第2話

文字数 3,746文字

「文章を書く時はな、裸にならなあかんで。ってゆーても、ホンマに脱ぐんとちゃうで。どんな逆境も困難も体当たりで、命がけでのぞむっちゅー事や。ドーンとな、インパクトがあって、ドラマティックな感じでな。店長になると店舗運営計画っていう本部に出す書類があってな、『決意』と『処置』と『指示』の三本柱を立てて書くねんけど、僕が一番力を入れるのは『決意』。気持ち。精神。心構え。チーフの頃からそうやで。チーフの時の作文もな、僕はな、ちょっとやんちゃやったから、まあ若い頃の事をいうのは自分でも恥ずかしいねんけど、せやからここだけの話やで、ここだけにしてや、僕、命かけるって書いてん。スーパーに命かけるって。ま、今もすぐにかけるで」
 店長はそういって、木下の目の前で人差し指をクルクルと宙に動かした。
「命、書けた!」
 ナハ、ナハナハ、と、胸を張る。「ま、冗談はよし子ちゃんにして、あの頃は本気やったな。本気と書いてマジ。ほんで管理職になってんで。会社は僕という人間を選んだってわけや。もちろん書くだけと違うで。ちゃんと有言実行。認めてもらったからには会社に恩返しせなあかんしな。それが人としての筋っちゅーもんやろ。せやからもう必死のパッチ。死ぬほど働いたな」
 おかげで死ぬ気になったらなんでもできる事を身をもって知ったな、と、しみじみいう店長を見て木下は、この人は嘘つきだと思った。死ぬほど働いたのなら、死んでいなければおかしい。
 じゃあなんで店長は今、生きてるんですか? と聞きたい気持ちを抑えて、今朝、鮮魚売場で出会った老人の事を報告書にするつもりでいると木下は話した。「お客様との会話を通じて自分のモチベーションが上がった、という内容にします」
「もちべーしょんね。君、なかなかセンスええやん。粘り強さか」
「は?」
「餅みたいに粘るんやろ。ええがな、ええがな。根性、根性」
「えっと」
「老人って、リタイヤしたじじいか。ここらみたいな住宅地なんかは老人だらけやな。ま、年寄りなんかでも買い物するから生きてる意味あるわな。おじいちゃん。何買()うてくれはったん?」
「冷凍のロールいかです」
「いかか。じじい、いかすな」
「ん?」
 木下は店長が「いかすな」に「いか」をかけた事をわかったけれど聞き逃したフリをした。
「いかは、いかがかな?」
「へ?」
 今度はトボけたフリをした。
「いかだけに、いか同文」
 ははははは、と、木下は仕方なく笑った。
 イヒヒヒヒ、と、店長は満足そうだった。
 木下はこの時、つまらないギャグにもかかわらず上司が部下に笑うよう強要する事をギャグハラスメントと呼ぶ、という新しいハラスメントの定義を思いつく。
「ほんで、おじいちゃん。なんでいか買うたん?」
「奥さんが、いかを投げたんです」
「いかんやないか」
 ケケケケケ、と店長は外来種のカエルみたいに笑った。
 ギャグハラスメント、と木下は心の中でつぶやく。「奥さんにロールいかをのせてしまって、怒った奥さんが、そのいかを投げたんです」
 風邪をひいて熱を出した妻の額に冷却剤と思っておいたそれが冷凍のロールいかだったと、今朝、鮮魚売場で出会った老人が木下に聞かせたのであった。
「ひんやりして気持ちがいい、と昨日の晩の奥さんはそういったそうです。なんか生臭い、といったけれど」
 きっと冷凍庫の中の、魚か何かのにおいがうつったのね。妻はそういって冷却剤の異臭をたいして気にせず、それより夫の看病がうれしい様子だった。
 ゆうべ初めて長年連れ添った妻の看病をした、と、老人は語った。
 ところが今朝、目覚めた妻が悲鳴を上げた。顔面にのったベロンとした白いものに驚き、ひぃ、と短く叫んで払いのけたのである。
 床に落ちた正体不明の白い物体を拾い上げるとそれが妻の体温ですっかり解凍したロールいかだとわかり老人はアハハと笑った。
 いかをのせた事を謝らないどころか、おもしろそうに笑う夫に妻は腹を立てた。冷却剤とロールいかを間違えた事を責め、買い置きのいかが台無しになったとまくし立て、夫めがけていかを投げた。
 老人はいかをかわした。
 かわされたいかはベタっと壁にぶつかり、ボトッと床に落ちた。
 逃げるように家を出た老人はほとぼりがさめるまで時間を潰そうと近所を徘徊するうちにスーパー「デイリーライフ」に入った。
 陽気な電子音楽の鳴る明るい店内をトボトボと、肩を落として歩きながら、手ぶらで家に帰るのはまずいと思った老人は、お菓子売場で妻の好きそうなブルボンのチョコレート菓子をいくつか手に取りレジに並んだ。
 少し考えて、老人は列を外れた。買い置きのいかが台無しになったという妻の言葉を思い出し、ロールいかも買おう、と鮮魚売場へ向かったのである。
 そしてこの時、店内巡回中の木下が老人に目を留めたのであった。
 お菓子を抱えたまま不自由そうに片手でロールいかを取ろうとする老人に「お客様、買い物カゴをご利用ください」そういって木下がカゴを差し出すと、老人は禿げ頭に店内のLED照明をにぶく反射させ眉を八の字にしてこういった。

