第1話 私の名前はよしこサン

文字数 5,118文字

「ニューチャプター・オブ・ライフツアーのお客様はこちらにお集まりくださーい」
九時間五十分の飛行時間を経てようやくオーストラリアのシドニー空港に到着した篠宝崎は、入国手続き後ロビーへ出てすぐその声に足を止め周囲を見渡した。

篠宝崎は、初めて訪れる異国の空港ではいつも少しだけ緊張する。空港という場所は、飛行機の発着場所という一つの目的で世界中で建てられているにも関わらず、国によって外観も造りも案外違うものだ。それにもかかわらず一つだけ共通点があるとしたら、いつも混雑していて人を探すのは簡単ではないという点ではないだろうか。
シドニー空港も例外ではなく大勢の人で溢れ、ロビーは騒めきに満ちていた。
喧騒の正体は人々の交わす英語の会話だが、それらは篠宝崎の頭上を言葉として意味を成さないままただの音の塊として飛び交っていた。

篠宝崎は、だが実は自分の英語にはちょっとした自信を持っている。四十歳代から始めた英会話はシンガポールに駐在員として赴任するまで十年以上続けたし、帰国後は海外事業部所属だったから、英会話は必須スキルの環境に身を置いていた。
だが母国語でない弱みなのだろう、意識を集中しない限りは周囲から聞こえてくる英語の会話はただの音でしかなく、それは言葉ではなかった。

篠宝崎は音の洪水の中で聞こえた声を一瞬訝しがったが、何のことはない。よく考えたら先程の声は日本語であった。しかも自分の参加するツアーの名を呼んでいたではないか。
なかなか清涼感のある声だったような気がする。篠宝崎はにやりと笑った。自分では年齢と経験からにじみ出る包容力と、いつまでも失わない少年っぽさを演出した笑顔のつもりだが、そのスケベおやじの笑い方をやめろ、と時折娘から言われるヤツだ。まったく、あいつは分かっていない。

篠宝崎は声の主のイメージを頭の中で描きながら俄然と張り切って歩きだした。
日本で申し込んだパッケージツアーのパンフレットには現地日本語ガイドが迎えに来るとあったから、あの声はシドニー在住の日本人女性なのだろう。

年齢はそう三十代前半くらい。白人社会のここオーストラリアで臆せず生活できる度胸がある人だ。なぜ分かるかって、それは先程聞こえた声には自信が溢れていたからだ。異国で委縮して生活している人のそれではなかった。篠宝崎はフンと鼻を鳴らしてから、自分の観察力に自分で感心しながら、鷹揚に周囲を見渡した。

ロビーはまるで有名人でも到着したのかと思うほど大勢の人々であふれていた。色鮮やかな大きな風船や花束を持った人があちこちで再会の感動を大きなジェスチャーで伝えたり、ハグやキスを繰り返したりしている。
それはまるで映画の中のシーンのようであったが、せっかく高いお金を払ってパッケージツアーに参加しても、英語が話せない日本人観光客ならばこんな時不安になるだろう、と思った。
まぁ・・・こういうのもナンだが自分は違うが。

「ニューチャプター・オブ・ライフツアーのお客様はいらっしゃいますかァ」
声が耳元すぐ近くで聞こえたので篠宝崎は驚いて飛び上がった。
「あ、はい。篠宝崎です。篠宝崎雄とその妻の恵。よろしくお願いします」
そう名乗りながら慌てて振り返った篠宝崎は、声の主を見てぎょっとした。
そこには先ほど彼が想像した姿からは程遠い風貌の、五十代前半くらいの日本人女性が立っていた。

背は高いが太り肉の身体で、まるで鏡餅のような二重顎の上には厚化粧をした大きな丸い顔がのっていた。とりあえずでかい。
「はい、篠宝崎さんご夫婦ですね。了解です」
ガイドは見た目とはまるで違う軽やかな声でそう言いながら、手元のリストのローマ字表記で記されたMr & Mrs Shinotakarazakiと書いてある箇所にピンクの蛍光ペンで印を入れると、篠宝崎にニッコリと笑った。

