出張(後)【先生のアノニマ 2(上)〜12】

文字数 41,142文字

 ロシア領内から飛来した初弾は、早速ウクライナの各都市を襲撃した。巡航ミサイルは正確にウクライナ空軍の戦力を削いでいるようで、第一報で入った報告は中々ショッキングだった。
"キエフ周辺の空港がやられたらしい"
 合わせて、東部及び北部の国境を越えた陸戦力が早速国境沿いの街を制圧している、とか何とか。
 最も注目すべきは、ベラルーシ側から越境して来たロシア陸軍の動きの速さだった。ウクライナ軍は東部戦線兵力を厚くしており、北部戦線は手薄だった。そこを突かれたのだ。ベラルーシに展開するロシア軍の動きも当然注意していただろうが、要するに兵員不足という事だ。が、それを放っておくと、
「何という体たらくだ。数日でキエフが陥落する速度だ」
 短期決戦が現実味を増す。
 開戦後は各隊各局とも通信が大盛況になったその混乱に乗じて、キエフにいるグリーンベレーと連絡を取り合ったらしい紗生子が、
「こんな有様ではそのまま玉を取られ兼ねん」
 と、口を歪めて悪態を吐いた。大統領制のウクライナで玉といえば、大統領に他ならない。それが取られれば詰みだ。
 俺を含めたテストパイロット三人組には、当然スクランブルがかかった。侵攻作戦では、迎撃力を削ぐミサイル攻撃の後は実機投入しての制空権奪取がセオリーだ。立て込む報告の中で、既にロシアの西部軍管区所属の第六空軍各基地から数十機もの編隊がウクライナ領内目がけて飛び立った、との一報が紛れ込み、慌てて飛び出す格好となった。
 現在地(アドリア海北部)からキエフ上空までは、直前距離で約一五〇〇km。三機とも戦闘行動半径の範疇だ。夜明け前の闇の中を高高度(五万ft)の寸前まで上昇させて、速度と燃費を稼ぐ。XF-39の超音速巡航レベルはマッハ二を超え、単騎ならキエフまで三〇分少しだ。今は三機による編隊行動でありそこまで引っ張っていないが、それでも四〇分そこそこで迎撃領域に到達出来るだろう。が、高度を取る事は良い事ばかりではなく、その引き換えに痛めつけられるのが身体だ。
 高度一万五〇〇〇mともなれば頭上を青い闇が押し寄せ、成層圏といえども宇宙との境目を実感出来る。気圧は地上の一〇分の一、気温は南極の厳冬期と変わらない。コックピットの中は与圧されているとはいえ、それでもキリマンジャロ並みの気圧だ。酸素マスクで呼吸は確保されていても、うっかりすると高山病に陥る。世界の屋根を目指す登山家同様、普通人間が存在し得ない環境下というのは、一つひとつの選択が命を左右する訳だ。
 NATO加盟国のクロアチアとハンガリーの上空を、NATO識別コードで同軍機として予定通り通過。いよいよウクライナ国境に差しかかった段階で、紗生子が用立てた同軍の識別装置に切り替えて越境すると、これまた予定通りウクライナ側からは何のリアクションもなかった。三機ともテスト機とはいえ最新鋭のステルス機だ。見えていないのか、混乱で構っている暇がないのか。恐らく前者だろう。
 隊長機のXF-37は愛称を【ラウム(Raum)】といい、最新鋭の電子支援装置(ESM)を保有。警戒機並みの情報収集能力で支援機機能をも有する文字通りの司令塔だ。高いマルチロール性と最強のアビオニスクを誇る万能大型重攻撃機で、電子戦特化型のハイスペック機故にパイロットがそれを使い熟せない、という有りがちな欠点を持ち、インテリしかまともに扱える者がいない。機体愛称は悩ましいまでの能力から、何かの神話に出てくるカラスの姿になる悪魔の名を引用したとか何とか。機体のコールサインは【ザール(The-R)】。
 他方、テックが乗る編隊長機のXF-38は、ステルス性特化型の大型重要撃機だ。レーダーから完全に姿を消す程のステルス性と、飛行制御システム(フライ・バイ・ワイヤ)に頼る事なく手動で操作し得る限界を同時に追求。その結果、本当にレーダーから消えてしまった一方で非常にピーキーな空力に悩まされる事になった諸刃の忍者は、往年のF-117ナイトホークのようであり、俺が乗るXF-39のようでもある。が、決定的に違うのは先のXF-37同様、コンセプトに対する完成度の高さだ。機体としてはほぼ完成系だが、そこへ如何にして汎用性を含めていくか。二機の立ち位置はそうした状況であり、今この瞬間接頭記号のXを取っ払って実機採用されても何らおかしくない。のだが、プロトタイプと呼ぶにはやはり余りにもピーキー過ぎて、XF-37同様にXF-38もまたテックにしか扱えない困り物だったりする訳で、現状に甘んじていたりする。基本的なスペックは世界最強と名高いF-22を既に超えており、まるで一定の空域を飲み込む闇の如き制圧能力から【オウペイク(Opaque)】の愛称を持つ暗黒の意志は、運動能力の高さと共に視界外長距離攻撃を得意とする恐るべきスナイパーだ。コールサインは【ジョー(The-O)】。
 その二つの親機を従える格好で先行する俺の機体とその役割は、軽戦闘機の高機動力を活かした囮だ。一応次世代を見据えているという取ってつけたような高性能レーダーで、後続二機に成り代わって敵編隊をロックオンしまくった後の俺の機(XF-39)は、当然敵機から逆探知を食らってロックオンされ攻撃が集中する。その間に背後の本命二機が、敵を視界外から仕留める。囮の俺はというと、圧倒的な運動性能で敵機からの攻撃を何とか躱す。この三機だから出来る制圧作戦だ。
 にしても——
 技術者というヤツはサディストなのだろう。そうやって限界を超えてきたのだろうが、機体が限界を超えるのであればそれに乗る人間も常識を超えていかなくてはならないというのに。
 ——ピエロだよなぁ。
 紗生子が名づけたゴースト作戦では、パイロットにも本作戦限定のコールサインが付与された。これまでのプロジェクトでコールサインが漏れている事を警戒しての事だが、そもそも不用意な無線は逆探知されて秘匿性を台無しにする事があるため飛ばす事は少ないというのに、だ。加えて表立っての連携が出来ないウクライナ軍からの陸上支援は期待出来ないとくれば、いよいよコールサインなど帰投時の着艦前に母艦(ドロシー)とやり取りする時だけだろう。その母艦は【ブディノク】、インテリは【オディン】、テックは【ドゥバ】、俺は【トゥリー】、作戦名は【プリヴィド】。何れも順番にウクライナ語でいうところの家、数字の一、二、三、幽霊だ。ウクライナに思いを寄せたという事なのだろうが、それでもやはり使う事はないだろう。作戦行動はブリーフィングで詰めている。編隊飛行している事もあり、必要とあらば接近して手話で済ませる事も可能なのだ。
 作戦マップ上の自機の左手にリビウの表示が近づいたところで後続二機が離れ始めた。これも打ち合わせ通りで一々交信するまでもない。ここからは徐々に高度を下げてキエフ北東方郊外を目指す。
 空の侵攻作戦は、地上レーダーの損耗が顕著でない限り、レーダーに探知されやすい高高度での侵攻を嫌うものだ。かといって、レーダーに探知されにくい低高度侵攻は燃費を食う上、地上兵器に晒される危険を伴う。となればロシア軍はどうでるか。
 恐らくは——
 両方だ。中高度でわざとレーダーに探知される囮編隊の下で、ジリジリと低高度を侵入する本命編隊のセットで攻めて来る。クリミア併合の二番煎じで短期決戦狙いなのだ。それなら物量に物を言わせてレーダーや対空兵器、滑走路、航空機などを波状攻撃で一気に叩こうとするに違いない。
 それに対してウクライナ軍は、初弾のミサイル攻撃で早速空港が叩かれ、出鼻をくじかれている。開戦直後の事ならば、戦況は仕掛けた方が有利なのは当たり前だ。それをどう覆すか。足掻いて抵抗したいところだろうが、俺達にとってそれは好ましくない。少数精鋭という言葉通りだ。無闇に動かれると撃ち分けに労力がかかる。狭い空域で混戦になると、レーダーも混線して見分けが大変なのだ。それが経験の少ないパイロット同士ともなると、同士討ちの危険度は跳ね上がる。自分で言うのも何だが、ウクライナ空軍機の練度が俺達並みとは思えない。
 ——上がって来るなよぉ。
 二月二四日のキエフの日の出は午前六時五〇分。その市街地の南端を掠めた頃には東の空が白み始めた。日の出だ。ウクライナ空軍の静観を念じると同時に
 ——そろそろかぁ。
 と索敵していると、優秀らしいアクティブ()・フェーズ()ド・アレイ()・レーダー()が、やはり反応し始めた。物の数秒で北東方のウクライナ国境を越えたばかりの八編隊を捉えてしまうという、中々呆れた優れ物だ。予想通り上下に分かれているようで、上はSu-27(フランカー)MiG-29(フルクラム)などの囮制空戦闘機編隊。中にはっきり捉えられていない物が何機かあり、それはひょっとするとロシアが開発中の第五世代機Su-57(フェロン)かも知れない。下はSu-35(スーパーフランカー)Su-25(フロッグフット)など、地上攻撃目途のマルチロール機や攻撃機の編隊だ。上下合わせて三〇機を超えている。ちょっとレーダーを上に振ってみると、追加で高高度にSu-27がはっきりと一機見えた。
 ——セオリー通りか。
 数こそ多いが戦術としては俺達がやっている事とほぼ同じだ。一番上のSu-27は早期警戒管制機(AWACS)の役割を担う。
 レーダーでの索敵は双刃の剣だ。敵機を捉える一方で、そのレーダー波を探知した敵機に逆探知されるからだ。現代のレーダー戦闘は、如何に優秀なレーダーを備えるかによって戦局が決するといってもよい。探索能力の優れたレーダーを備える事で、敵機に探知されない距離で敵機を捉える。こちらは敵が見えるが敵からこちらは見えていない、という状況を作る訳だ。が、レーダーのレベルは余程機体性能に差がない限りは似たり寄ったりという現実もある。そこで俺が担っている生贄戦法だ。編隊全機でレーダーを使って丸ごと敵に姿を晒す愚を避けるため、そのうちの一機を犠牲にする。その生贄が収集した情報を編隊内で共有(リンク)すれば事は足りるのだ。
 それにしても何処の余り物か知らないが、この高規格レーダーの性能の良さには今更ながら感心せざるを得ない。旧世代機の物だとこれ程高低に散っている編隊を綺麗に捉え切れるものではないし、探索距離も長ければリスポンスの早さも大したものだ。が、Su-57がいるのであれば、それでもこちらのレーダーは逆探知された可能性が高い。相手は約三〇〇km先だが、第五世代機のレーダーとあらばF-22(ラプター)と同等の探索距離と考えるのが無難だろう。事実、中高度の編隊が俄かに散開しつつある。と同時に、警報音が連続吹鳴し始めた。逆探知されにくい広域スペクトラム送信とやらで、様々な周波数を低出力で放出するレーダーを使っているというのに、敵も然る者だ。もっとも実験機である事をよい事に、細部形状程度は頻繁に変わる機体の事ではある。レーダーを辿られてしまえばステルス性など当てにならないという事だ。
