地面に埋めて熟成させておく。野菜本来の味がまろやかさをまとい、それを香辛料の辛味がピリリと引き締めている。サユも大好きな漬物だ。

 自分の漬けた瓶はどうなっているだろうか。ちゃんとおいしい漬物になっただろうか。どんな味がするだろう。漬ける人によって漬物の味は変わる。サユが漬けたものはきっとサユだけの味がするはずだ。そう思って、この日を密かに楽しみに待っていた。

 舌の上にこれまで食べたことのある野菜の塩漬け(ソジャチムク)の味を蘇らせ、そこから自分の味を想像する。もう少し甘みがあるのか。もっと刺激が強いのか。それとも塩辛さが勝っているのか。

 今からでも修練に参加しようか。起きて走って行けばきっと間に合う。布団の上に半身を起こしてみたが、やはり立ち上がって部屋を出ていく勇気はなかった。教育係の女官の言いつけを守らなかったら、きっと仕置きがあるだろう。

 大人しく体を横たえて、何の変哲もない天井の木目を眺める。今頃仲間たちは、和気あいあいと冬に埋めた瓶を掘り出している頃だろう。


 先頭を行く教育係の女官の後を、幼い見習いたちが二列になってついていく。皆楽しげな顔をしているが、お喋りなどせず、時折すれ違う女官や役人に一礼して、行儀よく歩いていく。

 見習いの先頭を行くのは、これまでの修練や試験で一定以上の優秀な成績を収めた者だ。二列のうち一列の先頭を歩くカルマはちらっと隣を見た。

 そこには常には見慣れない顔の少女が歩んでいる。もちろん同じ見習い同士、顔も名前も知っている。ただいつもカルマの隣を歩いている少女ではないということだ。

(サユったら、こんな日に風邪をひいて休むなんて。私の漬物とサユの漬物、どちらがうまくできているか、目の前で比べたかったのに)

 この漬物の出来も評価される。今回こそは自分が一番の成績を収めるという自信がカルマにはあった。それでサユの鼻をあかしてやろうと思っていたのに、本人が病欠なんて張り合いがない。

 とはいえ、サユがいないと気分がいいのも事実だ。隣に彼女がいないだけで、自分が一番優秀な見習いになれたような気分を味わえる。

 宮中に上がってから、様々な修練で良い結果を残せるよう努力してきた。一番優秀な見習いになることがカルマの目標だった。だが一番を取るのは常にサユだった。いつも穏やかな表情で、さして必死に上を目指しているふうでもないのに、さらりと最優秀の評価をかすめ取っていくのだから、腹立たしいことこの上ない。おまけに本人は褒められても困ったように笑って、まぐれだのなんだのと謙遜するからなおさらだ。

(まぁいいわ。見てなさいよ、今回は私が一番なんだから)

 見習いたちは目的地に到着した。漆喰の壁でできた立派な漬物蔵の横の広場に、小さな瓶の口がいくつも、地面から首を出している。

「では、自分の瓶を掘り出しなさい」

 教育係の号令がかかると、見習いたちは地面に指した名札を目印に、小さな熊手で自分の瓶を掘り出した。

「カルマ、サユの瓶も掘り出してやりなさい」

「はい」

 なぜ自分がやるのかという不平はおくびにも出さず、カルマはサユの名札の下の瓶を掘り出した。瓶自体は皆同じようなものを使っているので、カルマのものと取り違えてしまわないように、教育係がそれを受け取った。

 よく土を払って、ある者は両手で包むように、ある者は抱きしめるよう瓶を持ち、もとのようにまた整列する。

 瓶を開けるのはいつも座学をする教室に帰ってからのお楽しみである。来た時よりもさらに期待に満ちた表情で少女たちは戻っていく。カルマも例外ではなく、歩きながら自分の瓶を撫でていた。

「では、瓶を開けなさい」

 教室に戻った見習いたちは、小皿と箸を用意して長机に並んで座る。一斉に蓋を取ると、酸っぱいような、つんとした香りが部屋にたちこめた。

「先に出来栄えを見るから、食べるのは待ちなさい」

 教育係が机の端から瓶を一つ一つ覗き、出来栄えに応じて書きつけに点数をつけていく。

 野菜にまんべんなく調味料を塗れていなかったり、野菜の切り方がきれいでなかったり、漬物として完成していても、減点される理由はいくつもあった。

 調味料が足りず野菜が腐ってしまっていたり、調味料をまるまる間違えていたり、入れる野菜を間違えている者もいた。食べられないものを作ったら、当然点数は得られない。

 自分の番が来て、カルマは瓶を斜めにして中をよく見せた。

「きちんとできているな。おや、白菜の他に、別の食材も入れたのか」

「はい。一口大に切った大根も入れました。大根は白菜と同じく水分の多い野菜ですので、この漬物にちょうど良いと思ったのです」

 待っていましたとばかりに答えた。ただきちんとした漬物を漬けただけでは、最優秀の評価は得られない。きちんと漬けた上で、さらに他の見習いたちには思いつかないような工夫をしなくては。

 見習いたちはカルマの工夫に興味津々で、席に座ったまま体を伸ばしてその瓶を覗こうとしたり、隣同士でどんな味がするのかと囁き合ったりした。

 教育係はカルマの漬物を一口つまむと、満足そうに頷いた。

「よくできている。食材の味と漬物の味をよく知り、調和を考えて工夫したのも素晴らしい」

 褒められてカルマは得意満面になった。

 採点が終わったので、自分の漬物を味見したり、みんなで食べ比べたりしていた。

「私にも食べさせて」

 一番評価されたカルマの元には、何人もの見習いたちが集まってきた。カルマは上機嫌で、気前よく自分の漬物を分けてやった。少女たちは漬物を口に含むと、目を見開いてその味の素晴らしさに驚いたり、目を閉じてまろやかな味をじっくりと感じたり、微笑みながら頬を上下させて食感を楽しんだりしていた。一様に、幸せそうだった。

 仲間たちはカルマの漬物の虜になっている。今度ばかりはサユに勝ったと、カルマはすまし顔の下で大喜びしていたが、それも長くは続かなかった。

「そうだ。サユの漬物も見てみよう」

 教育係が預かっていたサユの瓶を開けたのだった。
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