不思議な村【1】

文字数 3,305文字

 バスを降りると、すでに辺りには日が昇っていました。寒さも随分と和らぎ、殺人犯が享受するにはあまりにもったいないほど澄んだ空気が肺を満たしました。
 私はコンビニで朝食を購入し、近くにあったベンチに腰をかけながら今後のことについて考えていました。目の前には一面畑が広がっており、どこからか牧場特有の獣臭が漂ってきています。ずいぶんと田舎にやってきましたが、私はさらに閉鎖的な場所を求めていました。
 鮭のおにぎりを頬張りながら、見知らぬ土地を見渡していると、ふと古ぼけた看板が目に入りました。そこには『●●村』への簡易的な地図が描かれていました。地図をよく見ると、近くの山の中にある窪地にひっそりと佇む村のようです。まさに今の私にとって理想的な場所でした。
 もちろん、そのような辺鄙な場所に急に女が訪れれば、村の方は驚き、怪しむことでしょう。ただ、私には向かうべき場所はなく、このままただ彷徨っているとすぐにお金が尽きてしまうことは明白です。私はまずは村に向かってみることを決断しました。

 それから村まで一番近い場所までバスで向かい、そこからは歩いて村を目指しました。慣れない山道を1時間ほど歩いたでしょうか。少し開けた場所でようやく数件の古民家を発見しました。恐らく村の方でしょう、数人の男性が何やら作業をしているのも見えます。さて、どのように声をかけようか。そう考えていた時でした。

「どうされましたか?」
 声をかけてきたのは、少し灰色がかった目が特徴的で、肩にかかるほどの髪の毛を後ろで無造作に括った男性でした。年の頃は三十歳といったところでしょうか。背が高く、厚みのある引き締まった身体をしていました。
「大丈夫ですか?」
 その男性はもう一度私に呼びかけました。思えば、昨夜彼を殺害してからというもの、まだまともに人と話していないことに気がつきました。
「ええ、大丈夫です。すみません、このような所で様子を伺うような真似をして」
 私は、純粋に無礼を詫びました。すると彼は穏やかに微笑みながら「気にしないでください」と言いました。
「こちらこそ突然声をかけてすみません。申し遅れましたが、私は阿天坊 崇嗣(あてんぼう たかし)と申します。こざとへんに可能の可、天気の天と坊主の坊で阿天坊といいます」
 きっと難しい苗字なので言い慣れているのでしょう。阿天坊さんと名乗る男性は、スラスラと自分の苗字を説明しました。
「阿天坊さん、初めまして。私は吉里 香織(よしざと かおり)といいます」
「吉里香織」
 阿天坊さんは私の名前を噛み締めるように呟くと、「とても美しい名前ですね」と微笑みました。澄んだ目がやけに印象的でした。
「吉里さんはこの村に何か御用ですか?」
 私は返答に困りました。ただ流れ着いただけであり、特に用があるわけではありません。強いて挙げるなら、この小さな村で息を潜めていたいだけなのです。
「実は都会の生活に疲れまして、心の赴くままに旅をしていたのですが、その折にこの村のことを知りまして、何となく足を運んだのです」
 嘘をついたわけではありませんが、全てを語ったわけでもありませんでした。
「そうですか。この村には時々吉里さんと同じような方が訪れることがあるのです。何か変わった、癒しのオーラのようなものでも発しているのですかね」
 そう言って、阿天坊さんは笑いました。たしかに、言われてみれば私も導かれるようにこの村に訪れたような気もします。
「村には私が親族や友人を招待した時に使える簡易的な宿のような家屋があります。もし、この村が気に入ったのなら、どうぞご自由に使ってください。あ、お金は結構ですので」
 なんと、魅力的な提案でしょうか。かえって阿天坊さんは警察の関係者で、私を騙して捕まえようとしているのではないかと勘繰ってしまうほど、理想的な提案でした。
 それから、阿天坊さんはこの小さな村を案内してくれました。二人で村を歩いている時に、この村は遠い昔に戦いに敗れて逃げてきた数名の兵士が開拓したこと、阿天坊さんはその兵士たちの末裔でこの村では一応村長のような役割を担っていること、辺鄙な場所ではあるが私のように都会暮らしに疲れた方や田舎での生活に憧れている方が時折移住してくることなど、阿天坊さんは村について色々と教えてくれました。