 ロックオンされると早速ぶっ放された。これまた何処からもぎ取ってきた余り物の最先端物か知った事ではないが、デジタルディスプレイの一角にミサイルの表示が現れる。射程二〇〇kmを超えるロシア製の極超音速空対空ミサイルR-37だ。
 何とまぁ——
 雑な使い方をするそれは囮だろう。普通のパイロットなら、射程目一杯の距離なら燃料切れを考える。高性能ミサイルとはいえ、有限のエネルギーで飛翔するのだから当然だ。要するに、俺達の背後にはキエフの街がある訳で、それを質に取った盲撃ちを思わせるそれは如何にも侵略軍らしい。
 ——上等じゃねぇか。
 マッハ五を超えるミサイルの事ならば、相対速度はプラス自機の速度分な訳で、着弾予測は一五〇秒を切っている。早速敵側の先制攻撃で、警告する手間が省けたというものだ。因みに米軍の交戦規定では、作戦領域を侵犯する航空機に対し、攻撃する前にまずは接近して無線での警告が義務づけられているのだが、今の俺達はウクライナ空軍(・・・・・・・)だ。ウクライナ軍にどんな規定があるのか知らないが、先制攻撃されて防御反応を示さない軍などある筈もなければ、やられたらやり返すのは世界の常だろう。
 俺はそのまま向かって来るミサイルに向かって突き進んだ。あっという間に着弾予測のカウントが進むが構わない。いよいよそれが目の前に迫ったところで、横転(ロール)機首上げ(ピッチアップ)を同時に行うバレルロールと呼ばれる機動(マニューバ)で躱すと警報が止んだ。普通はこんな心臓に悪い躱し方はやるものではないし出来ないものだが、そこは恐るべき高機動力を有するじゃじゃ馬(XF-39)ならではだ。但し、そのGに耐え得る身体が出来ていれば、の話だが。ミサイルは恐らくそのまま落ちていった事だろう。民家に落ちない事を祈るばかりだ。
 この時点で敵編隊との距離は二〇〇km。初弾を躱したところでまたロックオンされ、今度は同じミサイルを時間差で二発撃たれた。今度のヤツは、射程内の本気弾だ。セオリー通り旋回して躱さなくては、キエフ周辺の市街地へ着弾する恐れがある。
 それにしても、
 ——ひでぇなこりゃあ。
 目立ってなんぼの囮役とはいえ、こうも簡単にロックオンされるステルス機とは何なのか。じゃじゃ馬だからこそ務まる囮機兼早期警戒管制役なのだが、それには人間が乗っている事を忘れてはならない。この作戦を考えるヤツといい、それを実行させるヤツといい、とにかく鬼だ。
 今度は着弾寸前まで水平旋回で逃げ、最後にチャフをばらまいて二発とも躱すと、ようやく敵編隊が混乱の様相を呈し始めた。こっそり敵編隊の背後に周り込んでいたインテリとテックが、満を持してミサイル攻撃を開始したようだ。流石に背後から狙い撃ちすれば躱せるものではなく、次々に敵機がレーダーから消えていく。あっという間に管制役を担っていた一機になった。相対距離五〇kmで尻を向け、アフターバーナーを使用し最高速で逃げるその背後に一気に肉薄する。従来機の機動性をイメージしていただろうそのパイロットは、その速さに肝を潰した事だろう。戦闘機の仕様上の最高速は精々数分しか維持できない。それだけ燃料を食うからだ。が、じゃじゃ馬は少なくともその三倍はマックスで飛べる。もっともやはりパイロットの身体が持てば、の話だが。
 脱兎は形振り構わずふかしたためかガス欠に陥ったらしい。大編隊で攻め入って、思わぬ結果にパニックに陥ったのだろう。無理もない。みるみる失速したその兎を、二分とかからず試験開発中の小型精密誘導弾の射程に捉えると、一撃で仕留めた。軽戦闘機で貧弱な兵装を補うためのそれは、驚く事に五〇mm機関砲の単砲身から発射する。長さ五〇cm、重量二kgの誘導弾は、事実上の空対空ミサイルだ。その弾の精度もさる事ながら、旧世代型の戦車並みの砲を備えている事事態が異常と言わざるを得ないのだが、それを実験機の一言で片づける技術陣は大出鱈目だ。その砲からはその口径に合致する従来型の五〇mm砲弾も撃てるし装備もしているのだが、中々とんでもない反動で流石に実戦で使う気にはなれない。
 戦闘時間、実に一〇分。油断していた訳ではないが、概ね予想通りの戦果だ。自分で言うのも何だが、三機とはいえ機体もパイロットも癖強の強者揃いなのだ。それに経験が備わっていればレベルの差は開く一方であり、結果はこうも残酷だ。一切の言い訳が通用しない、これも一つのプロフェッショナルの世界。何であろうと今は容赦なく叩いておかないと、ウクライナ側が浮き足立っている間に首都まで攻め入られては文字通り元も子もない訳で、その峻烈さに言い訳するつもりはない。精々ここは敵に恐怖を植えつけ、その戦力を削げるだけ削いでおく。戦術航空機とそのパイロットは、多くの兵器兵員の中で極めて少数の有限資源だ。これを削ぐ事は短期決戦を狙うロシアには痛手であり、ウクライナの命運を繋ぎ止める援護射撃となる。俺達はそのための幽霊だ。
 少しするとインテリとテックが寄って来て、南東方へ向かって手を振った。とりあえずの目的は果たした。一旦帰投だ。インテリとテックの兵装は従来型(・・・)の機関砲を除いて空っぽだろう。帰りの道中で何事かあれば、唯一兵装を維持している俺の出番だ。が、帰りもウクライナ軍は全く音沙汰なかったし、極秘作戦の尻尾を掴まれないためウクライナ軍機(・・・・・・・)のままNATO圏内に入ったというのに、何も起こらなかった。恐らくはそれも紗生子が秘密裏に手回しした、その賜物だろう。
 アドリア海が見えて来た辺りで完全に夜が明けた。三機とも無傷で、特に俺は兵装も整ったままである事から、また出撃する事になるだろう。ロシア軍がこのまま引き下がるとも思えない。折角撃墜王を返上したばかり
 ——だってのになぁ。
 数に拘っている訳ではないが、周りが勝手にカウントしているそれは、今朝の出撃でインテリとテックがごぼう抜きした。二機で八編隊も撃墜したとあらば、世が世ならあっという間にスーパーエースの英雄だ。もっとも表に出る記録ではないが。
 ——やれやれ。
 別に俺は英雄なんかになるつもりもなければ、なりたくもないというのに。優れたエージェントである兄がひっそり山奥で隠棲している例のように、適材適所とは本当に難しいものだ。
 母艦(ドロシー)に戻ると、他の地域の戦況が明らかになった。何と俺達が守った空域以外は押し込まれっ放しらしく、空陸を西部国境を除く三方から攻め込まれたウクライナはみるみる領土を縮小。最も深刻なのは北部戦線で、何とキエフの目と鼻の先まで迫っているらしい。
「さっきまでその空域にいたんですが?」
「陸軍の動きが早い。まぁ攻め手は用意周到で守り手は手薄だったんだ。当然といえば当然だな」
 制空権を狙う北東方からの空軍侵攻作戦を食い止めている裏側で、北西方の陸路を一気に二個師団が攻め入った、とか。再出撃準備(インターバル)中に用足し後再搭乗した俺に、艦のインカム経由で紗生子が事もなげに教えてくれた。やはりウクライナ軍は東部侵攻軍の応戦で手一杯のようだ。それにしても同盟国の士官とはいえ紗生子は正規クルーではないのだからあくまでも客分の筈なのだが、インカムにまで入ってくるとは。いつの間にかCIC(戦闘指揮所)で市民権を得た、という事だろう。
「それにしても帰って来て早々トイレとは。流石の平常心だな」
「逆ですよ。出すモン出しとかないと、ひどい事になりますから」
「次はウクライナ側も迎撃に上がるそうだ。同士討ちに気をつけろ」
「了解です」
 開戦当日、ドロシーから再出撃したのは俺とじゃじゃ馬(XF-39)だけだった。完全な白日の下で極秘開発中の機体を晒すのもどうかと思うが、乱戦の中でまじまじと機体を見る余裕があるパイロットも
 ——まぁいないか。
 今度はステルス性を活かして、こっそりとウクライナ軍をサポートする黒子のような動きが肝要だ。派手に目立っては幽霊でなくなる。気がついたらやられている。その不気味さが恐怖を生み、ひいてはそれがキエフの空を守るのだ。
 その後も、各地の戦況が思わしくない中俺達三機の幽霊は何度となく出撃し、キエフ近辺の制空権を守り続けた。キエフに近づくと何かに取り憑かれたように撃墜される。この不気味な現実はその後俄かに
「【キエフの幽霊】? ですか?」
 という怪しいプロパガンダとして語られ始める事となる。誰が言い出したものか、如何にも戦場でよくありそうな伝説だ。が、俺が知る限りではその発信源は、
「反転攻勢の景気づけだ。極秘作戦とはいえ、これぐらいの伝説は許されてもいいだろう」
 と、得意気に語りつつも、すっかりハンガーの休憩室に出入りする事がお馴染みになった紗生子だったりするものだから、迂闊な事は言えなかったりする。
「いやぁ——」
 目立つ事になっては敵味方問わず狙い狙われ、色々と面倒臭くて嫌なのだが。思わず苦虫を潰す俺を見た紗生子が、
「ははは」
 と破顔した。
「言わんとする事は分かる。大丈夫だ。手柄は全部ウクライナ軍にくれてやったからな」
 ウクライナ空軍パイロットの伝説として情報操作しているらしい。加えてロシア軍は、
「著しい損耗の揉み消しに追われて我々を突き止めるどころの騒ぎじゃない」
 とか何とか。
「でも、そろそろ引き際だろうな」
「は?」
「尻尾を掴まれる前に、まさに幽霊伝説のまま消えてしまわないと後が面倒だ。ウクライナ側の反転攻勢も活発化し始めた事でもあるし——」
 と言った紗生子が一度言葉を切ると、
「——そろそろ学園に帰ってやらんとな」
 と小さく鼻で笑った。

 翌月、三月初旬。
 ブリーフィングルームに揃った首脳陣とパイロット達の前で、紗生子はとんでもない作戦を口にし始めた。それに首脳陣が思わず
"アントノフを取り返す?"
 と、おうむ返しする。それだけではない。やはり早々に制圧されてしまった北部のチェルノブイリと南部のザポリージャ両原発も同時に攻撃するつもりらしい。突如議題に上がったその暴論に喧々諤々(けんけんがくがく)とする中で、俺の隣に座っていたテックが、
「お前の嫁さんは、とんでもねぇ事をサラッと言うな」
 と呆れてみせた。
 ここ何日かはその嫁さん(紗生子)の言う通り、確かにウクライナ軍による反撃が散見され始めている。が、開戦から一旬。ロシア軍の早さの前にまごついていた代償は大きく、その勢いを押し返すまでには至っていない。それどころか、制圧された地域を追われる国民の惨状が大きく報じられるばかりで
「貴様らは不感症か!?
「ぶっ!?
 と、意見を通り越した紗生子の思いがけない下ネタだ。思わず噴いた俺に反応する者は誰もおらず、
「我々の装備とスタッフは、この戦局を覆す力を有しているのだぞ!?
