第6話
文字数 2,714文字
6
小雨が降る夜だった。窓に小石が当たった。心臓が躍った。
ヒロは無口だった。横顔に、これまで見たことのない陰りが浮かんでいる。二人は雨に洗われながら、遠くににじむネオンの灯りをながめた。ヒロが、やっと口を開いた。
「由香里さんが、街でオーディションの案内についていったきり、帰ってこないんだ……」
あの時、スキンヘッドと一緒にいた美しい女だ。仲間の一人が、暴走族とつながる風俗店にいるという情報をつかんだ。カズキは半狂乱のごとく、一人でも乗り込んで助け出すと息巻いている。けれども暴走族は、裏で暴力団とつながっており、氷室は、絶対に手を出すなと、仲間を制しているという。
ヒロがポツリと吐き出した。
「実は、親父が家族を捨てて行った先が、その暴力団なんだ」
ヒロが初めて、まじめな顔で未来を見つめた。
「俺たちには、いつだって闇がつきものさ。そこから這い出すには、それを突き抜けていく光を追うしかない。未来には、必ずできるよ」
ふと未来の脳裏に、不安がよぎった。
「私たち、もう会えないの?」
「そんなことないさ。必ずまたくるよ」
ヒロは、濡れた髪の中から、小さな笑みを残し、去って行った。
未来は部屋に戻った。ヒロは、何か大きな壁にぶつかっている。見えない敵と闘おうとしている。だから、自分の闇も理解できるのかもしれない。自分も、ヒロと一緒に闘おう。
未来は、「またくるよ」というヒロの言葉を信じ、眠りについた。
それから、いくら待っても、ヒロは来なかった。
その日は、母が祖母を病院に連れて行き、家の中は静かだった。
うとうとしていると、窓に小石が当たった。この時間にヒロが? 嬉しさと不安が交錯した。
塀の向こうに立っていたのは氷室だった。髪型だけは奇抜だが、あの時の輝きはどこにもない。
ヒロの母から頼まれたと、紙袋を差し出してきた。
「実は、ヒロ、亡くなったんだ」
「――」
未来は氷室の目を見たまま、固まった。
一瞬、少し前に見たテレビのニュースが脳裏をよぎった。多摩川で、全身を鋭利な刃物で切られた少年の死体が発見されたと、薄暗い川の映像が流れていた。
「まさか、あの河原の――」
未来は、あるわけがないと思いながらも、口に出した。
「そう、その河原の殺人事件だ。殺されたのは、ヒロだ」
「うそだ! そんなことうそだ」
「おれたちも、最初はそう思った。ヒロの母も、最初は違うと言って、泣き叫んだそうだ……」
未来は目を剝き、続けた。
「どうしてヒロが? なぜあんな惨い死に方を――」
未来は、どうしても信じられなかった。
「俺が暴走族の総長に会った時はすでに、由香里は暴力団の手に渡り、薬浸けになっていた。総長が、女を取り戻す代わりに、俺らの傘下に入れという条件を出した。やむなく俺はそれを呑み、仲間を説得した。だがその夜、ヒロは独りで奴らのアジトに乗り込んだようだ。命を犠牲に、奴らの悪事を暴こうとしたんだろうな……」
氷室は、とぼとぼと去って行った。
紙袋の中には、桜色のフリースが入っていた。ヒロが選んだフリースは、明るく、温かかった。ポケットに手を入れる。紙切れが指に触れた。開くと、走り書きがある。
「未来のリズムは最高だった! 今度、一緒に踊りに行こうね」
やっぱりヒロは生きている。必ずどこかで生きている。ヒロの温もりを抱きしめているうちに、睡魔が襲ってきた。
ハッとして目を覚ます。あの時のイベントが始まった時間だ。
未来は桜色のフリースを羽織り、窓から飛び出した。おじいちゃんのサンダルで走った。あの場所、あの公園に行けば、またヒロに会える。死んでなんかいない。大人たちが行き交う繁華街を抜ける。
もう少しで、音楽が、笑い声が聞こえてくる。未来は記憶の道を、足をもつれさせながら走り続けた。
見覚えのある場所に着いた。けれども、音楽も喧騒も聞こえてこない。薄暗い外灯の光が、さびれた広場の残骸を浮き立たせている。ふと、向こうのベンチに人影が見えた。見覚えのある大きな男。そばにいるのは女性のようだ。未来はおそるおそる近づいていった。
右の足裏に痛みが走った。サンダルが片方ないことに気づく。
男は、あのスキンヘッドのカズキだった。うずくまって泣いている女をなぐさめている。
涙でメイクがぐじゃぐじゃになった女が顔を上げた。あの時の、きれいな彼女だった。
