第3話

文字数 4,554文字

 応接ルームにコツコツと、紙にペンを走らせる音が響いている。
 段ボールやプラスチックコンテナを積んだ殺風景な空間で書類に文字を書く少年は、薄暗い小部屋に置かれた一輪の花であった。
 ソファの向かい側に座った木下は口を半開きにして、彼の美しさにポーッとした。
 二重まぶたの涼やかな目、太すぎず、細すぎない優美な眉、すっと引き締まった鼻筋と象牙のような頬の白い肌、雨上がりの花のような濡れた唇。
 シャツの襟からのぞいた鎖骨のくぼみと長くて白い首筋は大理石の彫刻のような美しさだ。もし彼の体に接近する事ができたらいったいどんな匂いがするのだろう。木下は、孤高の彫刻家が作り出す艶めかしい曲線美の肌触りを想像して下半身がソワソワした。
(いやいやいや) 
 小さく咳払いをして、ソファーに座り直し背筋をのばした。余計な想像を頭から打ち払い、テーブルの端においた書類にそっと手を触れる。木下は、自分がこれからやる事に集中した。
 ちょうど先週本部から、「未成年への酒類・たばこの販売防止の研修」を全従業員に実施するよう通達があり、それを口実にレジの各務君を応接ルームに呼び出した。
 研修といっても「未成年には酒やたばこを売らない」、「未成年と思われる客が酒やたばこを買おうとしたら年齢を確認する」といった宣誓文みたいな事を書くだけで、あらかじめ本部が用意した文例があり、それを所定用紙に書き写すのである。
 この形だけの研修を、店長のアイデアで不正工作に利用する事になった。
「研修と同じ要領にしてな、データの修正依頼書も書き写すようにしておけば、カクム君は疑わへんまま書いてくれるはずや」
 それで勤務データのエラーはアルバイトのミスになる、と店長は得意そうにいった。
 木下は店長にいわれるまま依頼書の見本を作った。謝罪の文言を入れた文を手で書いた。最初はパソコンで作ろうとしたが、パソコンなら保存しなくても何か痕跡が残るのではないかと用心して手書きにしたのである。
 誓約書を書く各務君は目に豊かな睫を並べていた。その一本一本が、神経の行き届いた繊細な曲線だった。テーブルの上にはペンを握る節の目立たない細くて白い指と、シミ一つない美しい手の甲を見せている。
 そういえばいつだったか、レジのおばさんたちが「今日は王子の日や!」といって、キャーキャー騒いでいた事を木下は思い出した。
「今日は目が幸せ」
「やった、あたしサビカン、ロケーションばっちし」
「え、カガミの王子、来るん?」
「ほら、今日のシフト、“○”やろ」
「シフトよぉ見えへんねん、あんた見て」
「あたしも老眼きてんねん」
「シフトは小さ過ぎて読めない! ハズキルーペいるっちゅーねん」
「椅子の上に置いて座ったろか」
「ぺしゃんこにしたるわ、メードインジャパン!」
「あんなんお尻の小さい女優さんやから大丈夫なんやろ」
「せやわ、人の尻見て我が尻思うわ」
「あはははは」
「ははははは」
 おばさんたちのアイドル「カガミの王子」とは各務君の事であったか、と木下は思った。
 各務君はテーブルに伏せるように前屈みになり、横に置いた記入例をチラリと見てペンを走らせていた。
 チラリ、チラリ、と、横に視線を向ける仕草が色っぽくて、同じ仕草で自分が見つめられたらと考えただけで木下はドキドキする。
 高鳴る動悸が相手に聞こえてしまうのではないかとそっと胸に手を当てた。木下の意に反して彼の体は熱を帯び、じわりじわりと汗をにじませるのである。
 男を前に上がっている自分が恥ずかしい。
 だが木下にとって、この高揚した気分は決して悪くなかった。楽しいとか、うれしいとかに類似する明るく軽やかで、空を飛ぶような喜びの感覚であった。
「あの」