ガイドの顔立ちは、オーストラリア人の中に立っているから余計にそう見えるのかもしれないが、彫の浅いノッペリとした顔で、目も鼻も、顔の大きさに比べてまるで遠慮しているかのように小さかった。その一重瞼の眼には真っ黒に濃くラインを引いたアイメイクをしているから、この眼はきっと化粧をとればもっと小さく見えるのだろう。
ヘアースタイルも個性的で、日本では今時もう決して見かけないような、眉毛の上でまっすぐにカットした前髪と肩のあたりで厚みをもって切り揃えた髪型であった。髪だけみれば日本人形に見えなくもない。
「他の皆さまがお揃いになるまで、しばらくここでお待ちくださいね」
篠宝崎はハイ、と力なく返事した後もガイドから目線を外すことが出来なかった。
しばらくして、同じツアーの客らしい他の夫婦がロビーに現れた。
「おはようございます。ニューチャプター・オブ・ライフツアーのお客様でいらっしゃいますか?」
その夫婦も驚いた様子でガイドを見ていた。
「そ・・・そうです、森本です。森本真一とその妻の瑤子です」
「オッケーです。しばらくこちらでお待ちください」
森本と名乗った夫婦は、スーツケースを持ってガイドの後ろへ下がり篠宝崎夫婦の隣へ来た。森本氏と目が合ったので篠宝崎が軽く会釈すると、森本氏も会釈を返したが、その目線は明らかにもの言いたげであった。

森本さんか。
この人は、俺の見立てでは財務部の出身ではないな。俺の知っている限りで目線で話の出来る財務関係のヤツは一人もいない。あいつらはいつも経費精算書をあら探しして、間違いを見つけると自分の金でもないくせに鬼の首を取ったような顔をする。うーん、技術畑の人間にも見えないから、元営業職、ってとこか。
篠宝崎はサラリーマンの悲しい性で、今や何の得にもならない観察力を素早く働かせた。
恵はガイドのことをどう思ったのだろう、と気になりすぐ隣にいる妻を見たが、彼女はガイドからも夫からもそっぽを向き、何にも興味のない様子でぼんやりとその場に立ちつくしていた。
人々がそんな恵の側を面倒臭そうに避けながら次々と通り過ぎて行く。
やれやれ、こいつは一体何を考えているのか。こんな特別な旅行の日くらいもう少し楽しそうな顔が出来ないものか。スーパーの特売品を見つけた時でももう少し嬉しそうだったような気がするぞ。篠宝崎は少し苛立ちながらチラチラと恵を横目で見た。

「それでは、これで皆さんお揃いになりましたのでバスの方へと移動いたしまァす」
ガイドの掛け声でぞろぞろと歩き出した人の群れを、篠宝崎は恵と一番後ろから付いて行った。さぁ、いよいよシドニー観光だ。
篠宝崎はツアーグループの一番最後に歩きだして後ろから参加人数を数えた。男が七名、ということは全部で十四名か。

ニューチャプター・オブ・ライフツアー。
チャプターとは小説や論文などの章の意味だ。だから人生の新しい一章が始まるという意味のこのツアーは、定年退職をしたばかりの夫婦を対象にした有名旅行代理店が販売しているパッケージツアーである。
行先はオーストラリア、ヨーロッパやアジアの国々から選ぶことが出来たが、篠宝崎夫婦はその中から、子供達の勧めもあってシドニーとケアンズを訪れるツアーに決めたのだった。
夜中、狭い機内で過ごしたのでほとんどのツアー客は寝不足気味である。十四人のツアー客はその疲れた顔色を隠し切れないまま、既に強くなり始めた日差しの下、ガイドの後をスーツケースに寄りかかるようにして覇気のない足取りで歩き出した。
空港のターミナルを出て駐車場をしばらく歩くと、白地に緑の字が書いてある中型サイズの観光バスが止まっているのが見えた。
スーツケースを預けるためバスの運転手に近付くと、その大きな体のオーストラリア人は笑顔で話しかけてきた。

「グッドモーニング、ネ。ミナサン」
筋肉で盛り上がって今にも胸元ではち切れそうなシャツを着たドライバーは、バスに乗ろうとする客に大きな声で言った。日本人夫婦たちは、何と返事すればいいのか分からないらしく、どの夫婦も困った表情でドライバーへ向ってお辞儀してからバスへ乗り込んだ。
日本では当たり前のお辞儀の習慣も、海外で見ると卑屈な態度に見えることがあるから不思議だ。
俺はそれはしないでおこう。篠宝崎は胸をはってドライバーへ向かって言った。