 この為す術もなく逃げ惑う名もなき民を見て何も感じないのか、とまあ、実に感情論で突っ走る紗生子の独走状態。
「感じない訳ねぇだろ。何なら俺と試してみるかい?」
 隣に座るテックが堪り兼ねたように独り言ちたが、やはり誰も相手にせず。紗生子の独演は止まらない。
「現状の防戦ラインがデッドラインだ。これ以上西部を除く三方から押し込まれると、各方面軍の合流を許す事になる。そうなるともう止めようにも止められん。あっという間に首都キエフを含めた国土の東半分が落ちる。短期決戦を目論むロシア側の思う壺だぞ!」
 それは分かっている。が、総勢二〇個師団、二〇万人を超えるとも言われる軍勢に、たった三機で
「出来る事はねぇと思うんだがなぁ」
 とテックが、今度は両手を後頭部に回して、椅子の背もたれに踏ん反り返った。
「最前線に到達している敵は数十万の軍勢の極一部だ」
 狙いを定めた三拠点に居座る軍勢は多く見積もっても精々旅団規模だ、とか言っているが、それでも数千を超える軍容に三機で挑もうとする紗生子の立案は、
「中々ぶっ飛んでるな、お前の嫁さんは?」
 最早、弁明しようがない。
「陸上支援は?」
 それでも努めて冷静さを保とうとするインテリが、重そうな口を開いた。
「三箇所とも対峙しているウクライナ軍が呼応してくれる事を祈るのみだ」
「やはりこれまでと同じですか」
 流石のインテリも、目を瞑って深い溜息を吐く。
 ウクライナ軍の蛇の目(ラウンデル)と識別装置をつけているとはいえ、それだけだ。辛うじて同士討ちを避けるだけの気休めでしかなく、孤立無縁の完全独立部隊である極秘プロジェクトの極秘作戦である以上、支援もクソもない。NATO非加盟のウクライナに対する米軍派兵が超大国同士の戦争に結びつく可能が高い現状、ウクライナ正規軍と表立った連携など出来る訳もなく、だからこその幽霊(プリヴィド)作戦なのだ。
「始めから分かっていた事だぞ。何を今更弱気な事を」
「我々の任務は、ロシアの短期決戦の目論見をその鼻先で挫くだけだった筈です。これ以上の無理は——」
「だからこそだ!」
 懸念を吐くインテリの口先を、紗生子が乱暴に遮った。
「これ以上の実験機会(・・・・)は中々ないぞ? 原点を忘れるな」
「——あくまでテストケース(・・・・・・)だとおっしゃる訳ですか」
「そうだ。このままおめおめ帰国したところで誰も褒めてはくれんぞ」
「実験とおっしゃるには余りにも——」
「人命を弄んでいるか?」
 笑止した紗生子にインテリが絶句する。二人の視線が交錯すると、僅かにインテリの気配が揺らいだように感じた。
 ——分かるなぁ。
 あの魔女に睨まれて色々な意味で適う男など、この世に存在するのだろうか。
「この見た目は望んだ訳ではないが、どうも人の目を曇らせていかん。どうやら軍人として甘く見られていたようでもあり、私の見映えが艦内における軍人としての矜持をも曇らせてしまったようでもあり——」
 実に由々しい事だ、と色々と言いたい放題な紗生子に口で適う者も、少なくともこの場には存在し得ないだろう。
「あえて繰り返すが、原点を忘れるな。このプロジェクトも極秘作戦も、それに携わる官民の全てはアメリカという超大国があってこそだ。その超大国の尖兵が、ここで意地を見せなくてどうするか。蹂躙されるウクライナにここで手を差し伸べなくて何がアメリカだ!」
 誇り高い米軍人の矜持をなぶり、くすぐるような論点のすり替えは、母国を信奉する軍人にはケツの穴がむず痒いだろう。極東の小娘に好き放題言われて
 ——何処まで我慢出来るかな?
 紗生子の事だ。よもや破局させて終わらせるような状況ではない事ぐらい理解しているとは思うのだが、それにしては相変わらずの口の悪さが目立つ。出席幹部達の顔色は赤く、鼻息も荒いような気がするのは、気のせいではないような気がするのだが。
 ——どうするんだろうねぇ。
 何と言われようがどう転ぼうが、俺は命に従い言われた事をやるだけな訳で。国を変え所属を変え、流れに流れて来た俺としては怒鳴られる分だけ
 ——損なんだがなぁ。
 その境地に達していない諸兄が気の毒に思えてくる。何せ紗生子はアイリス(米国副大統領)の命を良い事に、やりたい放題やるつもりなのだ。本人も言っていたように、クルーの面々に個人差こそあるだろうが、その外見に少なからずの油断を促し、同時進行で識別装置の件のように着実な実績を積み上げられた時点で紗生子の土俵なのだ。委任された権限の大きさと手堅い成果は、艦内における権力を醸成する何よりのまやかしだ。
 ——だってスパイだもんなぁ。
 そのあたりの立ち位置の確保など、紗生子にかかれば朝飯前だろう。後は刃向かった分だけなぶられるだけ。挙句の果てに屈服させられて、やる事やらされるだけ。つまり、出始めが疲れた分だけ疲労が嵩むだけだいうのに。
 まぁそこまでやられないと——
 男のプライドが小娘を前に往生する事はない、という事なのだろう。
 その間にも紗生子の独演会は続いている。
「歴史的にドニプロ・ウクライナと呼ばれる国内を南北に貫くドニエプル川流域を中心としたウクライナ中央部は、文字通り国家の中軸だ。様々な産業を支える都市が連なり、天然資源の集積地でもある。何といっても国民にとっては大事な農産地だ。国旗の意味が分かっていればあえて説明するまでもないと思うが」
 そのウクライナ国旗の青と黄は、青空の下に広がる麦畑を意味する。
「歴史的な大飢饉を経験させられた国家と国民が、世界に誇るその肥沃な黒土地帯(チェルノーゼム)の恵を奪われた悲劇をよもや知らんとは言わさんぞ」
 旧ソ連のスターリン政権下、ウクライナの農村地帯から強制的に食糧を没収した事によって発生した人為的な大飢饉による死者は、実に数百万人にも上る。国民の五人に一人が犠牲になったと言われるそれは、今では大虐殺(ジェノサイド)だったと認定される向きが極めて強い、痛ましい負の歴史だ。
「冬小麦は収穫目前、春小麦ととうもろこしは作付け目前の今、ここを荒らされる事はウクライナ国民に飢えろと言っているようなものだ。偶然か必然か、それを妨げる相手はまたロシアときている。今この時、ここを守らずして、諸兄らはウクライナ国民にどう申し開きをする? 弱き民は暴力の前に死す外ないのか? 民を守らぬ軍人に存在意義があると言えるのか!?
 それをやるのはウクライナを守る義務を有するウクライナ政府でありウクライナ軍であって、少なくとも米軍ではないのだが。誰も反論しない。少なくともそれが理解出来ない者は、俺が知る限りこの艦にはいない。
 人類はその歴史の歩みの分だけ戦いに明け暮れてきた種族だ。弱肉強食の摂理は高度文明を築き上げた人類とて例外ではなく、二一世紀を迎えて尚、力こそが正義と言って憚らない者の何と多い事か。それは紗生子も同じだろうが、違うのは戦い方だろう。紗生子は人も使うが自分も動く。凄まじいハードワークのプレイングマネージャーだ。それを、この艦のクルーも短期間で目の当たりにさせられてしまっており、何も言えない。
「この現実を前にして、国際社会は何をしている? 国連安保理は何をした? 精々機能不全を言い訳に不作為で侵略を黙認したぐらいだろう? それが国際正義のあり方なのか? 国際秩序とはその程度なのか? 世界に数多ある国家群が雁首揃えて高々一国の国民を庇護出来ないとは何という体たらくだ? それで国民を預かる国家を語れるのか?」
 この暴虐を許したら次々と猿真似をする輩が現れる、と言いたいのだろう。今日のウクライナは明日の何処、という事だ。日本も米国も人ごとではない。両国にとってロシアは隣国なのだ。だからこそ、始めが肝心なのだ。目には目を。善悪をとやかく論じている間に侵略は火の如く進む。国家間の法や決まりはまだ熟れておらず実効性も低い。無用の長物とまでは言わないが、穴だらけで肝心な時にはまるで用をなさないそれは、まさに馬の耳に念仏、犬に論語のようなものだ。紗生子がぐだぐだ言っているのは、そうした暴虐に対する鉄拳だ。
「改めて反論があれば聞こう。よもや自由民主主義の盟主が、ウクライナ国民に二度までも人為的大飢饉(ホロドモール)の屈辱を受け入れろと言えるのならな。それによって短期決戦で終わってしまったならば、本音(・・)でも相応の痛手を被る事だろう。兵器特需も復興利権獲得の目論見も水泡と化すのだからな。そこのところをお国に戻ってどう申し開きをするつもりなのか。まぁ極東の島国の箱入り娘にとっては知った事ではない」
 戦争が長引けば、支援のための兵器の需要が急増し、世界を代表する軍需産業大手を抱える米国は潤う。復興利権とは即ち国土と資源の獲得だ。長期的視点で様々な理屈を捏ねて世界の利権を獲得してきた米国の過去の行いは、必ずしも正義とは言い難い。形振り構わぬ問答無用のゲンコツとまでは言わないが、言い訳がましい大義名分による世界進出は褒められたものばかりではなく、むしろその後ろめたい過去の仄暗い行いを真似する国家の出現を招いた、と言う事も出来る。戦いの本音は、結局のところ金だ。
「流石にその御年(・・・・)で提督だけの事はある、という事のようですな。実によく回る舌をお持ちだ」
 しばらく黙って聞いていたテックが、踏ん反り返ったまま呟いた。
「回るのは舌だけではない。頭も忘れてもらっては困る」
「まぁね」
 揺るがない紗生子に、堪らず両手を広げて首を振りながらおどけてみせるテックが、やり場のない何かを晴らすために隣の俺を睨んでくれる。言葉が見当たらないようだ。
「まるで【マクナマラの誤謬(ごびゅう)】だ」
 その入れ替わりでインテリが呟いた。
 ——うわ。
 それは凄まじい地雷だ。
 彼のベトナム戦争時代に国防長官として米軍を敗北へと導いた、という不名誉なゴシップが死後も尚消えないその男は、データ分析の天才として彼のケネディ大統領に乞われてそのポストに就いた生粋のエリートだ。数字だけしか目を向けず、数字に引き籠った事がその失策の最大の原因とされるが、要するに数字の向こう側の命と向き合わなかった。紗生子と比べれば典型的な
「あれは事務屋だろう。私は違う」
 という事なのだが、怪しい誘惑を企てるナイトメアに対するインテリなりの痛烈な皮肉を、紗生子にしては大人しく返したものだ。
「学者にありがちな致命的な欠点を物の見事に露呈した悲しい男だ」
「あなたはどう違うのですか?」
「数字は生き物なのさ。最初はマクナマラ本人もそう思っていただろうが、次第に向き合う事が怖くなったんだろう。数字の向こう側に見え隠れする膨大な命に気づいた時、初めて数字に踊らされていた事を自認した。それにしても、言うに事欠いてマクナマラの誤謬ときたか。もう少し私の事を理解してくれていると思っていたんだが、これはやはり私の至らなさだな」
 と小さく鼻で笑った紗生子が、
「物のついでだ。少し生臭い話をしようか」
 インテリの納得の所在に構わず、立て続けに尚も捲し立てる。
「専制・権威主義国家を対立軸に置いた自由民主主義国家の優位性を保つためには、熱狂的なプロパガンダだけでは成し遂げられないものだ。そもそもこの極秘プロジェクトや幽霊作戦自体が、そうした本音を如実に物語っているではないか。建前は建前。本音は本音。如何にも姑息な日本だけの概念のように囁かれているが、アメリカは違うとは言わさんぞ?」