「あ、はい」
 各務君の麗しい容貌を正視した瞬間、鼻先に甘い芳香が触れた気がした。黒目がちな瞳を上目使いにこちらへ向けた美少年が微笑んだようにも見えた。木下は、口の中に溜まった唾液をゴクリとのみ込んだ。
「この、氏名の横の番号のところには、従業員番号を書けばいいんですね?」
「あ、はい」
「ここの、研修実施日の欄は、今日の日付ですね?」
「あ、はい。そうです」
 各務君は柔らかく頷くと、再びテーブルの上の紙にペンを走らせた。
 声も言葉遣いも顔の美しさに相応しく、おだやかで優雅だ。己のケツのデカさを自虐ネタにして人の尻見て我が尻思うなどとのたまいゲラゲラ笑うおばさんたちとは人間が違う。
 神々しいくらいの各務君の美貌にクラクラした木下の頭にはある不安がよぎった。それはほかならぬ彼に課せられた不正工作の事だ。もし不審に思った各務君が依頼書を拒否したらどうしよう……。
 そもそも勤務データのエラーは勤務管理を担当する副店長の入力ミスが原因であって、各務君のせいではない。
 各務君にエラーの修正依頼書を書かせるのは彼のミスをでっち上げて、副店長のミスをもみ消すためである。つまりは社員の責任逃れだ。
 管理職が保身のためにアルバイトに濡れ衣を着せるわけで、そうを思うと今さらながら木下は情けなくなった。
 いいだしたのは店長で、すべてが自分の意思ではない、と言い訳は立つにせよ自分がこんな卑怯な事をする組織の一員である事も恥ずかしい。事実を知れば目の前の美少年はきっと軽蔑するに違いない。ああ、各務君に嫌われたくない。
 自分はなんてみっともない大人になってしまったんだ、と木下は思った。いっその事この悪事を明るみ出してしまおうかとも考えたけれど、所帯を持つ彼にそんなリスクは背負えず、また勇気もなかった。上司から持ちかけられた不正工作をやらないという選択肢ははじめからないのである。
 もし各務君が依頼書を拒否して工作に失敗したら、店長が自分に制裁を加える事が木下にはわかっていた。店長とソリの合わないデリカの主任が飛ばされたとか、副店長に反抗的な鮮魚の課長が降格したとかいう管理職の私的制裁の噂話は枚挙にいとまがない。
 下手を打つと左遷、と最悪の事態を考えた木下は己を鼓舞しようと想像を膨らませた。イメージトレーニングだ。各務君に断られた場合をシュミレーションしよう。
「これはなんですか?」各務君は依頼書の例文を一読すると美しい眉を不安げにひそめていった。それを書けばいいんです、簡単な事でしょう、と俺はテーブルの上の書類を軽く指で叩く。「どうして僕が謝らないといけないんですか?」身に覚えのないミスの謝罪文に少年は身の潔白を訴えるだろう。ま、ま、そう感情的にならないで、ここは一つ、大人の対応という事でね。すると各務君は陶器のような滑らかな肌の頬を硬化させ、不信感をあらわにしたように押し黙るが、しばらくすると意を決したようにソファーから立ち上がりスラリとした長身の体を見せた。「やっぱりおかしいです、失礼します」彼は凜とした表情で俺を睨み、黒目がちな瞳は心持ち潤んでいるのだった。「木下チーフがこんな人だと思っていませんでした」捨て台詞を吐き、部屋を出ようとする彼はいっぱしの娼婦みたいな啖呵を切るだろう。そこで俺は少年の白くて華奢な手首をつかんで体ごと壁に押しつける。「何をするんです!」女のような悲鳴を上げる美少年を羽交い締めにする。はじめのうちは抵抗するものの次第に麻酔を打たれた小動物のように少年は体からくなくなと力を失うのであった。そして俺は弾力のある少年の尻に股間を押しつけながら手は下半身を這わせ彼の逸物を鷲掴みにする。瞬間、ピクリと少年は体を震わせ、「い、いやだ」と拒否する言葉とは裏腹に彼のそれは熱と硬さを示して俺の手に揉みしごかれるとやがて恐怖の声は喜悦の声音に変わり食いしばった歯から快楽の吐息を漏らすのである。少年はふいに振り返り「これは二人だけの秘密にして下さい」と上目遣いに懇願して椿の花びらのようなふっくらとした唇で唇をせがむのであった。涙をにじませた瞳を薄く閉じ、ギリシア神話の美少年を思わせる麗しい顔はやがて恍惚の表情を見せ、ついには何もかも受け入れようと……。
