第1話

文字数 3,092文字

 木下悟史は、デリートキーを押そうとして手を止めた。
 誤って打った文字列が、うまく書けた文に見えて、とても間違いに思えない。
 彼が凝視するパソコンのディスプレイにはカラフルな付せんがペタペタと貼ってあって、画面には、入力モードをカタカナのまま打ってしまった文を表示している。

 ヨメノデコニイカノセテモウタ
 
 ポエムっぽい。画面を見つめたまま木下は口ずさんだ。雨ニモマケズ、風ニモマケズ、ヨメノデコニイカノセテモウタ。
 国道沿いのスーパー「デイリーライフ」のバックヤードは静かだった。木下が、椅子の背にもたれながら両手を挙げてのけぞるとデスクの上の固定電話が鳴った。
 午後四時の、クリーンタイムの音楽が流れた後で、従業員のほとんどは売場に出ており、バックヤードの事務室には彼だけが残されていた。
 2コール目で受話器を上げた電話は夕方のアルバイトの女子学生からだった。
 木下は、メモを引き寄せ肉付きのいい手にペンを握った。
 丸っこい、着ぐるみみたいな木下の体は皮下脂肪と中性脂肪を蓄えている。かがんだ時につっかえるお腹を、会社支給のエプロンで覆うと妊婦のようで、売場のショーケースのガラスに映るシルエットに本人もギョッとする事があった。学生時代にはリフティングで鍛えた6ブロックの腹筋があった、といってもにわかには信じられない。この頃では前頭部の薄毛が気になり、家では妻と子どもに額が広くなったとからかわれていた。
 電話の女子学生は今日の五時から入る予定のアルバイトを休むと連絡してきた。
 事務室の壁時計を見て木下は舌打ちしたくなった。四十分前に連絡してもしゃーないやんけ、と、嫌味の一つでもいいたい思いを抑えて手元でペンをクルクル回しながら、フルネームと従業員番号を尋ねた。
 名前を聞いたところで相手の顔はわからない。アルバイトとパートは早朝、午前、午後、夜間の単位で入れ替わり、全部の売場を合わせると五十人近くが在籍する。ひと月前にこの店舗に着任したばかりの木下がすべての従業員の名前をまだ憶えていなくても当然だけれど、彼自身も憶えるつもりがなかった。
「お電話ありがとうございました」
 後日、欠勤届を出すようお願いをして、木下は電話を切った。アルバイトやパートには下手(したて)に出て敬語を使い、距離を置いて接するよう心がけていた。SNSの風評被害を恐れた会社が非正規雇用者をいたずらに叱責してはならないという妙な通達を出した事もあるけれど、それでなくても何を考えているのかわからないこの頃の若者とはなるべく関わらないほうが無難だった。
 それに向こうはそのうち辞めるし、こちらも三年くらいで異動する。お互い、そう遠くないうちに会わなくなる他人同士だ。省ける人間関係を省いておくほうが面倒も避けられて合理的である。
 木下は、大きめの付せんにアルバイトの欠勤をメモすると、ディスプレイの端にそれを貼り、画面に向き直ってさっきの文を打ち直した。