 例えば欧米はこれまで、原発用の精製ウランを安価なロシア産に頼っていた。精製技術を持つ国は少なく、しかもそれは高価だ。そしてウクライナは、天然ウランの埋蔵量が少なくない。これが何を意味するか。またウクライナは半導体製造に欠かせない(レア)ガスの一大産地だ。この戦禍で顕在化するウクライナが世界を支えていた物は、何も小麦やとうもろこしだけではない、等々。
「切りがないから略すが、地理は諸科学の母だ。軍人にとっては必須だろう。ナポレオンもヒトラーもロシアの後退戦術の前に敗れた事でもある。一般的にはそれに哲学も加わる事は諸兄もご承知の筈だ。誰の思想か分かるな? 少佐?」
 と、わざとらしくも紗生子が目をすがめて俺を見てくれる。ここで恥をかかせたら許さんと言わんばかりだ。
「カントとクラウゼヴィッツです」
 ドイツ観念論という、何とも理屈っぽい哲学の祖と、その影響を強く受けた非常に実用的な戦術書【戦争論】の編者だ。特に後者のそれは、発行から約二〇〇年という年月を経た今も尚、未だに各国の士官学校の学生が必ず教材として一度は見かける優れた名著と名高い。
「宜しい。クラウゼヴィッツも出るところは流石は士官と言っておこう。まぁこの場にいる諸兄は全員佐官以上なのだから、何も私が改めて説教がましく捲し立てずとも、十二分にそれを習熟しておられる筈だ。頼もしく思う」
 ——うわ、出た。
 要するに、この場の全員に対する凄まじい嫌味だ。特に俺やテックは正規昇進者ではなく、傭兵としての一芸を認められた特別昇進者であり、正規士官が受けるような教育の一切を受けた事などないのだ。
「やれやれ。ホント言いたい放題だな」
 その対象者の片割れであるテックが、またあからさまにぼやいた。それでも一応、戦地昇進扱いという事で正式な階級である事に変わりはないのだが、事ある毎に一時的な野戦任官者の如き成り上がり者との蔑みを受ける事しばしば。それは俺達のような者や、過去の激戦の最中に重責を担った野戦任官者達を愚弄する二重の罪なのだが、そう言う事を言うヤツにそんな認識などあろう筈もなく。
「勘違いするな。君達二人が特別昇進者である事は知っている。そう自分を卑下するものではない。正規兵以上の活躍振りだからこその今の階級なのだ。事実正規の士官教育を受けずとも、私の言う事を理解出来ているだろう?」
「そりゃあ、サルじゃござんせんからね。我々は」
 と、堪らず嘆息するテックでなくとも思わず感情で反論したくなる。紗生子のやっている事は、正論と精神論で誘導し、特攻を焚きつけているようなものだ。
 ロシア軍の総兵力は一〇〇万を超えると言われる。そのうちウクライナに動員された兵力は五分の一の約二〇万。その中でベラルーシ側から侵攻した北方軍は二個師団、少なく見積もっても二、三万。その東隣のロシア国境側から侵攻した北東軍を合わせると、キエフ近郊に迫る兵力は少なくとも五万を超える。
 一方で、南部侵攻軍のクリミア常駐軍も北方軍と同程度との見立てであり、東部軍の一部と合わさって総勢はやはり少なく見積もって五万。残りの一〇万が東部軍という事になるが、ウクライナ東部のドンバスは、二〇一四年のクリミア併合時から戦闘状態が続く地域であり、実数は更に多いと思われる激戦地でウクライナ軍が主力を向けたのは当然だ。
 よってウクライナ側のケアが追いついていない北部と南部の最前線を狙う事は理解出来る。が、一〇万に対してたった三機で急襲とは、余りにも桁が違い過ぎるのではないか、という話なのだ。
「愚痴ってばかりじゃ始まらんな。散々言い散らかされたからには、それなりの作戦をお持ちなんでしょうな? 提督?」
 忌々しげながらも辛うじて丁寧な言い回しで迫ったテックに、紗生子がクラウゼヴィッツの名言の一つを紐解いてくれた。
「——大胆な者は大胆でない者に対して常に勝つ。頼むぞ名参謀(・・・)諸君!」
 クラウゼヴィッツの戦争論に出てくる名言は他にも数多あるが、決してポジティブなものばかりではなく、
「あれは絶対にわざとだな」
 テックの反対隣に座っていた、普段は余り不満を見せないインテリも、流石にあからさまに嘆息してみせた。
「すぃません。後で叱っときます」
「出来るのか? あの嫁さんに対して?」
「——出来ません。すぃません」
「そこの二人! 何をこそこそしている!? 将帥(・・)は決断した。後は参謀が輔佐(・・)する番だ」
「はぁ、すぃません」
 以下はやはり、クラウゼヴィッツの戦争論にある一節の抜粋だ。
"いかなる名参謀も、将帥の決断力不足だけは輔佐できない。"

 同日、夜。
 夜陰に塗れて出撃した三機は、紗生子の作戦プランに則って、まずはすっかりお馴染みになったクロアチア、ハンガリー経由でウクライナへ向かった。ウクライナ空軍機の俺達の動きは、両国にはNATO軍基地とキエフを往復する連絡機として通告されているらしかった。とはこれも、紗生子の手回しのようで、本当にその手際の良さには恐れ入るばかりだ。
 で、ウクライナ領内に入った直後、事前のブリーフィング通りインテリのXF-37(ラウム)が離脱。単独でザポリージャへ向かい始めた。最も激戦が予想されながらも最前線に原発を抱え、デリケートな作戦行動が要求されるその地への派遣は、マルチロール機にして電子戦特化型というその充実した兵装にして頭脳を有するラウムと、唯一その性能を余す事なく引き出す事が出来るクレバーな指揮官たるインテリのコンビ以外に有り得なかった。
 じゃじゃ馬(XF-39)のピーキーな主翼を軽くバタつかせてその隊長機を見送ると、今度は間もなくやって来たキエフ近郊で、その南縁を時計回りに舐めて北方チェルノブイリへ向かうテックのXF-38(オウペイク)と別れた。北方・北東方からの侵攻軍は既にキエフの東隣まで到達しており、その最前線兵力の孤立化を狙い、ロシア軍勢力下の上空を抜けて北方・北東侵攻軍の拠点を叩こうというその過激な作戦は、ステルス性特化型の大型制空戦闘機にして精密なロングレンジ攻撃を得意とするオウペイクと、それを使い熟す技量と度胸を有するテックにしか任せる事が出来ない、これまたシビアな作戦だ。ブリーフィング時には、
「原発への攻撃は国際法に反すると思うんだが——」
 そこは流石のテックも、法に準ずる姿勢を見せたのだが。
「攻撃するのは原発に居座るロシア軍であって原発ではない。仮に原発を攻撃したと見做されようものなら、正義に合致せず悪を擁護するような法などクソっくらえという事だ!」
 片や法と正義の概念をちらつかせてくれた紗生子の答えは、とても弁護士とは思えない軽薄な痛罵だったりした。
 ——テックさんも大変だ。
 思い出すだに一々無茶苦茶な作戦だ。せめて三機による合同作戦であればまだマシなものを、
「同時多発的に反転攻勢の狼煙を上げ、攻め入るロシア軍に一泡吹かせる事が目的である以上、それは認められん」
 曲げない紗生子によって却下され、やはりテックの編隊長機ともここでおさらばだ。今度は俺の方から左旋回して別れ、左に二回ロール(七二〇度)して見送る。
 そのまま失速寸前まで速度を落として急降下させると、一路北のアントノフ国際空港を目指した。そこは北方侵攻軍の最前線拠点であり、キエフの大統領府から直線距離で実に約三〇kmという、文字通りのウクライナ中枢と目と鼻の先にして、防衛側からしてみればまさに待ったなしの状況下だ。
 そこの奪還作戦は、余り者の俺とXF-39(ヒートヘイズ)が当てられた。その貧弱な兵装ながら、
「機動力を活かしてとにかく飛び回って叩き、空港機能を無力化しろ」
 という作戦は、前者二機でなくとも可能である事から俺達とじゃじゃ馬(ヒートヘイズ)が担当する事になったのだが、実はその作戦には驚くべきオプションがついていた。
「私も同乗する」
「はあっ!?
「ザポリージャとチェルノブイリはある程度叩ければ十分だが、アントノフは最低でも壊滅。あわよくば奪還せねばならん」
 失敗出来ないから紗生子も向かう、とは出撃前ブリーフィングの駄々捏ねの一幕だ。
「急に無茶言わないでくださいよ」
「無茶なものか。航法と管制ぐらいなら出来るぞ。いきなり電子戦は無理でもな」
 タンデム(二人乗り)飛行は訓練を除くと、デジタル化が進んだ現代の戦闘機では少数派だ。例外の代表例は、米海軍のEA-18G(グラウラー)電子戦機だろう。育成に時間がかかる電子戦に特化した士官を後席に乗せて飛ぶ。因みにインテリはそれを一人でやっているという出鱈目振りなのだが、そんな例外はさておき。
 タンデムは電子戦という特殊任務故の例外なのであって、普段単独で飛べる機体にわざわざ二人が乗り込んで任務に赴く事は基本的にはない。じゃじゃ馬がタンデムなのは、あくまでも実験機だからだ。その様々なデータ収集のためであって、二人で戦地に向かうための物ではない。機体同様に乗員も育てている実情からすると、むざむざ二人の命を危険に晒す愚は有り得ない訳だ。
「わざわざ二人で死地に向かう事はないでしょう?」
「死なば諸共だ」
「真面目な話ですよ?」
「それはこっちの台詞だ。私が後塵を拝するような人間ではない事はよく分かっているだろう」
「それはそうですが——」
 足手纏いと言っては、余計逆をいく紗生子だから始末が悪い。いくら紗生子が万能型の天才といえども、戦闘機の乗務は頭脳だけでは務まらないのだ。
「気持ちは分からんでもないが、止めておいた方がいいですよ提督」
 そこへテックが割り込んで来た。
「あのじゃじゃ馬の動きは素人さんにはハード過ぎる。目ん玉が飛び出すぐらいならまだマシだ。下手すりゃ内臓を吐き出し兼ねん」
「大丈夫だ。前にも同乗した事がある。EA-18G(グラウラー)だが」
 グリーンベレー時代に経験済みらしい。あらゆる作戦を想定する特殊部隊の特質だろう。にしても、
「グラウラーとヒートヘイズじゃ比較になりませんぞ? 兵装が貧弱な機体の生命線は、それを補って余りある機動力(マニューバ)なんだ。アンタが一緒に乗る事で旦那(・・)の良さを殺す事になる」
 という事だ。如何に無駄弾を撃たず、目標に肉薄するか。それにはプロペラ機の如き軽快さと、次世代をターゲットにしたハイパワーのターボファンエンジンを備えた軽戦闘機の曲芸飛行(アクロバット)を駆使する必要がある。が、躊躇なくそれを使えば中々殺人的だ。素人ならゲロぐらいでは済まないのだが。
「くどいな。私は素人じゃない」
 それでも紗生子は怯まない。紗生子は紗生子だ。
「いくら一騎当千の凄腕パイロット達とはいえ、私の命で死地に赴かせるんだ。人の褌で相撲を、それもとらせてばかり(・・・・・・・)では流石に情けない。たまには自分でとらんとな」
 とその褌姿を想像してしまい、鼻が緩みかけては、
「うっ」
 と思わず前屈みで手を被せる。
「何やってんだ?」
 そこをテックに突っ込まれる一方で、紗生子が訳知り顔でケタケタ笑った。まあそれはよいとして。
「作戦が失敗すれば死んで詫びるだけさ。そうなればこのプロジェクトも極秘作戦も発覚する事になるが、死人に口なしだ。私程の身分なら、この首一つで全責任を取り切れる。全てを私のせいにすればいい」
 紗生子の意志は固い。
 極秘プロジェクトを請け負っているイーグル社も、極秘作戦の総責任者たるアイリス(副大統領)も、紗生子に現場を預けているその理由はその後ろ盾(パトロン)たる相談役(フィクサー)の存在故だ。そのパトロンなら、現場で何があろうとも後始末をつける。その信頼故だろう。他方、そのパトロンからも現場を預けられている紗生子は最強な訳だ。尻拭いが確約されている作戦ならば、思う存分好き放題するだろう。そこで躊躇するような紗生子ではない。という事は、