「嫁の(でこ)烏賊(いか)のせてもうた」

 その言葉は今も木下の耳に残り、思い出すたび頭の中でこだまする。
 木下はいった。
「店内の商品の中には、ケンカした夫婦の仲をとりもつ品もある。そのひと品のために鮮度チェックは怠りなく、陳列には丁寧さを心がけたい。妻を思いながら店舗を歩き回るご老人と出会えた事を通して、その気持ちをあらたにした、という報告書にしようと思っています」
 ヒヒヒヒヒ、と、店長は脇腹を掻きながら下品な笑い方をした。
「アホやな、アホなじいちゃんやな。おもろいわ。おもろいで、おもろいけどな、それ、作文にはあかん」
「え、どうしてですか?」
「いか、

やろ」
 食べ物を

、いかを投げて食べ物を粗末にする話やから、それはウチ、NGよ、と店長はいう。
「ゲロゲロ。君、若いから知らんのか。ウチな、バブリーな頃にプロ野球球団持っててな、優勝した事があって、野球ってさ、優勝したらビールかけするやん。せやけどウチ、ビールは店で売ってる商品や。食料品扱う店が飲み物をアレするのはどないやねんって話になって、アジャパー」
 店長からそう聞かされた木下も、いつだったか、インターネットの何かのページで見た古い情報を思い出した。
 球団の発表に、せっかく優勝したのにビールかけがないのはおかしい、選手が気の毒だといった抗議の電話が本社にも店舗にも殺到して結局、炭酸水の代用品でビールかけもどきをしたのであった。
 店長はいった。
「ウチで買い物するのはええで。せやけどいか

人がお客さんになってるやんか。食べ物を粗末にしたおかげでウチの商品が売れた話やから、それは間違(まち)ごうてる。人として正しくないやろ」
 正しくない、という言葉に木下はムットした。どの口がいう。じゃあアルバイトに濡れ衣を着せて保身に走る店長は人としてどうなんだ。
「あの、先月受けた本部の研修では、お客様ファーストといって……」
 木下は先月の、来店客の意見に耳を傾ける事の重要性を説いた研修を思い出して店長に反論を試みた。「お客様ファースト」が「都民ファースト」の二番煎じみたいで、それを思うと気後れしそうになるが、それよりも怒りが勝った。妻を思う老人を正しくないといったり、その老人に寄り添う自分を否定されて、ともかく店長にいい返したかった。人の尊厳にかかわる事じゃないのか、とも思う。何より接客業として客を馬鹿にする店長は間違っている。
「お客様ファーストってな」
 と息巻く木下を店長が遮った。「都民ファーストの二番煎じやがな。都民ファーストの前にアメリカンファーストがあったな。いや待て、アメリカンファーストのほかにもアスリートファーストっていうのもあったやろ」
 そうなると「お客様ファースト」は、と指折り数える店長が「四番煎じや! でがらしや!」といってゲラゲラ笑った。
 木下は肩を落とした。店長に説き伏せられたからではない。お客様ファーストと聞いて都民ファースと連想する店長と自分がシンクロしたみたいでショックを受けたのである。
 ひどく落ち込んだ木下を尻目に店長は続けた。
「君な、真面目なんはええけど、自分の思いや考えは後回しにするもんやで。まず人が求めている事を知る。知ったらそれに自分を合わせる。人として、組織とか社会とかに必要とされるようにならんとあかんで」
 な、と、人懐っこい笑顔の店長が気持ち悪くて、けれども木下はしぶしぶ頷いた。
 本部の研修は建前や、と、店長はなおも続けた。
「会社かて、世間や社会に必要とされなもたへんもん。せやからああいう研修みたいな、カタチだけの事があるねん。そういうもんやで。だいたい役立たへん事のほうが多いやろ」
 実際、これまで役に立つ事あったか? 店長にそういわれて木下は答えられなかった。代わりに監査に通るための書類作りのやり方や、口裏合わせの仕方を身につけてきた事を思った。自分もすでに建前を守っているんだ。
「ほな、エラーの修正のアレ、よろしこ」
 店長はソファーから立ち上がり、部屋を出ようとしてくるりと振り返った。
「いかはいかん」

(つづく、次回最終話)
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