由香里さんが、嗚咽を漏らしながら口を開いた。
「ヒロ、死んじゃったね。私はヒロのお陰で助かった」
やはり、ヒロは本当に死んだのか……。
余りの衝撃に、涙も出てこない。
カズキが口を開いた。
「由香里が別れるって言うんだ。無理もない。俺の代わりにヒロが助けに行った……」
未来は違うと思った。ヒロは由香里さんを助けるために闘ったのではない。けれども、どうしてもそれを口に出すことはできなかった。
二人は少し離れ、ネオンの光の方へ去って行った。
未来は初めて、大声で泣いた。抑えてきたものが体中からあふれ出し、止めることができなかった。全身が打ち震え、立っていることができなくなった。ベンチに伏せ、泣き、叫んだ。怒りと悲しみが同時にこみ上げ、あふれてくる。拳をベンチに打ちつけながら、なりふりかまわず声を振り絞った。
涙も力も出尽くした時だった。
背後に、何かを感じた。ハッとして振り返る。未来は目を見張った。輪かくは闇にとけて見えない。とても大きなけものだ。鋭い目で、辺りに牙をむいている。けれどもその牙は、自分の守り神のように光っている。なぜか幼き日の、あの川の音が聞こえてくる。未来は、懐かしい背に触れたくて、近づこうとした。けものは近づくほどに遠ざかり、やがて、消えていった。
外灯の薄暗い明かりに、片方のサンダルだけが残っていた。
体が温かくなり、涙が滲んできた。これは、夢なのだろうか……。
未来は大きな安堵に包まれ、眠りに落ちた。
気がつくと、朝日が昇っていた。未来は、ふらふらと立ち上がった。太陽の光がこんなに心地よいものだとは思わなかった。まわりの空気も、キラキラと光っている。
ヒロの死は、結果として暴走族の解体につながり、由香里は保護された。けれども未来は、それは少し違うと思った。
ヒロは死ぬために行ったのではない。仲間と一緒に陽を浴びながら生きようとして、一人で闘ったんだ。
ヒロは死んでなんかいない。私の中で生きている。いつか一緒に、あの滝の、虹色に光る川の神を見に行こう。
最後まで、私のことは何一つ聞かなかったヒロ。この世でヒロのような人間と逢えたということだけで、私は、新しい道に踏み出すことができる。
(了)
小雨が降る夜だった。窓に小石が当たった。心臓が躍った。
ヒロは無口だった。横顔に、これまで見たことのない陰りが浮かんでいる。二人は雨に洗われながら、遠くににじむネオンの灯りをながめた。ヒロが、やっと口を開いた。
「由香里さんが、街でオーディションの案内についていったきり、帰ってこないんだ……」
あの時、スキンヘッドと一緒にいた美しい女だ。仲間の一人が、暴走族とつながる風俗店にいるという情報をつかんだ。カズキは半狂乱のごとく、一人でも乗り込んで助け出すと息巻いている。けれども暴走族は、裏で暴力団とつながっており、氷室は、絶対に手を出すなと、仲間を制しているという。
ヒロがポツリと吐き出した。
「実は、親父が家族を捨てて行った先が、その暴力団なんだ」
ヒロが初めて、まじめな顔で未来を見つめた。
「俺たちには、いつだって闇がつきものさ。そこから這い出すには、それを突き抜けていく光を追うしかない。未来には、必ずできるよ」
ふと未来の脳裏に、不安がよぎった。
「私たち、もう会えないの?」
「そんなことないさ。必ずまたくるよ」
ヒロは、濡れた髪の中から、小さな笑みを残し、去って行った。
未来は部屋に戻った。ヒロは、何か大きな壁にぶつかっている。見えない敵と闘おうとしている。だから、自分の闇も理解できるのかもしれない。自分も、ヒロと一緒に闘おう。
未来は、「またくるよ」というヒロの言葉を信じ、眠りについた。
それから、いくら待っても、ヒロは来なかった。
その日は、母が祖母を病院に連れて行き、家の中は静かだった。
うとうとしていると、窓に小石が当たった。この時間にヒロが? 嬉しさと不安が交錯した。
塀の向こうに立っていたのは氷室だった。髪型だけは奇抜だが、あの時の輝きはどこにもない。
ヒロの母から頼まれたと、紙袋を差し出してきた。
「実は、ヒロ、亡くなったんだ」
「――」
未来は氷室の目を見たまま、固まった。
一瞬、少し前に見たテレビのニュースが脳裏をよぎった。多摩川で、全身を鋭利な刃物で切られた少年の死体が発見されたと、薄暗い川の映像が流れていた。
「まさか、あの河原の――」