 嫁の(でこ)に烏賊のせてもうた

 こないだ覚えたばかりの、ワードの、文字にルビを振る操作をして、「額」という字に「でこ」というふりがなをつけると何かの小説で読んだ台詞のように見えた。
 そういえば高校生の時、どういうわけか国語の偏差値だけは人より高かった事を木下は思い出した。自分にはやはり文才があるのかもしれない。いっそ時代小説でも書いて新人賞に応募してみるか。嫁の額に烏賊のせにけり候。
「ちょっといいかな、木下チーフ」
と、事務所に戻ってきた店長がいった。
 木下は書きかけの文書を上書き保存すると席を立ち、手招きする店長と一緒に事務所奥の応接ルームへ入った。
 応接ルームは四畳半くらいの窓のない小部屋で、真ん中に四人がけの合皮のソファーセットがあり、四方の壁には段ボールやプラスチックコンテナなどが乱雑に積んである。
「デイリーライフ」にはどういうわけか、これと似た狭くて暗い空間がどの店舗にもあって、人に聞かれたくない話をするのにちょうどいい具合になっていた。この時も、ある工作の指示をするために店長が木下をここへ招き入れたのであった。
 テーブルに書類を広げた店長は、この店舗のアルバイトの勤務データに二十日間連続した「欠勤」が並び、本部の監査にエラーと判断された、と説明した。
 原因は単純な事で、副店長の入力ミスだ。副店長が、勤怠管理システムに元々シフトになかった日を誤って勤務日と入力してしまい、「公休」と表示されるはずのところに「欠勤」が並んだのである。
 そこでアルバイトが〆日に自分の勤務データの誤りを見落とし、本人が申し出なかったためエラーが発生した事にしたい。つまりアルバイトの責任にして副店長のミスではない事にする、と店長はいう。
「それでな、アルバイトのカクム君がやね、エラーの修正依頼書を書くねん。文面にはな、カクム君に『すいませんでした』とか、『以後、気をつけます』とか、謝ってる感じの事を書いてもらう。それでバッチグー。僕たちのミスにはならへんから」
 副店長に悪気はなかったわけやしな、と、部下を庇うようないい方をした店長だが、これが店長のための工作である事を木下はわかっていた。
「デイリーライフ」には懲罰制度があって、副店長のミスをこのままにしておくと、部下のミスを見落とした店長にもペナルティが課せられるのである。
「上手にやってちょんまげ」
 店長はニタッと笑った。
 木下は鳥肌が立った。死語を聞かされた事にもゾッとしたけれど、もしもの時、店長がすべてを自分に被せるつもりでいる事が察せられたのだ。
 だがこの手の不正工作は珍しくなく、木下もこれが初めてではない。
 目標に達成しない資源回収率や食品廃棄率の数値を改ざんするのは一人ではできず、必ず複数人が連携、協力する。スーパーに課せられる物流と小売りの規制をチームワークで乗り切るのが「デイリーライフ」の文化だった。厳しい監査をクリアしたら仲間意識が芽生え、危ない橋を渡る事に成功したら武勇伝が生まれる。実地のキャリアを積むうちに不正は組織と仲間を守るための必要悪という感覚になり、次第に罪の意識も薄くなった。
 今の店長にも悪事をする意識がない。「僕たちのミスにはならへんから」といって、全体の利のためなら平気でアルバイト一人を犠牲にできた。木下に工作を指示したのも、可愛い部下に「デイリーライフ」社員として箔をつけさせようという親心からである。
「ちなみにね、レジのカクム君はね、今、大学三年生やねん。そのうち就活に入るし、じきに辞めるで。な、な。余裕のよっちゃんやろ」
 店長のいいたい事は、相手はもうすぐ辞める学生アルバイトであるからバレない、という事である。
「だいじょうV!」
 店長は堂々とVサインをした。
 レジのカクム君、と聞かされても誰の事だかわからない。木下は苦く笑った。非正規雇用者と人間関係を作らないようにしておくと、こういう時に罪悪感を持たなくて済む、と思う。
 店長はいった。
「カクム君の勤務データと、修正依頼書のひな型と、書類一式ね。レジは人数多いからくれぐれも間違わへんように。カクム君ね、カクムユウタ君」
 店長から受け取った書類には、「各務」という苗字に「カガミ」とフリガナが打ってあった。それでも店長は読み方を間違えている。こいつアホか、と、心の中で店長を馬鹿にしたら、木下は胸がスッとした。
「ところで作文はどう?」
 と店長は話を変えた。
「デイリーライフ」では各店舗のチーフが半期に一度、本部へ提出する報告書があり、管理職はそれを“作文”と呼んでいた。

(つづく)
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