第3話 恵の心の声

文字数 5,949文字

うわぁ、バスの中は見渡す限りおじさんとおばさんばっかり。
自分も立派なオバさんだから人のことは言えないが、せっかくシドニーまで来ておきながら、バスの中にこんな大勢の同年代の日本人とみっちりと詰め込まれるなんて気が重くなるわぁ。おまけにバスガイドまでがオバさんときてる。しかも何なの、この人。ものすごく変。
もっとも私も人のことなんて言えないかもしれないけど、もう少しマシなガイドはいなかったのかしら。
あーあ、これからあまり楽しくなさそう。わざわざ高いお金をツアー会社に支払ってオーストラリアまで来たのに、これから数日間こんな人達とずっと行動をともにするのかぁ。

恵は空港に着いてゲートを出た時、自分の参加するツアー名の書いた小さな看板を持ったよしこサンの姿を見て実は心底がっかりしたのだった。
バスの中でマイクを持ち観光案内を始めたよしこサンの顔を、恵は恨めしそうに眺めた。
若い子好きは、決しておじさんだけの現象ではないのだ。おばさんも男女を問わず若くて綺麗な人を見るのが大好きだ。若い人々の、世間知らずの行動や返答に眉をひそめるのは自分が五十歳になるまでだっただろうか。その年齢を過ぎた頃から、若さ特有の無知やうぬぼれを見ても可愛らしいと思うようになった。

専業主婦でスーパーに買い物に行く以外の外出をほとんどしない恵は、新しい人との出会いの機会もあまりない。
だからこそ恵はシドニーのガイドにとても期待していた。英語をペラペラに話す颯爽とした美人、もしくはハンサムなガイドがシドニーで自分を待っていて、ガイドはシドニー観光をしている間、自分につききりになってくれるのだと想像していた。
心に描いていた理想のガイドは決してよしこサンのような人ではなかった。
はぁ、と夫に気付かれぬよう恵は喉の奥で飲み込むようにして軽いため息をついた。

先程から夫が何度も外の景色を眺めようとして窓際に顔を近づけるようにしてくるのが煩わしい。
「今日は一日暑くなりそうだなぁ」
独り言なのか、恵に話しかけているのか分からない口調で、しかもにやにやしながら夫がそう呟いていた。
恵は又しても軽くため息をつきながら、あぁ、また鼻をフンフン鳴らしてる、暑くなることの何がそんなに嬉しいのだろう、と思いながら座席で一人身体を固くしていた。

恵は、四十年近くの専業主婦の結婚生活の間に生来の無口に拍車がかかり、最近では以前よりも言葉が口から出るのに時間がかかるようになった。口が重くなった代わりに心の中の独り言だけは日に日に饒舌になっているのは不思議ではあったが、いざ心の想いを言葉にしようとすると、口からは何一つまともな言葉は出て来ないのであった。

恵さんに話しかけてもあの人はよく無視をするのよ、と陰口をたたかれたことも一度や二度ではない。恵自身は人を無視するような失礼なことが決してできない性格だが、自分の気持ちを言葉しようと考えている間に、どうやら返事のタイミングを逃すらしく、結果として恵の意志に反して人を無視しているように見えるらしい。
恵はそれに気付いてからはますます人付き合いが苦手になった。それは長年一緒に暮らしてきた夫ですら例外ではなく、恵の反応の悪さに夫が気分を害しているように見えることが今までに何度もあった。だから夫がこれほど近距離で座って、隣からいつ自分に話しかけてくるかと思うと、恵は全然落ち着くことが出来なかった。

思えば事の始まりは、一か月間前に珍しく隼人が幼い子供達を連れず突然実家を訪れた日の夜であった。
未だに両親と同居している二歳違いの姉の真紀と違って、隼人はとうに結婚して子供が三人いる。普段は仕事と子育てにと忙しくしている隼人がその夜ふらりと、「近くに来たから」と言って玄関から入って来た。
「珍しい・・・」
恵はそう言ったが、息子の突然の訪問が嬉しかった。夫のために焼き鳥にするつもりでニンニク醤油に付け込んであったチキンを、献立を変えて隼人の好きな唐揚げにするためにいそいそと準備を始めた。
するとほどなく、外資系の会社でプロジェクトマネージャーとかいう名前の職にある真紀が、いつもは終電間近になるまで帰宅しないのに、ひょっこりと帰宅した。
「・・・珍しい」
恵はやや恨めし気に言った。珍しく隼人が一人で実家を訪ねているのだから、口うるさい真紀はいない方がよかったのに、と思ったのだがそれは言葉にしなかった。
「お母さん、私が帰ったからって残念そうな顔しないでよ」
真紀はけろりとして恵にそう言い、隼人のいるダイニングテーブルへ行った。
だがあとで思い返すと、三人の間でその夜の会話の打ち合わせはあらかじめ済んでいたのだろう。
「恵、二人で海外旅行にでも行こうか」
先月とうとう定年退職した夫は、唐揚げには手を付けず、冷ややっこでビールを飲みながら突然そう言った。
恵は驚いた。今まで夫婦二人きりの旅行などしたことがなかったである。
「・・・旅行?」
とんでもない、と思い、恵はすかさずいつものように目線だけで抗議した。
恵は自分の感情を言葉にするのが得意ではないが、中でも反論するのが一番苦手であった。しかし元来自分の意志ははっきりしている方なので余計に困るのである。
恵は「イヤダ目線攻撃」を出動させることに決めた。
攻撃も何も、それは相手を十五度斜め上の角度に見据え見るために顎を引く。そうすれば普段よりも眼つきが悪くなるので不機嫌そうに見える、実はただそれだけのことであった。
だが意思表示の得意でない恵にはなかなか便利な方法で、話相手がその恵の表情に気付きさえすれば普通は、「あ、もしかして嫌?」と聞いてくれる。そうすれば恵はあとは少しうなずくだけでよかった。
恵は攻撃ナンバーワンで攻めてみた。もちろんナンバーツーもナンバースリーもある。もっとも顎の角度を変えると目線が強くなるだけ、という実にチャチな方法だが。