「そうは言いましても——」
 何を言っても無駄だ。
「分からない奥さんだな。何もアンタのせいにするつもりはないんだよ。アンタが出て行くと、作戦成功率が落ちるって言ってるんだ」
「分からないのは中佐(テック)だぞ? アントノフは成功率よりも成果を優先しないといけないんだ。ここを一大拠点にされればキエフは落ちる。それを食い止めるために私は行かなくてはならないんだ」
「何を企んでるか知らんが話にならん。お前、よくこんな女と一緒になったな」
 俺はもう知らん、と流石のテックも呆れて出て行ってしまった。
「——ホントに乗るつもりで?」
「天才のやる事は、時として理解されないモンさ」
 言い出したら聞かないのは何も今に始まった事ではない。結局、俺のじゃじゃ馬(XF-39)には人間のじゃじゃ馬( 紗生子 )までついて来てしまった。で、キエフ西縁をじわじわと、鳴りを潜めて北進する今に至る訳で。
「それにしても、このピーキーな機体をよくもまあくるくると器用に乗り熟すモンだな」
「はあ、そんなモンですかね」
「コンコルドも空力制御には苦労したそうだが」
「詳しいですね」
 それを例に出してくる紗生子は、流石に少しは事情通らしい。
「資格がないだけで操縦の理屈は知ってるからな。この形状じゃあ()が暴れて大変だろう?」
「まあ」
 そんな事はあるのだが。
 機体形状は、上から見ると殆どダーツの矢だ。翼の形状としてはデルタ翼、という事になるらしい。より詳しくは翼端を切り欠いたカットデルタ翼なのだそうだが、それを持つF-15(イーグル)F-22(ラプター)の変形デルタ翼などと比べると、そんな立派な物ではない。紗生子が言うように、往年の超音速旅客機コンコルドのオージー翼の端をカットしたような、そんな具合で、分かりやすくはトランプのダイヤの先端を引き伸ばしたようなイメージだ。常識的には先尾(カナード)翼がなくては飛べないレベルらしい。確かに離着陸時の揚力不足は否めず、事実それを補うためにそれ(カナード)をつける戦闘機は多く存在する。が、次世代機に挑戦するじゃじゃ馬にそれはナンセンスだ。カナード翼はステルス性を落とす事もあり、実験機である事をよい事にシンプルにスマートに。削れる物はとことん削っている。
「超音速では割と素直ですよ」
「それをターゲットに開発されたんだから当然だろう」
 要するに、デルタ翼の特性である加速性・高速域での優れた運動性能を引っ張り出せるだけ引っ張り出し、後の欠点はパイロットの技量次第、という偏屈物だ。
「まぁ戦闘機らしからぬ美観は嫌いじゃないがな」
 よりシャープに、よりアグレッシブに。そんなチャレンジングな試みが、奇しくも米軍機にあるまじき洗練された機能美を具現化させた。のだったが、
「あなたに褒められたと知れば、設計の連中も喜びますよ」
「使い古しの部品の寄せ集めで、よくこれだけの物を作ったモンだ」
 信じられない事に中身は紗生子の言う通り、新技術を極めた兄貴分達(XF-37•38)と比べると、衝撃的な程に継ぎはぎだらけだったりする。
「ますます君にそっくりな機体で気に入ったぞ」
「はあ」
 俺に言わせれば、この気難しさはどう考えても紗生子そのものなのだが。
「まぁそろそろ行こうか」
「——はい」
 真夜中のキエフ西縁を掠めつつ、静かに北進する事約一〇分。ヘルメット装着( ヘッドマウント)式照準装置(ディスプレイ)越しに、静まり返る滑走路か浮かび上がってきた。今夜の目標、アントノフ国際空港だ。と同時にディスプレイが、数々の目標物を勝手にロックオンし始める。まるでテレビゲームのような簡単さだが、紛れもない現実だ。
 ターゲットを捉えたならば、敵方が逆探知しないうちに先手を撃つ。数少ない対地弾は全て滑走路破壊用だ。実に軽戦闘機らしい狭い爆弾倉(ウエポンベイ)では、ミサイルなら中型以下の物で八発が限界だというのに、
「私の手荷物(・・・)を乗せるから二発分割いてくれ」
 という紗生子の一方的な無茶振りで、六発しか積めなかった事もある。何を積んだのか知らないが、アントノフは三五〇〇mの滑走路を有する空港で、お世辞にも小さいとは言えないというのに、だ。案の定、誘導路と滑走路が連結する辺りに三発ずつ撃つと、ミサイルはあっさり撃ち止めになってしまった。残るは機関砲の小型精密誘導弾が三ダース三六発。この破壊力は詮無い物で、対地兵器としては実に頼りない。一発でどうにか貨物トラックを走行不能に出来る程度の代物であり、空戦ならそれなりに役立つが、重装甲の戦車にはまるで歯が立たない。それでも
 ——撃たんよりマシか。
 と、管制塔や格納庫へ発射命令を出すと、これも空港上空に到達する前に撃ち尽くしてしまった。いよいよ残るは、単門の五〇mm機関砲からぶっ放す五〇mm弾だけだ。弾倉(マガジン)に一〇〇発。これが頼みの綱だが、その破壊力は認めるものの、まともに軽戦闘機から撃てる代物ではない。が、こんな物でも撃っていかなくては壊滅など程遠いのだ。とりあえず眼前に迫った滑走路に一発、制限点射(バースト射撃)で撃ってみると、凄まじい反動で機首が跳ね上がってそのままひっくり返りそうになった。それをどうにかコブラと呼ばれる機動でやり過ごす。
「被弾したのか!?
 流石に驚いたらしい後席の紗生子(じゃじゃ馬)が叫んだ。因みに紗生子には何もさせていない。同乗させて敵の損耗率を確認させているだけだ。
「機関砲を撃ったんですよ!」
 機の状況は当然後席でもモニタリング出来る。それでも被弾を疑わざるを得なかったのだろう。それ程の音と衝撃だ。
A-10(サンダーボルト)並みの砲を持っているのかこの小型機(・・・)!?
 紗生子が口にしたそれは、米軍が誇る対地攻撃特化型の重攻撃機であり、その兵装なら壊滅も可能だろう。が、それを今言ったところで詮無いだけだ。紗生子が乗っていなければ、その出鱈目な砲でもぶっ放し続けられたものを。こうも反動がひどくては、流石の紗生子も堪らないだろう。
 アントノフ上空に差しかかり、牽制で北方へ抜けてみたが反撃はなかった。闇の中からもうもうと上がる黒煙の下で、果たしてどれ程の規模の部隊が展開しているのか。こちらの先制攻撃で軽い混乱に陥っているのだろうが、そのうち猛反撃を開始するに違いない。拠点化を企んでいるのであれば少なくとも連隊規模と見ておくべきだろう。その猛攻が始まるというのに、欠陥品(機関砲)を除いてもう撃てる弾がないとは。やはりどう考えても、
 ——無謀ってこの事だ。
 脳内で愚痴った瞬間、それを見越したかのような紗生子が思わぬ策を吐いた。
「着陸しろ!」
「はあ!?
 さっき滑走路を撃ち砕いたのを見ていなかったのか。しかも敵の勢力下の空港に丸腰で着陸するなどと、常軌を逸しているにも程がある。
「マップのルートで進入して着陸しろ! ウエポンベイの手荷物(・・・)を使う!」
 紗生子によってディスプレイ上に表示されたルートは、アントノフ空港の北隣にあるオゼラという街をそのまま時計回りに旋回しつつ高度を落とし、そのオゼラとアントノフのちょうど中間付近にある一般道に着陸するものだった。
「無茶ですよ! 敵勢力のど真ん中じゃないですか!」
 近辺の街は全てロシア軍に落ちている。オゼラにも中隊から大隊規模の兵が駐屯している筈だ。その真ん中を、しかも一般道へ降りるなどと。
「兵装は殆ど空っぽなんだ! 君の腕なら五〇〇mもあれば着陸出来るだろ!」
「その前に撃墜されますよ!」
 失速寸前でアプローチしなくてはならないのだ。そこを狙われたら流石に躱せない。
「その時は一緒にあの世に行けばいいだけだろう! いいから行け!」
「無茶苦茶だなぁもう!」
 と叫びつつも、注文通りのルートでアプローチに入った。見えて来たのは完全なストレートではない、ミミズが這ったような如何にも頼りなさそうな田舎道だ。しかも未舗装ときている。
 こ、こりゃあ——
 ズムウォルト級の駆逐艦へ着艦する以上の有り得なさだ。当然制動索もなく、路面もバンピーな所へ自力で止まらなくてはならないというのに、先程空港を爆撃したついでにアクティブレーダーで周辺を探ってみると、戦車や装甲車がひしめいているではないか。
「まさに飛んで火に入る何とかだなこれは!」
「分かってるなら撤収しましょうよ!?
「いや! 進路このままだ!」
「どうなっても知りませんよ!?
 赤外線カメラで周辺の状況は見てとれるため照明は不要だ。が、ディスプレイには辛うじて五〇〇m程の、フリーハンドで書いたような拙い直線がモニタリングされていて、中々冗談がキツい。周辺の畑を貫く農道のようだが、せめてもの救いは重機の移動でも使っている事が窺える程の幅員だ。という事は、ある程度の転圧レベルと平坦性を期待してもよいのか。それこそホーミー(エリア51)の乾燥湖のような開豁(かいかつ)
 ——と思って突っ込むっきゃねぇ!
 それはまさに、魔女(紗生子)が誘う悪夢だ。
 更に悪い事に右目の端が、オゼラからこちらにぶっ飛んで来る発光を捉えた。その瞬間で俺は操縦桿を左に切っている。そのコンマ何秒後かに、電子光学センサーが飛来物の警報を発したかと思うと、更にそのコンマ何秒後。左ロール後の機体直上を、光の矢のような物が鋭利な飛翔音と共に突き抜けて行った。流石に一瞬、全身が固くなる。敵歩兵がとりあえずのロケット弾でもぶちかましてくれたのだろうが、盲撃ちにしては中々の精度だ。最前線に来ているヤツだけあって、それなりの射手がいるらしい。
「ちっ!」
 思わず舌打ちが出た。着陸で手一杯だというのに、次に狙われたらもう躱しようがない。何せ今の左ロールで高度は数十cmになってしまった。失速ギリギリで直線を目一杯取れる、その端っこ目がけて後輪を落とすつもりが、まさに横槍だ。これでは農道に
 ——届かん!
 畑の小麦の穂が一気に迫り、機体の底を掠める感覚が俺の尻にシンクロし始める。
「くっ!」
 反射で加速と同時に機種を持ち上げ、どうにか後輪を接地させたが、ランディングポイントを派手に飛び越してしまった。幸いにもやはり路面は固く、崩壊せずに耐えてくれているが、口を開けたら間違いなく舌を噛む程バンピーだ。我ながら真っ直ぐ滑走出来ている事が信じられない。が、何をおいても圧倒的に距離が
 ——足りない!
 最後の手段で制動用拘束(アレスティング)フックの地面削りだ。そしてその最中でも、じゃじゃ馬らしいロデオの中で前輪のケアだ。それが接地すれば、バンピーな路面に引っかかって一巻の終わり。良くて前輪の折損。悪ければ機体の折損。即死は免れない。
 な、なんちゅ——
 煩多な作業か。加えて後の展開に希望がないというのに、何ともバカな事をやらされるものだ。
 時間にして一〇秒程度だったのだろうが、その何倍もの時が過ぎたような感覚の中でどうにか着陸し終えると、
「出るぞ!」
 止まったばかりのじゃじゃ馬(XF-39)の中で、後席のじゃじゃ馬( 紗生子 )が威勢よく叫んだ。かと思うと、慌てて開けたキャノピーの隙間から早速飛び降り、
「ウエポンベイを開けろ! 応戦するぞ! エンジンはカットだ!」
 マシンガンの如きその口が、立て続けに指示をぶっ放し始める。この荒業の直後で相変わらずの敏捷性の凄さというか、動く事自体が流石の豪胆振りだ。
 俺はその命に従い、エンジンをカットして一作業遅れでやはり飛び降りると、紗生子は早くも携行式ミサイルを担いでいた。ジャベリンだ。
「またそれ——!?
