58話 涙(後編)

文字数 3,153文字

「久居っ!」

僅かに睫毛を揺らして、ふっと目を開く久居を、この場の皆が見ていた。

「わああんっ! 良かったぁー! 良かったよぅー。久居起きたぁぁぁ……」
リルが大粒の涙を零しながら久居の胸に飛び込む。
「ご心配を……おかけして、申し訳ありません……」
それを受け止めて、ゆっくりと上体を起こした久居に、今度は感極まったレイが飛び付いた。
「久居ぃ!」
その勢いに、久居はリルと一緒に布団へ戻される。
「本当に……本当に心配したんだからな!! このまま、お前が目覚めなかったら、ど……どう、しようって……」
レイの言葉の最後が、涙に変わる。

「レイ、重いですよ。リルが潰れてしまいます」
久居の苦情に、リルが間で「潰れるぅぅぅ」と涙声のまま呻いている。
「す、すまない……」
慌ててレイが体を離し、久居の手を取って、リルごと引き起こす。
と、安心したのか、疲れでか、反動でレイがペタンと尻餅をついた。
その様子に、久居が苦笑を浮かべる。
「レイも大変でしたね。止めてくださって、ありがとうございます」
「あっ。そうだぞお前っ! あんなの相談も無しにっ!!」
レイの言葉に、クザンも
「その件については、後でじっくり聞かせてもらうからな」
と念を押す。
「はい……」
久居が、リルをそばにおろすと、その場に両手を付く。
「私の短慮で、皆様に多大なるご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした」
謝罪と共に、深々と頭を下げた。

「久居、皆の顔を見てご覧」
柔らかい菰野の声に、久居が顔を上げる。

前に立つクザンとリリーは、安心した顔で、久居を見ていた。
二人がそうして並んでいると、久居はお互いを信頼し支え合っていた譲原皇と加野を思い浮かべてしまう。
あの二人も、この二人も、縁もゆかりもない久居を我が子と並べるように扱ってくれる。久居は改めて感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。

少し隣には、嬉しそうに目を細めている父。
この件では、力も知識も惜しみなく分け与えてもらった。
目を合わせると、恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに、クオンは小さく笑った。
その笑顔は、久居が幼かった頃、振り返れば毎日そこにあった物だった。
やはりこの人は、私の父なのだと久居は思う。

と、父と一緒にどうしても視界に入ってくるのが、父にぴったりくっ付いたレイの妹だ。
なぜか、彼女はクオンを『父さん』と呼んでいる。
……これについては、後ほどよく事情を聞きたいと思う。
彼女は、クオンと久居を交互に見ながら、なんともいえない顔をしていた。

その隣ではフリーが、ニコニコと嬉しそうにこちらを見ている。
目を合わせると、良かったね、とばかりにニッコリ微笑まれた。

久居の両隣ではまだリルとレイが涙を拭ったり、目を擦ったりしていたが、久居と目が合うと、どちらも泣きながら笑った。
久居は思わず、二人の頭を撫でる。

赤い髪の鬼は、目を合わせたくなかったのか、背を向けてしまったが、それまでは一応様子を見てくれていたという事だろうか。

最後に菰野を見る。菰野は大輪の花を背負うような笑みを見せて言った。
「皆、お前の事を心配して、色々と力を貸してくれたんだ。謝る前に礼を言うべきじゃないか?」

久居が、背筋を伸ばして姿勢を正す。
「この度は、私などのために皆様のお力添えを賜りまして、……誠に、感謝の言葉も、ありません……」
言葉の終わりが、わずかに震える。
「……久居……?」
リルが覗き込んだ久居は、その黒い瞳に涙を浮かべていた。

リルだけでなく、菰野とクオン以外の全員が、久居の涙を初めて見た。

「すみません……」
申し訳なさそうに、顔を手で覆う久居。
その頭を、クザンがぐしゃぐしゃと撫で回す。
「ははっ。いーじゃねーか嬉し泣き。たまには泣き顔も見せてやれよ」
久居より、ほんの一歩離れたところから、その一歩を詰められずに手を伸ばしたり引っ込めたりしているクオンを、クザンがぐいと久居へと押す。
「!!」
「遠慮してねーで慰めて来いよ」
久居に激突しまいと、その手前で必死に踏み留まるクオンを不憫に思いつつ、ラスが
「……クザン兄はいちいちお節介が過ぎんだよ」
と突っ込む。
「お前はいちいち突っかかんじゃねーよ、この寂しがりが!」
ニヤッと笑ったクザンが、ラスの頭を脇にホールドしてぐりんぐりんに撫で回し始める。
「おわ、ぐっ。抜けな……っやめろよ! 髪ぐちゃぐちゃにすんな!!」
笑顔全開のクザンにゲラゲラ笑われて、嫌がるラスも次第に苦笑に変わる。