「あの、そちらの書類もですか?」
「へ?」
 各務君の声で木下は我に返った。……あ、はい、と手の甲で額の汗をぬぐい、各務君に書類を見せる。
「えっと、あのですね、えーっと、この文書は謝罪文、じゃなくて、依頼書ですね。データの修正依頼書です。データの修正依頼書とは、データの、修正の、依頼書になりまして、決してあやしいものではありません」
「あ、あれですか」
 各務君は木下の手からスルリと見本を取り、「これも、こっちの紙に、この通りに書くんですね」そういってサクサクと依頼書を書き始めた。
 木下は呆気にとられた。頭の中で予行演習してたのに。
「今回は、見本があるんですね」
 書きやすいです、といって各務君はニコリとした。「きれいな字ですね。木下チーフの手書きですか?」
 うん、と木下はおつかいに来た子どもみたいに頷いた。良かった、各務君のために作っておいて。
 各務君に誉められた木下は天にも昇るような気持ちだった。さっきまでの緊張も解けた。
 ホッとした、と同時にハッとした。「今回は」という各務君の言葉に驚いたのだ。もしや、と思い木下は尋ねる。「あの、今回は、というと、前もこれ、書いたんですか?」
「はい。前も書いた事があります。前といっても、ずいぶん前ですよ。入ってすぐの頃だから、一年くらい前だったかな。確かその時は店長さんだったと思います。『カクム君、書いてちょんまげ』って、頼まれて」
(あのギャグハラ店長め!)
 この時の木下の怒りを分類すると、主に次の四つになる。
 ①店長が各務君に謝罪文を書かせたのはこれが初めてではなかった事。②店長が一年以上前から各務君の名前を呼び間違っている事。③店長が自分より先に各務君と会話した事。④店長が各務君に死語を聞かせた事。
「すいませんでした!」
 木下は深々と頭を下げた。
 いえいえ、そんな、と各務君は華奢な両手を口元に当ててオロオロした。
 頭を上げて下さい、と各務君にいわれても木下は頭を上げられなかった。俺は最低だ。人としてやってはいけない事をしてるんだ。そんな俺を許さないで欲しい。責めてくれ。どうか責めてくれ。叱られ、なじられ、罵られるくらいがいい。さあ俺をぶってくれ。木下の股間はすっかりムレていた。
「あの、そうされると、ちょっといいにくいんですけど」
 と、各務君が遠慮がちにいう。
 何か頼み事があるような口ぶりに、「はい。どうぞ」と木下は顔を上げて身を乗り出した。「どうぞ、いって下さい。もうなんでも、どんな事でもいって下さい」
 何をいわれても何をされてもいい。各務君のすべてを受け入れる覚悟をしたが、
「あの、僕、今月いっぱいで辞めさせていただきたいんです」
 各務君がそういって木下は一瞬、かたまった。今月いっぱいで、各務君と会えなくなるじゃないか。
「ああ、しゅ、就職活動ですか?」
 上ずった木下の声に、はい、そうです、と各務君は頷いた。へなへなと、力の抜けた木下の目に映った美少年の微笑みが悲しいくらいに美しい。
「ははははは」
 ああ、もう泣きたい。
 けれど木下は笑った。
 愛しい人の微笑みを一秒でも長く見幸せな気持ちで見つめようとして。

(了)
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