 俺のその叫声を被せるようにそのミサイルがせっかちにもアントノフへ向かって飛んで行くと、空港の一角で派手な爆音が上がった。
「次!」
「背後のケアは!?
「構わん! 東から援護が来る! それより早く次弾を寄越せ!」
「援護!?
 聞いていないのだが。またしても紗生子お得意の隠し球か。
「そんな事より今は弾だ!」
 確かにそうだ。前は空港の傍を南北に走る州道の並木、後ろは北方に位置するオゼラとの間にある防風林らしき木々。周囲はちょっとした林間だが平坦だ。木々の足元に枝葉はなく、守も攻めるも、良くも悪くも見通しは悪くない。しかも着陸地点は広大な小麦畑の一画で、暗視装備が常識の現代戦闘では白昼の野っ原のど真ん中にいるも同じだ。つまり相手が撃つ前に撃つ先の先(・・・)以外に、生き延びる術がない。
「足元だ! 早く!」
 その切迫した声につられて下を見ると、ウエポンベイから下ろしたらしい箱の中に、葉巻の如く整列するミサイルの束だ。
「は、はい!」
 そうこうしていると、背後のオゼラの方から爆発音が聞こえてきた。見ると東方から火線が上がっており、闇の中を駆け抜ける一団がいる。
「どんどん撃つぞ! ここは勝負どころだ!」
 その声と同時に俺が渡したばかりのミサイルが、打ち上げ花火の花火玉のようにポンッと飛び出すと、時間差で爆炎(バックブラスト)と共に飛んで行った。数秒後にそれが、被ったままのヘルメットのシールドの向こう側で何かに着弾する。と同時に、シールドに投影されたマーカーが一つ消えたように見えた。何せターゲットが多過ぎて、具体的に何に着弾したのかよく分からない有様なのだ。が、それは、米軍ご自慢のコールドローンチ式打ちっ放し型精密誘導弾の事ならば、敵の何かに当たったのだろう。
「次!」
「はい!」
 因みにシールド型ヘッドマウントディスプレイは、コックピット周囲ならワイヤレスで使えるため索敵データは生きている。それにより敵方の動きはつぶさに可視化されている訳だが、ターゲットマーカーの誤表示を疑いたくなるような数がシールド上で蠢いており、中々の迫力で残酷だ。やはり敵は一個連隊規模のようであり、時間経過と共に周辺から湧いて出て来る加勢が兵装を厚くしている。だというのにこちらのジャベリンは、あっという間に一ダース撃つと、ストックが底をついてしまった。
「次!」
「——は、これです!」
 ミサイルを渡す合間で、別のお道具箱(・・・・)に入っていた対戦車ライフルを組み立てたのを、その足元に置いてやった。米国製のバレットM82だ。
「流石に早いな! 連れて来て正解だった!」
 ——逆だ!
 連れて来たのは俺なのだが、この期に及んでは一々反論する気にもなれない。
 今度のそれは二門ある。明らかに不時着後のパイロットを当てにした装備だ。
 そんなら精々——
 弾幕を切らさないように撃ち始めた。
「ストックは何発あるんですか!?
「知らん! 突っ込めるだけ突っ込んだからな!」
 マガジンの予備が、やはり箱の中に几帳面に敷き詰められているそれは何ダース分か。それでも、眼前に迫る敵の物量とは比べるまでもなく。風前の灯だ。いくら紗生子の精密な射撃を持ってしても絶望感が強い。その焦燥につけ入るかの如く、次第に近くを掠める火線が増えてくる。と、じゃじゃ馬(XF-39)も流れ弾が当たり始めた。
「このままではコイツ(・・・)は帰れんぞ!?
「それどころか——」
 俺達も帰れそうにない。ついに戦車部隊が前面に押し出て来たのだ。明らかに対戦車ライフル二門だけでやり合う相手ではない。
「こうなったら機関砲をぶっ放すしかないんじゃないか!? 弾はまだ十分残ってるだろ!?
「こんな所で撃ったらそれこそ離陸出来なくなりますよ!」
 反動の衝撃に耐え切れず車輪が折れるか、機首がひっくり返るかして飛べなくなるだろう。
「こうも多いと流石に煩わしいな!」
 イラ症の紗生子の事だ。一気に片づかない事に痺れを切らしているのだろう。この敵陣のど真ん中で、その手間にイラ立つなど。如何にも紗生子らしいが、多勢に無勢の単騎奇襲でここまで来たからには、今こそゲリラ戦の心構えだ。
「弾切れまでは粘ってやりましょうよ!」
 と、焚きつけついでに放った俺の一撃で、砲塔接合部(ターレットリング)が壊れたらしい一台が、明後日の方向に砲を向けたまま止まる。
「ゲリラ戦はお手のものでしょう!?
 迫り来る戦車を前に、それに屈しない強靭なメンタルこそ必要だが、何とかならない事はない。展望塔(キューポラ)やハッチ、砲塔接合部や車体下部のトランスミッションなど。狙いは小さく厳しいが、
「慌てず急いで正確に——!」
 当たれば弱弾でも食い止める事は可能だ。
「何かの漫画で聞いたな! アニメだったか!?
 と、一瞬で気を取り戻した紗生子もキューポラやハッチを狙い撃って見せた。気を切らさなければ、紗生子の正確な射撃は疑う余地がない。
「あるサブカルの権威に教えてもらったんですよ!」
 その入れ替わりで俺も、立て続けに別の一台を、今度は下部に何発がお見舞いして足止めしてやった。
「やはり連れて来て正解だった!」
「はい!?
「土壇場になると頼りになる!」
「ホントにヤバくなったら東へ撤退しましょう!」
 機体内部には、まだ五〇mm弾のストックが豊富だ。逃げる時にそれを離れた所から狙い撃てば、機密保持がてら敵の追撃を躱す一役を担ってくれる事だろう。
「サバイバルともなれば久し振りだ! その時は頼むぞ!」
「任せてください! 一応本業ですから!」
 次第に乗ってくると、気のせいか弾幕が増したような気がした。ついには背後からミサイルが飛び越え始め、前方の戦車に直撃する。
「な——」
「来たか!」
 夢中になって撃っていたせいで、紗生子が言っていた援護の動きを見る暇がなかった。その隙をつかれ、いつの間にか闇を駆けていた一団が背後に迫っているではないか。するとその先頭付近を駆ける一人が、俺達の所へ転がり込んで来た。
「遅いぞマイク!」
「すみません! KK!」
「マイクさん!?
 何と、アイリス(米国副大統領)の兄アーサー(元米国副大統領)が雇う元グリーンベレーの双子ボディーガードの片割れ、マイクその人だ。
「オゼラの制圧に手間取ってしまって」
 その目処がついたとかで、先行で加勢に駆けつけたとか何とか。後で分かった事だが、ウクライナ陸軍を教育していたグリーンベレー(米陸軍特殊部隊)と紗生子の連絡役を担っていたのは、このマイクだった。その任をこなしながらも、東を流れるイルピニ川東岸で潜伏。ロシア軍のキエフ入りを阻んでいたらしい。それにしても、俺達を追い抜いていく隊員達の多さも驚きだが、使っているのは英語のようだ。ウクライナ兵ではないし、指導員として入国しているグリーンベレーにしては数が多い気がするのだが。
「この兵は一体——?」
「アカデミの社員ですよ」
「アカデミ!?
 といえば米国の民間軍事会社( PMC )大手で、元を辿れば世界一の特殊部隊と名高い米海軍シールズの退役軍人によって設立されたブラックウォーターUSAだ。その躍進とイラクでの失墜で何かと話題に事欠かない会社だか、今は合併や社名変更でイメージの刷新を図っている。何にせよ、世界有数の精強さを誇るPMCだ。
「極秘で動いているのは我らだけではない。流石にグリーンベレーの指導員だけではどうにもならんからな。時には物量も必要だ」
「はあ」
 俺達の機(XF-39)がアントノフ空港を爆撃するのが反撃の狼煙だったらしい。グリーンベレー・アカデミ連合の兵力では、一度にアントノフとオゼラの制圧は難しい。かといってアントノフだけを狙っては、周辺を制圧しているロシア軍の応援も押し寄せ蜂の巣だ。そこで俺達の機が奇襲で空港を叩いている隙に、イルピニ川東岸で潜伏中の同隊が渡河し、北隣のオゼラを急襲制圧。出来ればそのままオゼラを抑えておき、近隣のロシア軍がオゼラを奪還し返す前にアントノフを奪還する。最前線の空輸拠点を失ったロシア軍は補給を陸路に頼らざるを得なくなる、という構図だ。その陸路の補給線は、要所でウクライナ軍のゲリラ戦術により停滞気味であり、進軍すら儘ならない状況だとか。
「後は反転攻勢を仕掛けるウクライナ軍次第だな」
 という、全ては何とも思い切った、如何にも紗生子らしい豪快な作戦だったようだ。
「後は我々に任せて、お二人はお戻りください。ご苦労様でした」
 そう言っている隙にも後続の歩兵が果敢にアントノフへ攻め込んでおり、背後には重機の姿も見える。どうやら戦闘機の方のじゃじゃ馬(・・・・・)が邪魔になって進軍出来ないようだ。
「よし! 後はマイクに任せて我らは撤退するぞ——と言っても、どうするんだここから?」
 流石の紗生子が、流石に言い淀んだ。みみずが這ったような農道の、その端まで使ってどうにか着陸したまでは良かった。が、この先は道がそれこそ本当に左右にのたうっており、しかも短距離である上に州道の並木が迫っていてとても飛び立てない。かといって後ろは、フックで削れた見るも無惨な未舗装路だ。
「それにしても、よくもまぁこんな所に降りたな君は?」
「まさか適当だったんですか!?
「道がある事は把握していたぞ、ちゃんと」
 その程度で把握とは。どの口が抜かしたものか。弾薬は殆ど空で燃料もそれなりに使っていたとはいえ、総重量は大型バス並みだったのだ。その着陸時の衝撃に、よく農道が耐えたというべきだろう。
「大した腕だ。誇っていい」
「全くです。着陸寸前のミサイルを躱したのには、みんな驚いてましたよ」
 それを思い出すだに
 全くもって——
 無茶苦茶だったものだ。なのに、
「とはいえ、その余韻に浸る暇はないぞ。オゼラを奪還される前に離陸せんとな」
 更に難題を吹っ掛けられる。確かに北方に上がる火線は激しく、余り猶予はなさそうだ。
「返事はどうした!?
「了解!」
 一応、性別や身分を特定するような返事は控えておく。こんな無茶苦茶な紗生子だが、その存在がここ(最前線)にいる事はXF-39(ヒートヘイズ)並みに極秘だろう。全くそんなところまでじゃじゃ馬同士、よく似たものだ。
「後片づけは頼んだぞ! マイク!」
 紗生子が散らかした武器弾薬の証拠隠滅を指示する横で、俺は操縦席に飛び乗りエンジンを始動させた。正常の状態なら数十秒で飛び立てる。かかり具合は悪くなかった。同時にダメージリストを展開すると、細々と黄色表示が目立つが普通に飛ぶ分は支障なさそうだ。但し、これからやろうとしている事は普通ではないのだが。
「さぁここも腕の見せどころだぞ!」
 追っつけで紗生子も飛び乗ったのを確かめると、キャノピーを閉じる前にマイクに離れて伏せるよう指示を出した。それを見届けると、まずは機首を反対に回頭しなくてはならない。が、壊れたフックが回収出来ず、地面に刺さったままだ。
「ちょっと揺れますよ!」
 まずは手始めに機関砲を一発ぶっ放した。その反動で、派手に跳ね上がった機首をエンジンで制御しながら、翼のフラップを使って回頭させる。
「ホントに器用だな!?