「グダイ・マイト!」
篠宝崎は旅行前にガイドブックを買って読んだが、そこにオーストラリア英語はアメリカやイギリスとは違うとあった。オージーイングリッシュと呼ばれる独特の言い回しの中で、もっとも有名なのは挨拶のグダイ・マイトGood Day Mateだと、ガイドブックには書いてあった。
意味は上品に訳せば、ご機嫌よう、なれなれしく訳せば、おう元気か、関西風に訳せば、どないでっか、のようなものだろうと篠宝崎は理解していた。
ドライバーは案の定、大きな笑顔を見せた。
「グダイ・マイト!アナタ、エーゴ、モーンダイナイ、ネ」
篠宝崎は返事に困り、挨拶だけで英語が問題ないって言われてもねぇ、と思いつつ、アハハとドライバーに向って愛想笑いをしてからバスに乗り込んだ。

バスへ入ると客はみな前方から席に着いていたので仕方なく篠宝崎は後方へと進んだ。
「おい、どのあたりに座りたい?」
篠宝崎が恵を振り返って聞いた時、恵はすでに自分で席を選び窓際へそっと腰掛けていた。篠宝崎は他にもまだまだ空いている座席があるのを見て二人掛けに一人でゆったり座りたくなったが、他の夫婦に自分たち夫婦が仲が悪いと思われたら癪だな、と思った。
「なかなかいいバスだな。座席もたくさんあるし」と周りに聞こえるように恵に話しかけてから自分も座席へ座った。
ドライバーはバスに颯爽と乗るとエンジンをかけた。ガイドがバスの入り口から客に向って大声で言った。
「シートベルトをしっかりとお締めください。まもなく出発いたしまーす。レッツ・スタート・ハヴィング・ファン!イエイ!」
うわぁいい年してテンションたか。でもやっぱり英語の発音はいいな。さすが現地在住なだけのことはある。俺の英語の発音より、少し、いや、だいぶいい。
篠宝崎は自分の英語力の自信を失くすのが嫌だったので、代わりにガイドのあら探しを始めた。
このガイドはよく見たらメークやヘアースタイルだけでなく服装もアンバランスだな。濃紺のスーツの上下を着ているけれど生地が見るからに安っぽいし、スカートの長さも微妙に長すぎて格好悪い。俺も自分で特にセンスがいい方だとは思わないが、ここまでひどくはない。
篠宝崎が心の中でバスに乗り込んできたガイドの上から下まで眺めながら点数をつけていると、ガイドは突然バスのステップに片足だけをかけてそこで立ち止まった。何事か、と思って見ていると、彼女は突然ツアー客の前で見せつけるようにしてジャケットを脱ぎ始めた。

おお、なんだこれは。
ガイドは恥ずかしがる様子もなく手慣れた仕草でジャケットを脱ぎ「じゃーん」と芝居がかった声で客に向って言った。
彼女はどうやらジャケットの中に着ているシャツを客たちに見せたかったらしい。中からは白地にあちこちに緑の帽子をかぶったカンガルーが飛び跳ねている柄のシャツが現れた。その無数のカンガルーはどれも少し卑しい笑顔を浮かべていた。日本ならばこのシャツの企画は決して通らなかっただろう。
ガイドは客の反応を見るため得意気な表情でバスの中を見渡したが、誰も何も言わなかった。言えなかったというべきかもしれない。すでに感情がすぐ言葉になって出る年齢ではないのもあるし、これほど品のないシャツも珍しい、と皆が思っていたのではないだろうか。
ガイドは少し白けた顔をして拗ねたように大きな音をたてて自分の座席に座った。

何だその態度は。それが客商売に携わっている人間のやることか。会社員人生の全てを営業に捧げた篠宝崎は、やや鼻白む思いでガイドの後姿を見た。
バスが走り出すと、ガイドは自分の座席にあるマイクを取り上げ話し始めた。楽しそうな声だ。すでにご機嫌は戻ったらしい。

「皆様、改めましておはようございます。まずは飛行機での長旅お疲れ様でございました。これから早速シドニーの街の方へと皆様をご案内します。ワタクシは、本日皆さまをご案内いたしますシドニー現地ガイドの、よしこサン、と申します。どうぞお気軽に、よしこサンって呼んでくださいネ。それでは、シドニー観光へレッツ・ゴーー」
ガイドはそう言ってから、むっちりと肉のついたその太い腕を空中で数回振り回した。

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