 しばらく阿天坊さんと歩いていると、村に住んでいる方と何度かお会いしました。彼らは皆、阿天坊さんを見かけると深々とお辞儀をします。阿天坊さんはとても慕われているのだなと思いながらも、何かかすかな違和感を抱きました。違和感の正体を掴み損ねていると、阿天坊さんは村の案内を終えて、先ほど言っていた宿の前まで送ってくれました。
「ここがさっき話していた宿です。あまり綺麗とは言えませんが、自由に使ってください」
「本当にありがとうございます。とても助かります」
 慣れない土地でしばらく歩いたせいか、私はとても疲れていることに気がつきました。よく考えればバスでもほとんど眠れなかったので、身体が激しく休息を求めています。
「あと、実はたまたま今日村の会合がありまして、もし良ければ参加しませんか?会合といっても、みんなで和気藹々と食事をするだけなのですが」
 私は一瞬悩みました。できればひっそりと隠れていたいので、村の皆さんと食事をするのは好ましくありません。とは言え、タダで食事をいただけるのはとてもありがたいことでした。何しろ私にはお金はほとんどありませんし、この村自体小さな食堂が一つと、あとは食材を売っているお店が数件あるだけです。私は阿天坊さんの提案を受け入れることにしました。
「それでは、夜にまた迎えに上がります。それまでどうかごゆっくり休んでください」
 阿天坊さんは、私が疲れ果てていることを見抜いているようでした。阿天坊さんと別れた私は、ありがたく宿を使わせてもらうことにしました。宿はかなり昔に建てられたようでしたが、清潔に手入れされており、その辺りのビジネスホテルなどよりは遥かにくつろげる空間でした。
 まずはお風呂に入らせていただき、その後はすぐに敷かれていた布団に入りました。これだけ疲れているのだから、すぐに眠れるだろうと思っていましたが、この24時間のうちに起きた出来事があまりにも非現実的だったからか、心が睡眠を拒否していました。

 今頃、彼の死体は発見されているのでしょうか。それとも、まだ誰にも気付かれず、ひっそりと横たわっているのでしょうか。そして、ココ。哀れな愛猫。私はあの時、たしかにココの声を聞きました。しかし、今思えば気が動転して聞こえた幻聴だったような気もします。どちらにしても、ココは突如飼い主を失い、死体と共に小さな部屋に残されたのです。小さな身体に、あまりにも大きな絶望を背負わせてしまったことを思うと、心が痛みました。
 一方で私は流れ着いたこの村でとても親切な方に出会い、清潔な場所でゆっくりと身体を休めることができます。殺人という許されざる大罪を犯した私には、あまりにも恐れ多い僥倖でした。

 昨日からの出来事を漠然と振り返っていると、ふと喉に魚の骨が刺さったような違和感が蘇ってきました。阿天坊さんに村の案内をしてもらっていた時のことです。違和感の正体をしばらく探って、ようやく気がつきました。
 何度かすれ違った村の方達。彼らは阿天坊さんに気がつくと、とても畏まって挨拶をしていました。その時はただ、阿天坊さんは慕われているのだなと感じただけでしたが、今思えば、彼らは私に一切見向きもしませんでした。
 そんなことはあるでしょうか?いくらたまに移住してくる方が居るとは言っても、ここは人里離れた山奥の村です。見たことのない女が歩いていれば、親切に挨拶はせずとも誰だろうとそれとなく正体を探るのが当然ではないでしょうか。彼らは私に対して、疑念も親愛も嫌悪も一切抱いていませんでした。まるでそこに私がいないかのように接していたのです。私にとってはむしろありがたいことだったので受け入れていましたが、よく考えるとその様子はあまりに異常でした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み