恵はナンバーワンで十分、と思った。退職後は年金と貯金の切り崩しの生活になるのに、海外旅行などするはずがない。これはただの夫のリップサービスか、もしくは子供達の前のパフォーマンスの一種にすぎないのだろう、と思ったのである。
だがその夫の言葉をすかさず真紀も隼人もすくいとるように後押しして、あれよアレヨと思っている間に話はぐいぐい進みだした。
「それはいい案ね。だってこれからはもっと夫婦二人の時間を楽しむべきだもの」
長女の真紀が芝居がかった口調でそう言うと、弟の隼人も真紀の隣で強くうなずいた。「お父さんとの二人きりの生活が始まって、夫婦二人の時間は十分過ごしている、とお母さんは思っているかもしれないけど、僕は、本当の夫婦の時間とは二人で外に出かけることだと思うんだ」
恵はその子供達の言葉から、熟年離婚でもされたらこっちが迷惑だから仲良くしてくれ、と言われているような気がしたが、それはただの僻みかもしれない。
恵は慌てて前代未聞のナンバースリーまで発動したが、「旅先はどこがいいのかナ」、と夫は子供達にやや媚びるように聞き、三人の間でどんどんと話は進み始め、もはや誰も恵の攻撃に気付く人はいなかった。

真紀はその翌朝、出社前にキッチンでパンをかじりながら恵にこう言った。
「私も旅先にオーストラリアはいいと思うわ。私も佳代ちゃんと行ったけど、シドニーもゴールドコーストも素晴らしかった。でもツアーに参加した方がいいわよ。そうしないとまたお父さんのことだから、働いていた会社のシドニー事務所に訪ねて菓子折りの一つも届けたほうがいいかな、とか言い出すわよ。退職したんだから、もういいんだってのにお父さんならやりかねないでしょう?」
親しい友人とオーストラリアに二年前に訪れたことのある真紀はそう言った。
恵は、真紀の言った「それをやりかねないお父さん」の部分に同意するため少しうなずいた。それから改めて旅行には行きたくないという自分の意志を伝えようとしたのだが、したり顔で話を続ける真紀にそれは遮られた。
「予定が始めから組んであるパッケージツアーなら、観光スポットを短時間で効率よく見れるし、自由時間も限られているから、お父さんの下らない用事に付き合わされなくても済むしいいんじゃない。私がツアーを探してあげるわ」
誰に似たのか、人の百倍も口が達者かと思うような真紀が恵に言ったことは間違っていない、恵はそう思い力なくうなずいた。だが自分は旅行そのものに行きたくないのだ。真紀にもそれは言っておかなければ、と思い口を開こうとした。
「あら大変、会社に遅れる」
真紀はそう言うとキッチンから大きな足音を立てて出て行った。
「・・でも・・旅行なんて・・・」
ようやく口から出た恵の言葉は、キッチンの中で話し相手を失ったままむなしく響いた。

恵が次に旅行の話を聞いたのは、夫が旅行会社に支払いを済ませた日の夜であった。
「恵はツアーに参加したいんだってな。真紀がそう言っていたよ。善は急げかと思って早速今日、ツアーの申し込みを済ませて来たよ」
夫が鼻をフン、と鳴らしながらそう言ったので恵は飛び上がりそうなほど驚いた。
真紀は父親にこう言ってパンフレットを渡したそうだ。
「他のツアー客が若い人達ばかりで、行動範囲に差が出来たらお互い気づまりなんじゃないかしら?見て、こんなのを見つけたの。こういうツアーなら新しいお友達も出来るかもしれないってお母さんもすごく気に入っていたわよ」
恵は、真紀が勝手にパンフレットを夫に渡していたことも驚いたが、夫が恵に何も確かめないまま申し込みまで済ませてきたことに更に驚いた。今日は本屋に行くと言って家を出たのではなかったのか。
「シンガポールに駐在員で派遣されていた経験のある僕としては、英語も問題ないし、ツアーじゃない方が日程が自由だと思ったんだけど、今回は恵の好きな方にしたよ」
夫はまたしてもフン、と鼻を鳴らした。
「ほら、ガイドブックも買って来たよ」
夫が申し込んだのは、「ニューチャプター・オブ・ライフツアー」という名のツアーで、恵にはそのツアー名の意味もよく分からなかった。