未来は、あるわけがないと思いながらも、口に出した。
「そう、その河原の殺人事件だ。殺されたのは、ヒロだ」
「うそだ! そんなことうそだ」
「おれたちも、最初はそう思った。ヒロの母も、最初は違うと言って、泣き叫んだそうだ……」
未来は目を剝き、続けた。
「どうしてヒロが? なぜあんな惨い死に方を――」
未来は、どうしても信じられなかった。
「俺が暴走族の総長に会った時はすでに、由香里は暴力団の手に渡り、薬浸けになっていた。総長が、女を取り戻す代わりに、俺らの傘下に入れという条件を出した。やむなく俺はそれを呑み、仲間を説得した。だがその夜、ヒロは独りで奴らのアジトに乗り込んだようだ。命を犠牲に、奴らの悪事を暴こうとしたんだろうな……」
氷室は、とぼとぼと去って行った。
紙袋の中には、桜色のフリースが入っていた。ヒロが選んだフリースは、明るく、温かかった。ポケットに手を入れる。紙切れが指に触れた。開くと、走り書きがある。
「未来のリズムは最高だった! 今度、一緒に踊りに行こうね」
やっぱりヒロは生きている。必ずどこかで生きている。ヒロの温もりを抱きしめているうちに、睡魔が襲ってきた。
ハッとして目を覚ます。あの時のイベントが始まった時間だ。
未来は桜色のフリースを羽織り、窓から飛び出した。おじいちゃんのサンダルで走った。あの場所、あの公園に行けば、またヒロに会える。死んでなんかいない。大人たちが行き交う繁華街を抜ける。
もう少しで、音楽が、笑い声が聞こえてくる。未来は記憶の道を、足をもつれさせながら走り続けた。
見覚えのある場所に着いた。けれども、音楽も喧騒も聞こえてこない。薄暗い外灯の光が、さびれた広場の残骸を浮き立たせている。ふと、向こうのベンチに人影が見えた。見覚えのある大きな男。そばにいるのは女性のようだ。未来はおそるおそる近づいていった。
右の足裏に痛みが走った。サンダルが片方ないことに気づく。
男は、あのスキンヘッドのカズキだった。うずくまって泣いている女をなぐさめている。
涙でメイクがぐじゃぐじゃになった女が顔を上げた。あの時の、きれいな彼女だった。
由香里さんが、嗚咽を漏らしながら口を開いた。
「ヒロ、死んじゃったね。私はヒロのお陰で助かった」
やはり、ヒロは本当に死んだのか……。
余りの衝撃に、涙も出てこない。
カズキが口を開いた。
「由香里が別れるって言うんだ。無理もない。俺の代わりにヒロが助けに行った……」
未来は違うと思った。ヒロは由香里さんを助けるために闘ったのではない。けれども、どうしてもそれを口に出すことはできなかった。
二人は少し離れ、ネオンの光の方へ去って行った。
未来は初めて、大声で泣いた。抑えてきたものが体中からあふれ出し、止めることができなかった。全身が打ち震え、立っていることができなくなった。ベンチに伏せ、泣き、叫んだ。怒りと悲しみが同時にこみ上げ、あふれてくる。拳をベンチに打ちつけながら、なりふりかまわず声を振り絞った。
涙も力も出尽くした時だった。
背後に、何かを感じた。ハッとして振り返る。未来は目を見張った。輪かくは闇にとけて見えない。とても大きなけものだ。鋭い目で、辺りに牙をむいている。けれどもその牙は、自分の守り神のように光っている。なぜか幼き日の、あの川の音が聞こえてくる。未来は、懐かしい背に触れたくて、近づこうとした。けものは近づくほどに遠ざかり、やがて、消えていった。
外灯の薄暗い明かりに、片方のサンダルだけが残っていた。
体が温かくなり、涙が滲んできた。これは、夢なのだろうか……。
未来は大きな安堵に包まれ、眠りに落ちた。
気がつくと、朝日が昇っていた。未来は、ふらふらと立ち上がった。太陽の光がこんなに心地よいものだとは思わなかった。まわりの空気も、キラキラと光っている。
ヒロの死は、結果として暴走族の解体につながり、由香里は保護された。けれども未来は、それは少し違うと思った。
ヒロは死ぬために行ったのではない。仲間と一緒に陽を浴びながら生きようとして、一人で闘ったんだ。
ヒロは死んでなんかいない。私の中で生きている。いつか一緒に、あの滝の、虹色に光る川の神を見に行こう。
最後まで、私のことは何一つ聞かなかったヒロ。この世でヒロのような人間と逢えたということだけで、私は、新しい道に踏み出すことができる。
(了)