 紗生子が思わず驚く程、上手くいった。降りて来たぐじゃぐじゃの道が綺麗に見渡せる程に、真っ直ぐ反対に向き直っている。
「飛び立つまでは口を閉じててくださいよ!」
 ここからはロデオだ。フルスロットルで前輪をウィリーさせたまま行ける所まで滑走。途中でバンピーな路面に車輪が弾んで大きく跳ねたら、その瞬間に無理矢理アフターバーナーで急上昇させる。スキージャンプ型カタパルトを持つ空母での離陸の要領で、
 ——行くしかないよなぁ!
 そのカタパルトを使った事はないが、似たような危なっかしい事は腐る程やってきた。流石にこれ程ひどい路面を滑走した事はないが。
 飛び立つ前に、マイクにサムズアップ(グッドサイン)してお互いを鼓舞すると、一気にフル加速だ。
「うはっ!」
 自分でやっておきながら思わず声が漏れた。外から見たらどうだか知らないが、コックピットの中はまさにロデオそのものだ。実際に暴れ牛に跨った事はないが、跳ねるだけで空を飛ぼうとしない分ロデオの方がマシなのではないか。何度か派手にピッチしたところで強引に車輪を収めようとしたが、収納出来ない。先の着陸に続いてこのクソ離陸だ。当然壊れたのだろう。如何に頑丈が売りとはいえ、戦闘機レベルの話だ。脱落しないだけよく頑張っているといっていい。それなら一気に急上昇させると、少しだけコブラ機動で地面スレスレをケツ振りしたが、どうにか推力を掴んで離陸する事が出来た。
「おー、上がったじゃないか」
 同時に後席からのんきな声が聞こえてくる。
「上がったのはいいんですが——」
 一連の離陸でついにレッドサインが現れた。車輪が前後ともイカれたらしい。普通の機体なら真っ二つに折れても文句は言えない無茶振りだったのだから当然だ。フックに至っては表示すらおかしい。完全脱落したのだろう。
「——もう降りられないか」
「艦には戻れません」
 普通の滑走路なら、車輪が持てば着陸出来る。が、フックも使わずあの短小の小舟に降りるなど。これも農道の離着陸並みに有り得ない。
「燃料は持つのか?」
「ギリギリですが」
 という事は、ベネチア郊外のアヴィアーノ空軍基地にも届くという事だ。そこなら極秘機体とはいえ米軍基地だ。ある程度の保秘は可能だろう。が、それに乗っている紗生子はどうなるか分からない。正規の任務ではない以上、追及は免れないだろう。となると、俺でさえどうなったものか怪しい。何せ艦の存在すら極秘のクルーなのだ。
「やっぱり——」
「二つに一つだろう?」
 あえて確認するまでもなく、紗生子が先に理解を示した。
「——はい」
 着艦するか墜落するか。この二択だ。
「技術屋達は機体が欲しいでしょうが」
「当然だな」
 こんな継ぎはぎ(・・・・)だらけの欠陥機でも、有り得ない事だらけのデータを拾って帰るのだ。直す云々よりも、その実戦に裏打ちされたデータが欲しいだろう。
「なら帰ろう」
 簡単に言ってくれるものだ。
「因みに私は緊急脱出(ベイルアウト)しないからな。ここまで来たら一連托生だ」
「あなたには色々と報告しなければならない相手がいるでしょう?」
「このバカっ速い機体で、通常方式の射出なんだぞ? まともに助かるとは思えん」
 緊急脱出装置には座席だけを飛ばす一般的な物と、操縦席全体をモジュール化した物がある。前者は後者に比べて安価だが、射出時のGで死ぬ可能性すらあるハードな物だ。一方で後者は安全性が高いがその分高価で実装例は圧倒的に前者が多い。
「失速寸前でアプローチする時に出れば、相対速度はかなり軽減出来ます。海に落ちてもすぐに拾ってもらえますから大丈夫ですよ」
「下士官より先に将軍が逃げられるか。少しは立場を考えろ」
「相変わらず言い出したら聞かないな。あなたは無二の人でしょう? 安っぽく命をかけちゃダメですよ」
「流石に私の事が分かってきたじゃないか。ならもう何を言っても無駄な事ぐらい分かるだろう?」
「強情だなぁ」
「ベイルアウトより君の腕に頼った方がマシだから言ってるまでだ。見事なカウボーイ振りで正直驚かされたしな。そのままロデオに出られるだろう」
「こんな時に冗談とは——」
「冗談じゃない」
 ここしばらく、僅かに小気味良く弾んでいた紗生子の声が急に冷えた。
「冗談じゃない。君こそ無二の存在だろう。こんな所で命をかけようなんて思うな。最後の最後まで頭を使って、死地に生を掴んでこそ軍人だろう?」
「それは分かってますよ」
「ウソをつけ。君は諦め癖がひどい。往生際が良過ぎて目が離せん。困った旦那様だ」
「まさかそのために、わざわざここまでついて来られた訳じゃないでしょう?」
「似たようなモンだ」
 気がつくと、ウクライナ領からハンガリーに入っていた。機体はボロボロでステルス性も何もあったものではないが、ここから先は撃墜される事もないだろう。
 飛んでいると、いつも思う。世界は広いようで、とても狭い。国境に代表されるように、境目を表現する見えない線に塗れている。本当に狭い、世界。飛んでいると、よく分かるのだ。その境目の数の多さこそが、人類を戸惑わせている元凶だ。実際の世界に境目などない筈なのに、そこで人々は分断され、国家という名の、実に熟れていない矛盾だらけの枠組みに無理矢理押し込められる。
 いつも思う。何故世界はもっと仲良く出来ないのか。何故こうも争いが多いのか。何故分かりやすい暴力的なナショナリズムにあおられて、それに乗せられてしまうのか。
「悪いのは為政者ですね」
 思わず、突飛な独り言が漏れ出てしまった。その頂点に就く者が、それに纏わりつく何人かが余計な野心など抱かねば、戦など起きないというのに。
「私が指揮官なら、同じ事をやらせるのなら、やはり君のような人間に任せたいと思うだろうな」
 紗生子も何か別の事を考えていたのか、まるで噛み合わない。
「一個人としても、だな。悩み、惑い、苦しむのは悪い事じゃない。むしろそうでなくてはならない。それ程我らの生業は他人の命を左右する。現についさっきまでの間で、我らの両手は血塗れだ。——誰のせいだ?」
「責任を転嫁している全ての人間のせい、ですね」
「そうだ。確かに直接的には権力の高みにいる者のせいだろうが、最終的にはそれを放置しているその世代を生きる人類全てのせいだ。大なり小なり、誰のせいだと言うのならな」
 紗生子は実に肝が据わっている。
「私は幸いにも、それを左右し得る近しい所で仕事をしているからな。それなりに大きな責任を分担させられている事も分かっているつもりだ」
 それに比べて、俺はいつまで経っても愚痴ばかりだ。
「私がやらなければ、それは他の誰かが姿形を変えやっただろう。確かに君のような極めてバランス感覚に優れた常識的な人間には、私のやっている事は野蛮にしか見えないだろう。だが残念ながら人類は、まだそれを手放せる程熟れていない。善悪好悪に左右されて尚、誰かが誰かのために血を被らなくてはならない世の中だ。例え非難されようと、蔑まされようとな」
「分かりました」
 まともな事を吐こうと思えばそれなりに吐ける。紗生子はそれが分かりにくいだけだ。
「君が悩んでいる事は、君が一人で悩むべきであって現世の全員が悩むべき問題だ。だから君一人が背負うものでもない。それぞれの役割の中で、それに見合った分だけ背負えばいいんだ。それを今君が放棄したら私はどうなる。この状況で君の分まで背負わされては敵わんぞ?」
「流石の説得力ですね」
「このぐらいの事は朝飯前だ。仮にも人の上に立つ者だからな」
「そうですね」
「使命を忘れるな」
 紗生子の声が、また少し厳しさを増した。
「は」
 と小さく返事をしておく。
「軍人の使命はなんだ?」
「国を守る事です」
「そのためには何をするべきだ?」
「生きて任務を全うする事です」
「そうだ。そのために常に己を律し、能力を高め、人格を磨き、国民の負託に応えねばならない」
 それを傍若無人の、
 ——アンタが言うのか。
 思わず小さく失笑が漏れた。
「折角のご高説に、君は笑って返答する訳か? 全く随分な態度をとるようになったモンだなホント」
「すぃません」
「君こそ唯一無二の存在だから、少し褒めてやったというのに。すぐ調子に乗るな」
「そんなモンですか?」
「この欠陥機といい私といい、これ程見事にじゃじゃ馬を乗り熟すヤツは、世界広しといえどもそういないだろう」
「私はあなたに乗った事はありませんよ?」
「ご所望なら今度乗せてやろう」
「はあ!?
「そうなれば本当に唯一無二の男になるな、君は」
 それは、何の唯一無二なのだ。思いがけずあっという間に、シリアスな話がセクシャルな方向に舵を切っている。
 何処で——
 間違ったか。
「この暴れ馬をこれ程見事に乗り熟すんだ。あっち(・・・)の方も、さぞかしお上手な事だろうな? ん?」
「い、いやぁ——どうでしょう? そろそろ着艦連絡かなぁ」
 眼下に海が見えて来た。アドリア海だ。
「そのようだな。後は頼んだぞ」
 恐らく今回の作戦で、俺はもう飛ぶ事はないだろう。ダメージリストの深刻さを見れば、作り直した方が早いくらいなのだ。それでも帰還に漕ぎ着ける事が出来たのは、道中で全くトラブルに見舞われなかった事が大きい。今作戦でどれ程ウクライナとの間を往復したか。一々数えていないが、改めてその裏で手を回した紗生子の功の大きさだ。
「君と逝ければ本望だ。が、実は私はまだまだこの世で使命もあれば、やりたい事もある。出来れば無事に着艦してくれると助かるんだがな」
 言い訳がましい言い回しに噴き出しそうになったが、冒頭の一言が頭の片隅に強く響いた。他人と逝くなどと、一匹狼の紗生子が口にする事ではない。という事は、それを耳にする事もまた唯一無二、という事なのだろうか。
「鋭意、努力します」
 日付が変わった未明の闇の中。気を抜くと空から抜け落ちそうな程の低速で洋上の小舟に着艦した俺達のじゃじゃ馬(XF-39)は、普段より高く張り巡らされたワイヤーに車輪を絡めながらも減速叶わず突進。辛うじて、袋小路型滑走路の突き当たり( 子宮 )の一歩手前に設置された最後の砦ならぬ網、エマージェンシー・バリケード・ネットに引っかかってどうにか止まった。
 着艦直後、慌てて駆け寄る整備士達と共に、先に帰っていたテックが駆け寄って来ると、
「見事にドロシーの処女膜を突き破りやがったな!」
 と豪快に笑い飛ばされ、脳が現実である事を認識する。
「そのエロい言い回しが、お互い生きてる証という訳ですか」
 思わずボヤいた俺に、後席の紗生子が、
「くっ!」
 と堪え切れない様子で漏らすと、忽ち笑いの渦が起こった。

 作戦は成功を収めた。
 南部ではロシア軍の侵攻が止まり、ウクライナ軍によって押し返す動きが明白になり始めた。ただ、ザポリージャ原発は奪還出来なかったが。
 一方で北部は侵攻軍の敗走が現実になり始めた。ゲリラ戦が奏功した事も要因の一つだが、やはり何といっても極秘作戦の狼煙の効果が大きかったようだ。帰還早々結果報告(デブリーフィング)へ向かう道中の紗生子によると、
「言うまでもないと思うが、用兵ってのは古今東西、士気と練度と勢いって事だ。ロシア軍にはそれがない」
 とのご高説だ。ウクライナ軍は開戦直後こそ先制攻撃を許したが、世界主要国の支持を取りつけ政権も徹底抗戦の構えを明示しており、士気の高さは言うまでもない。一方でロシア軍は、信じられない体たらくが紗生子の口から開示された。
「最前線の兵がスマホを使ってるらしいからな」
「ウソでしょ!?