「人生を本の一章に例えた表現でね。定年を迎えた男の人生の新しいチャプターが始まるという意味さ。確かに俺にとってはニューチャプターだが、恵にとっては何でもないかもしれない。まぁ、今回は付き合ってもらうかな」
「・・・ツアー。・・・オーストラリア」
恵はかろうじてそれだけ呟いた。
「そうだ、楽しみだろう?人生のニューチャプターをオーストラリアでスタートしよう!そんな感じなんだろうな。アハハ」
恵は茫然としていた。
夫にとっては退職後の生活はニューチャプターかもしれないが、夫がこれから家にいつもいる生活は、妻の私にとってはニューチャプターどころか下手をしたら終章ではないのか。
しかも私が旅行が楽しみにしていただって?
とんでもない。
楽しみどころか、そんな無駄使いはしたくない。口座に振り込まれた退職金は、定期預金にしようと思って先日駅前の銀行を訪ねて金利を調べて来たばかりだ。銀行のロゴの入ったボールペンも既にもらってしまったのに。
オーストラリアに興味もないし、そもそも夫と二人旅なんてしたくない。
恵の中では言葉が渦巻いていた。さすがにこれは伝えなければいけないと思い、恵は口から言葉を出すための準備を始めた。さて、最初に何を言えばいいのだろう。そうしている間に、思いのほか時間がかかっていたらしい。いつまでも何も言わない恵に夫は少し白けたような目線を投げると居間へと行ってしまった。
その後、夫の話から旅行を取り消すにはツアー料金の半額のキャンセル料がかかることを知った恵は、あきらめて夫と旅行に出ることにした。定期預金を諦めるのは残念だが仕方がない。
恵は何かにつけて気持ちのエンジンがかかるのが遅いが、今回は「イヤダ目線攻撃」が通用しなかったこともあってパンフレットを見ながら悔しくて仕方がなかった。

ところがガイドブックを読み、必要なものを買いに行ったりしながら少しづつ荷作りを始めた恵は、次第にわくわくしてきたのだった。
考えてみたら海外旅行など何年ぶりのことだろう。子供が幼い時に二回ハワイに家族で行ったことがあったが、子供を追いかけながらの食事は落ち着かなかったし、ショッピングに行っても会社の人や子供の幼稚園のお母さん方に配るお土産を買うのに忙しく、楽しかった記憶もほとんど残っていなかった。
だが今回は子供もいないのだし、もしかすると楽しいかもしれないではないか。コアラやカンガルーは見に行けるのかしら、実際に見るオペラハウスは写真より綺麗なのかしら、などと考えている内に次第に心が弾み始めたのだった。

娘というのは不思議だと思う。息子ならば気付かないような母親の感情の変化を、娘は決して見逃さない。表情の乏しい恵がそれ程に嬉しそうな顔を見せていたとは思えないのに、真紀はしたり顔で恵に言った。
「お母さん、嬉しそうね。ほら私の言う通りにしてよかったでしょう」
恵は曖昧な顔で笑うしかなかった。

ところが、シドニーに着いて他のツアー客と総勢一四名で観光バスに乗り込んでから、恵は急に息苦しくなったのである。
考えてみれば当たり前なのだが、グループのツアー客はみんな六十代の夫婦ばかりで、バスの中のその独特の空気と臭いに恵の気分は沈んだ。
落胆した気持ちを抱えてバスに座り、周囲の夫婦を見ながら恵はふと思った。
このバスの中にいる百戦錬磨の妻たちは、私達夫婦をどう見るのだろうか。一度そう考え始めると更に息がつまってきたように感じた。
ふわふわと何を考えているのかさっぱり分からない夫、話すのが苦手な妻。人々は私達夫婦に好奇の眼を向けるではないだろうか。
それだけではない。
これから数日間、他のツアー客夫婦と常に一緒に行動すれば、恵自身もつい自分達夫婦と他の夫婦を比べてしまうだろう。間近で他の夫婦を見ることによって、今まで自分が目を背けてきた、夫婦のあるべき形や理想の姿などを考えさせられるかもしれないし、下手をすると他の夫婦を羨ましいと思ってしまうかもしれない。
恵は暗澹とした気分になった。バスの中で外の景色を見ながら、それならばせめて二人きりの旅にすればよかった、と今更ながら後悔を一度し始めるともうそれは止まらなくなった。
どうしてこんなグループで観光するパッケージツアーに申し込んでしまったのだろう。
恵はバスの座席でひたすらその身を小さくしていた。

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