第4章 ユゴーのエドレル暗殺の理由

文字数 2,417文字

第4章 ユゴーのエドレル暗殺の理由
 ユゴーは、結局、エドレルを殺害する。しかし、その動機は丹念に辿る必要がある。サルトルはこの実行にに心理臨床的な仕掛けをしているように思われる。「ああ、ひとりの人間を殺そうっていうときなら、自分が石のように重く感じられるはずだがなあ。頭の中には沈黙があるべきだ。(叫ぶ)沈黙だ!」

 文学作品には人間の心理を的確に描写している物が少なくない。精神分析の創始者ジグムント・フロイトは、そうした傑作のひとつである『カラマーゾフの兄弟』を手がかりに、『ドストエフスキーと父親殺し』においてエディプス・コンプレックスを論じている。もっとも、この小説には児童虐待の記述が見られる。例えば、ドミートリイ・カラマーゾフは虐待の新聞記事を集めている。エディプス・コンプレックスではなく、彼の父親殺しは児童虐待が隠れた動機ではないかと推測できる。文学作品の登場人物について、特定理論から演繹的ではなしに、情状鑑定のごとく、記述を手掛かりに心理を読み解くことは心理臨床にも参考になるだろう。

 暗殺の直前、エドレルとジェシカは次のような会話を交わしている。

エドレル 君か,何の用だ。
ジェシカ 窓越しで,私は,あなたとユゴーの会話を聴いていた。あなたを,どうしても一人残していけなかった。愛しているの,私は,ユゴーが拳銃で,あなたを撃つのなら,それを私が身体をはって,阻止したい。
エドレル 君は,いつから,そんな気持ちを私に抱くようになったのかね。
ジェシカ 私はね,いつだって,夢の中で生きて来たのよ。でも,あなたに会って,本当に好きなものがわかったのよ。
エドレル そうか,君は,私ならキスしても,笑い出さないのかな。試してみようか。

 これを目撃したユゴーは次のように言ってエドレルを射殺する。

ユゴー そうか,おまえたちは,私ユゴーを,ずっと裏切っていたのか。黙れ,エドレル,おまえは,もう組合に抹殺されるのだ。私の手は,震えてなんかいないぞ。
やがて,新しい時代は来る。おまえのような日和見主義のやつには,未来はないのだ。エドレル,私は,ちゃんとお前の目を見て,発砲できるのだ。

 このような場面を見ると、ユゴーの動機が嫉妬であるように推察される。事実、ユゴーは、その前にも、ジェシカとエドレルについて次のような会話をしている。

ジェシカ あんたはバカで下品な人よ。
ユゴー お前は下品な男が好きなんだ、と思っていた。(ジェシカ答えない)ふざける、それともふざけない?

 また、エドレルとジェシカの次のようなシーンも二人がお互いに好意を持っているように見える。

エドレル (ジェシカをずっと眺めている)わしは君が不器量だろうと思っていたよ。
ジェシカ 困りましたわ。
エドレル (ジェシカを眺め続けている)そう。困ったことだな。

 しかし、出所後、ユゴーはオルガに嫉妬が原因ではないと釈明している。ユゴーは自分を支配しようとしているとエドレルを殺したと語る。もちろん、言い逃れとも考えられる。それは党からの指示を私怨に利用したのをごまかすためである。

 ただ、ユゴーは実行以前からエドレルに警戒しているが、その理由はいささか奇妙である。相手を説得する能力に長けているなら、エドレルは他勢力との交渉でも有利に進められるはずである。ところが、ユゴーはそれを理由に彼を危険視している。「エドレルがさわると、これはほんとうらしくなる。あいつのさわるものはすべてほんとうらしくなる」。エドレルの話術が今後の政治状況ではなく、自身にとって脅威と感じられるとしたら、ユゴーのパーソナリティに理由を考えるほかない。

 エドレルもユゴーのパーソナリティに関して意見を述べている。「君は自分を憎んでいるから、人間を憎んでいる。君の純粋さは死に似ている。君の思い描く革命は、われわれの革命とはちがうのだ。君は世の中を変えようとはしない、爆破しようとしているのだ」。「君は、一番弱いから、傲慢なふりをする」。ユゴーが頑なな理想主義者である原因をエドレルは「疎外」に見出している。

 若さを考慮するなら、ユゴーのこうした認知には家族との関係が影響しているように思われる。エドレルに自分への支配と反応しているのだから、ユゴーの父がパターナリズムの態度で振る舞い、それに抑圧を感じていたことが伺われる。彼の家族に関する詳しい言及は作品にはないので、あくまで推測である。自立しようとしているのに、自分を理解していると言い、その問題解決は任せておけとそれを妨げる。「考えないではいられぬのだ。考える方が望ましいのだ。よしんば、行為以前に考えなかったとしても、行為以後に一生かかって考えるだろう、そういう風に君はできているのだ」。

 エドレルはユゴーにとってお前のためだと自らの支配下に置き続け、自立を許さない家父長そのものだ。ジェシカにそうした父に味方し、自分を十分に理解してくれない母の姿が重なっているように見える。2人がキスをした時にユゴーが引き金を引いた理由がそこにあるように察せられる。

 ところが、ユゴーは最後にエドレルをまだ殺していないと叫ぶ。もちろん、彼はすでに死んでいる。彼が殺す必要があるのは自立を奪うものだ。オルガの態度も彼にとってはパターナリズムである。ユゴーはもはや死を選ぶほかない。彼には救済不能である。だからこそ、ユゴーは主体的にこう叫んで死に向かっていく。「取り返しがつかない(Irrécupérable)」。

 この”irrécupérable"という単語には,、通常、「回収不能」や「回復不能」、「再生不能」などの訳語が当てられる。ただ、"Tu es irrécupérable"とフランス語で言うと、「君は取り返しがつかない」、くだけた日本語なら「ざまあねえな」という意味である。ユゴーは大失敗だったと自嘲しながら、自らの認知行動に片をつけたのだろう。
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