ああ、この鬼は、こんな風に笑う人物だったのか。と、以前ラスに殺されかけた事のある久居は、ぼんやり思った。

「久居、その……触れても、良いですか?」
遠慮がちなクオンの言葉に、久居が笑う。
「良いに決まってるじゃないですか」
久居は手を伸ばし、クオンを抱き寄せた。
あの頃、とても大きかった父の背中は、もう自分とそう変わらなくなっていた。

「大きく、なりましたね……」
「ええ、父さんの居ない間に」
ぐっ。とクオンが喉を詰まらせるのを、久居は微笑んだまま聞いた。

「あー、レイ寝ちゃった」
リルの言葉に久居が隣を見ると、レイが蹲ったまま寝息を立てている。
「そいつ、ずっと寝てなかったんじゃねーか?」
と、クザンの声。久居もそう思ってはいた。
ラスが黙って小屋に入ったのは、布団の支度をしに行ったのだろうか。

レイの目尻に残った涙を久居が指で拭うと、レイはふにゃっと口元を緩ませた。
「レイ笑ってるー」
楽しそうなリルの声。
「安心したのでしょうね」と久居は答えた。
それと同時に、こんなに無理をさせてしまった事を、心苦しく思う。

「ボク、安心したらお腹すいちゃったよー」
「今何時でしょうか」と久居が何気なく取り出した時計を見て、クオンが顔色を変えた。
「そ……それは……」
「ん? これが分かんのか? 久居の親父は色々知ってんなぁ。お前、人間なんだろ?」
「……」
クオンが、畏怖を浮かべた瞳で、ただコクコクと頷いた。

久居は、自分の手にする懐中時計をまじまじと見る。
旅立ちの日に、クザンに渡されたこの時計。
大事に扱ってはいたつもりだったが、何かいわく付きのものだったのだろうか。

「なになにー?」
とリルも久居の手にある時計を覗き込んでみるが、面白くもなんともなかったようで、また「お腹すいた……」と呟いた。
時刻は既にお昼を回っている。
「すぐ何か用意しますね」
久居が答え、時計を閉じたところで、ラスが戻ってきた。
「布団敷いたぞ。そこの寝てんの連れてこいよ」
と、そこまで言って、ラスの視線は久居の手の物に釘付けになった。
「なっ……」
「な?」リルの余計な突っ込みは聞かなかった事にする。
「何でこんなもん持ってんだよ!」
「以前、クザン様にいただきました」
「はぁ!? クザン兄! こんなもんホイホイ渡すなよな!! こんなん持ってるってバレたら、変なのに狙われんぞ!?」
「あー、まあ……確かに。けど、こいついつ死ぬかわかんねぇやつだし、まさか人間が持ってるなんて思わねーだろ?」
「それは……、そうかもしんねーけどさぁ……」
ラスが『ダメだ話通じねーな』と言う顔で、げんなりする。

久居は、時計の事も気になるが、先に料理をしに行こうと、立ち上がろうとする。
ラスが「もう起きる気か? ゆっくり立てよ、しばらく寝たきりだったんだからな」と声をかけてくるので、久居は笑いを噛み殺して「はい」と答えた。
この赤髪の鬼は、意外なことに、あれこれと気が回るようだ。

「クザン兄、そいつ布団に寝かすぞ。そんなとこ転がしてたら風邪ひくだろ」
ラスに再度促されて、クザンがひょいとレイを抱える。

久居は、慎重に立ち上がったものの、急激な筋力の衰えを感じる。
立てないと言うほどではないが、若干心許ない。
「久居、ボクの肩に掴まる?」
リルの声に、久居は微笑み「では、お言葉に甘えて……」と返事をした。
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