第15話 篠宝崎の自慢とその今後

文字数 2,681文字

「明日の夜、オペラハウスの一番大きいホール、コンサートホールで日本人バイオリニストとシドニー交響楽団のコンサートがあるそうです。お席はかなり後ろの方になりますが、チケットは何枚か取れるそうです。興味のある方はいらっしゃいますか?」
よしこサンは、かつてチャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門で最年少第一位になった有名女性のバイオリニストの名前を挙げてツアー客に興味があるかどうかを尋ねた。
日本人バイオリニストと聞いて興味がわいたのか、半数くらいの夫婦が手を上げたので、よしこサンはしばらくボックスオフィスのスタッフと客たちとの通訳作業に追われた。

その間コンサートに興味がない他の客たちには十五分の自由時間を与えられたので、篠宝崎夫婦と森本夫婦は周囲をぶらぶらと歩きだした。
「喉が渇きましたね。シドニーが真夏であることはもちろん知っていましたが、日本の夏とは随分違いますね」
「本当に暑いですね。温度の割には乾燥しているせいか不愉快さは少ないですけど、立っているだけで体から水分がどんどんと吸い取られていくような感じがしますね」
森本氏は、日本から持参したらしい社名の入った扇子を顔の前でぱたぱたと振り回しながらそう返事した。

「扇子とはいいですねぇ。僕も持って来ればよかった」
「でしょう。こんなものでもあると違いますよ。どうぞ」
森本氏は扇子を閉じると篠宝崎へ差し出した。
「いや、大丈夫です。せっかく持って来られたんですから、ご自分でお使いください」
そう言ってから、「どうです。飲み物でも買いに行きませんか」と森本氏を誘った。
二人でゆっくりと歩き出すと、森本さんの奥さんが言った。
「どこへ行くの?」
「ちょっと飲み物でも探してくるよ。何がいい?」
「そう?じゃあオレンジジュース買って来て。私達はここで待ちます。篠宝崎さんは何になさる?」
恵は、「私は水・・」と答えた。

篠宝崎は少しうなずくと鼻をフンと鳴らし、森本さんと歩き出しながら言った。
「私は昔駐在でシンガポールに住んでいたことがありますが、日本語というものはおもしろいものだ、とよく思いました」
「あぁ篠宝崎さんは英語が話せるんですか。それはいいですね」
「ハハ、それほど上手ではありませんがね」
そう言ってからまたしても鼻をフンと鳴らした。
「先ほど妻が言った、私は水、という言葉ですが、日本語は動詞がなくても言葉が通じますよね。直訳すれば、I am water.になってしまう。 正しくは、I want a bottle of water. 私は水が欲しい、 と言わなくてはいけないのに動詞がなくても日本語は相手に通じます。日本語には意思表示を現す動詞を省く習慣がありますね。その方が控え目に聞こえるからでしょうか。だから動詞を省略する習慣のない外人は意思がはっきりして聞こえるんでしょうね」
「ほほう、勉強になりますね。私は外人と面と向かって話が出来るほど英語が上手でないので、外人が意思表示がはっきりしているかどうかも良く分かりませんが」
「はっはっは。これはちょっとウンチクをしてしまいましたな。失礼しました。
退職後は英語を使う機会もないし、かと言って英語力が落ちてはもったいないから英会話教室に通わなくては、と思っているんですよ」
篠宝崎は心にもないことを言ったが、自分の言葉にそうか、それもいいな、とふと思った。

「もっとも動詞なんぞ使わなくても、ウチには十分うるさいのがいますけどね」
森本氏は苦笑いしながら言葉を続けた。
「篠宝崎さんの奥さんは静かな方ですねぇ。羨ましい」
「あ、アハハそうですね。静かっていうか、何も言わないというか。話し相手にもなりませんが」
「いえいえ、いいじゃないですか。ウチのと足して二で割ればちょうどいいんではないですか」
「そうですね、ワハハ」と篠宝崎はそう言ったものの、足したり割ったりは必要ない、恵のいいところはあの無口な性格なのだから、と内心考えていた。
実は先程から森本氏の奥さんの物言いにはうんざりしていたのだ。

オペラハウスの地下に降りると簡単な売店があった。
「私は英語はさっぱりダメなんですよ。篠宝崎さん、ご自慢の英語力でお願いしますよ」森本氏がそう言った。
篠宝崎は鼻をフンと鳴らして言った。
「別に自慢でもなんでもないですよ。大したことはないです。仕事で必要だっただけですし、シンガポールは何せ訛りの強い独特の英語を話す国でシングリッシュと呼ばれているくらいですからね。英語力を磨くのには最適な国ではなかったかもしれません」
「ほう、シングリッシュ。そんなに違うものですか」
「えぇ、オーストラリアもオージーイングリッシュと呼ばれていてアメリカ英語などともだいぶ違うようですよ」
そうですか」

篠宝崎は意気揚々とカウンターに進んだ。
「何にいたしましょうか?」
日本語が聞こえて不思議に思ってカウンターの中を見ると日本人女性であった。
「あれ?」
「こんにちは。日本人でいらっしゃいますよね?」
「あ、なんだ日本人ですか。ここに永住している方なんですか?」
すると二十代後半くらいの年に見えるその女性は、自分はワーキングホリデーのシステムを使ってシドニーに来ているのだと説明した。
「へぇ、いいですね。若いうちはいろいろ経験するのがいいと思いますよ。生きた英語が学べるじゃないですか。私なんて仕事で必要だったから仕方なく四十代から始めた英会話レッスンだから本当に苦労したんですよ」
「あら、お仕事で英語を使っていたんですか。じゃあきっと私よりもずっとお上手ですよ」
「いやぁ、僕なんて全然話せないからお二人が羨ましい」
若い日本人女性を見つけたので、森本氏はぐいぐいと話に割り込んできた。
篠宝崎は少しむっとしたが自分もまた会話に割り込みなおし、おじさん二人はしばらく我も我もと言葉を挟み込みあった。後ろに別の客が来て嫌な顔で待っているのに気付いたが無視し、その客がこれ見よがしに舌打ちするまで思う存分若い女性との話を楽しんだ。
こういう時に面の皮が厚いのは本当に役に立つ。

飲み物を持って元の場所に戻るため歩き出した時、森本氏はぼそりと言った。
「退職すると若い女性と話をする機会もなくなりますよねぇ」
「本当にそうですねぇ」
「新入女子社員の品定めもこれからは出来ませんねぇ」
「ええ・・・」
「もう会社の金で飲みに行く機会もないし」
「そうですよねぇ」
二人はとぼとぼと歩き出した。

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