「旧式の無線通信では電波の入りが悪いようだ。それに比べて携帯の電波の普及率は説明するまでもないだろう?」
 ウクライナ軍が圧倒的兵力を誇るロシア軍を押し返し始めた大きな要因の一つに、そんな作戦機密保持上の重大な欠陥があったとは。だからこそピンポイントでのゲリラ戦術が炸裂した、という事らしいが、要するにロシア軍の慢心と士気の低さだ。
「またしてもロシアは己の主張のゴリ押しで開戦したからな。過去、特に近代以降の戦史を模倣するかのような愚行は最早気の毒さすらある。一刻も早く大多数の国民が、その間違いを正すべく立ち上がる事を願うばかりだな」
 外部圧力や支援だけで一国家の国政が是正される事はない。それが永続しないからだ。最終的には国民自らが立ち上がらなければ国は良くならない。その例のいくつかを、俺は仏軍在籍時に実体験してきた。
 近代戦史は、隙あらば脆弱な政治体制に欧米列強があからさまな内政干渉で火種を撒き散らし、戦いを巻き起こしては富を総取りしてきた歴史だ。まさに勝者のための時代にして歴史だったのだ。それがここ最近に至り、少しはマシになったと思いたかったところへこの蛮行。しかもそれが、国連安保理理事国によって引き起こされるという皮肉。
「温故知新の大切さが身に染みます」
「次の革新に至るまでに、人類はどれ程の犠牲を払うだろうな」
 と嘆息しながらブリーフィングルームの扉を開けた紗生子が、
「ここにもその癌が飛び火したか」
 と、艦内では見慣れない士官の姿を認めるなり独り言ちた。
 既に入室していたインテリとテックの前に座るその男は、降機直後の勢いで報告に参じた俺と紗生子に対して労うどころか、
「早く座らんか」
 と、いきなり尊大な一言を浴びせてくれる。何と幽霊船(ドロシー)に乗艦する直前の俺が、フィウミチーノ空港からガエータまでの車旅を共にさせられたイタリア大使館(在伊国米国大使館)のクソ大佐だった。と、こちらの怪訝な顔が伝播したようで、向こうも途端に顔色が険しくなる。
「貴様——何処かで見たな?」
「ガエータまで送っていただいた者です。その節はお世話に——」
「部外者は入れんぞ」
 嬉しくはないが、覚えてくれていたらしい。わざとらしくも退室を促してくれたかと思うと、
「いえ、彼はXF-39(ヒートヘイズ)の正規パイロットで——」
「ああ、東洋の山猿(イエローモンキー)とは貴様の事か! 通りで大事な機体を廃機に追い込む訳だ」
 インテリのフォローに悪乗りして、盛大な侮蔑をかましてくれた。因みに言い放たれた二つ名のようなものは、外部に漏れ出たXF-39のパイロットたる俺の渾名だ。極めて在りきたりで、一々噛みつくのもバカらしいので放っているのだが。
「その点、黒い悪魔(ブラックデビル)赤い男爵(レッドバロン)は流石だな。作戦遂行能力といい技量といい申し分ない」
 片やインテリやテックのそれは、俺同様肌の色からつけられた名だが、何れも史上稀に見るスーパーエースの異名だ。尊称である事は疑いもない。インテリは聡明な正規兵であり、テックは欧米人種な訳で、要するに人種差別がしたいのだろう。
「てめぇ——」
 とテックが憤慨しかけたのを
「これはこれは、何処かで見たと思ったら——」
 紗生子が声だけで制し、割って入った。
「アイリスのヤツもつまらん男を目付(・・)に送り込んで来たモンだな。そんなに私が信用出来んか。いや、あのアマ(・・・・)でも止められなかった訳か。このザマで副大統領とはな」
「ちょ、ちょっと主か——提督!?
「何だ? 何処のどいつかって?——ああ、イーグル一族の馬の骨さ。傍若無人で名を馳せる、一族中の鼻摘み者でな。信用がないから家業に携わらせてもらえず、行き場がないから親の七光りで海軍に入れてもらって、狭い井戸の中で威張り散らしてる蛙だ。無理して外海(・・)に出たものだから、大方海水にやられて頭がおかしくなってるんだろう。気にするな少佐」
 いつも通りの容赦ないこき下ろし振りだが、どう見てもその()は毎度の例に違わず、紗生子より年上に見える。
「高坂の腰巾着まで紛れ込んでいるとはな。相変わらず空気が読めんようだ」
 やはり、知り合いらしい。
「信用に厚い私は実戦帰りなんだ。ブルシット・ジョバー(無意味な仕事をする人)の貴様と一緒にするな」
「大事な機体を壊しておきながら何を抜かすか」
 蛙の物言いは紗生子に比べると及び腰に見えたが、やはり紗生子は紗生子だ。いきなりクソ蛙のその胸倉を掴んだかと思うと、
「もう一度言う。私は、我々は実戦帰りなんだ。血煙に塗れて大なり小なり気が立ってるんだよ、坊や」
 蛙だの坊やだのと、相変わらずの言いたい放題。
「言わせておけばこのクソアマがぁ——」
 と、逆上しかけたその蛙だか坊やだかを、
「言葉は選べ」
 勢いそのままの紗生子が、見た目を覆す腕力で至極当然と引っ張り上げた。
 ——マジかよ。
 怒りに燃えるその目が、怯える獲物の目を捉えたままゆっくりと下から上へ移動する。と同時に、男女の体格差をまるで無視した浮遊感が男の方に宿ったかと思うと、その胸倉を掴んだままの美しき豪腕が唐突に男を下へ突き落とした。
 こんな力が——
 この絶美の何処を見たら想像出来るというのか。確か紗生子はこれまでにも、それなりに重量のある様々な武器を使い回してきており、たまにお目にかかるビンタは一撃必殺だ。
 ——そういやぁ。
 俺も文化祭の時のそれで卒倒しかけた事があり、一般的な女の腕力ではない事は理解していたが。何にしても現実として紗生子の前には、着衣を乱したクソ大佐が床にへたり込んでおり、いつぞやのように誇らしげに着込んでいたそれ(制服姿)など見る影もない。
「これから仲間内(・・・)世間話(・・・)をするモンでな。部外者(・・・)に出番はない」
 止めの一言で完全に沈黙させた紗生子は、御目付役を部屋から追い出してしまった。
「——どうした?」
 かと思うと、次の瞬間にはケロっとしている。
「いえ——御目付役なら、同席してもらった方がいいんじゃないのかなぁと思いまして」
「何を見ていたんだ? 体調を崩された軍監殿が、自ら退席されたんだろうが」
「は、はあ」
 と、その無茶振りに慣れている俺でさえ、つい言葉を失うその横で、
「マジでお前の嫁さんはとんでもねぇな」
 流石のテックも言葉に飾り気がない。
副大統領命(鳴り物入り)で突然乗り込んで来たとはいえ、躾が行き届かず申し訳ございませんでした提督」
 他方、優等生のインテリがすかさず謝罪だ。
「大佐が謝る事ではないだろう。それよりも、ザポリージャは一番大変だったというのに流石だったな」
「それはこちらの台詞です。あえて女性を強調するような言い方をしますが、私はあなたのような女性士官を見た事がない」
 冷静沈着を旨とするインテリの声色に、珍しくも熱がこもる。
「まぁよそ者(・・・)は追い出した事だし、始めようじゃないか」
 紗生子の開き直り振りに失笑が漏れる中、その女傑をよそ者と謗る者は誰一人としていなかった。
 その後のデブリーフィングで、作戦は補給も兼ねて一時中断。再びガエータへ寄港する事が決定した。合わせてじゃじゃ馬(XF-39)の運用中止も決定。整備士による事後調査結果、機体は見事に蜂の巣で、帰還出来た事が不思議な状態だったという。ダメージリストの表示自体が被弾により故障していたとかで、最後にじゃじゃ馬が俺を助けてくれたという事なのだろう。当然、今後のテスト(・・・)は白紙。改めて新造するのか、それともこのまま廃機となるのか。それは今後時間をかけて、軍の中枢でこれまでの実績を元に検討される事になる。その結果がいつ出るのか知らないが、
 俺は——
 どうなるのか。
 身体の何処かに、ぽっかり穴が空いたような。

 デブリーフィング後。
 怪力(・・)紗生子に飛行服の袖を引かれた俺は、またハンガーへ案内させられた。いくら艦内で市民権を得た紗生子とはいえ、一人でハンガーに入れない事に変わりはないためだ。
「疲れているところすまんな」
「それはあなたも同じでしょう?」
「私は同乗していただけさ。コイツにな」
 と、徐にコックピットに梯子をかけて上がると、手にしていた瓶を開栓して、破れる寸前のキャノピーにかけ始めた。その液体が当然、コックピット内に滴る。
「よく見ると殆ど蜘蛛の巣だな。コイツにも無理をさせてしまった」
「酒、ですか?」
 米軍艦船内では、基本的に飲酒は御法度だ。
「そうしてやりたいんだが——」
 ミネラルウォーターらしい。
「本当に短い間だったが、世話になったからな」
 と優しく撫で始めたかと思うと、キスをするではないか。しばらく堪能したかと思うと
「どうした? 珍しいか?」
 不意に紗生子が、下から見上げている俺に振り向いた。
「え? ええ、まぁ」
「まぁ君にとっての私のイメージは破壊王だからな」
「いや——」
 魔女なのだが。
「気遣い無用だ。やる時は躊躇しない。だが、終わってしまえば鎮魂の思いがない訳ではない。特に君の相棒ともあればな」
 すると今度は目を閉じて、額を押し当てている。その顔の思いがけない優しさに、瞬間で心臓が跳ねた。
「ステディのステディはステディさ」
「相変わらず、意外にもそう言う事を躊躇なく口にしますよね」
「ホント言うようになったな」
 小さく失笑した紗生子が
「——君の誇りを奪ってしまった。結果的に廃機に追い込んだのは私だ。そんなつもりはなかったが、言い訳はしない」
 例によって小気味良い粋をちらつかせてくれる。こういうところは本当に、外見を超越した大物感が只ならない。
「いえ」
 その妙な迫力に、空白感が更に疼いたような気がした。
「何れはこうなる運命でしたから」
 親機(・・)のためのデータ取りの、捨て駒のような機体だったのだ。俺とも重なる運命にシンパシーを感じた、そんなところだ。
「これまでも、かなり無理を重ねてきたヤツですからね。騙し騙しの運用だったんですよ」
 確かにエンジンを始め、一部は次世代機用の最先端技術が導入されてはいるが、大半は従来品の中古品。まさに継ぎはぎだらけの、極端な言い方をすればSDGs機体だったのだ。これが実用化されたならば相当な戦力になり得ただろうが、悲しい事に人間がついていけない。そのずば抜けたスペック故、欠陥機の汚名を被る結果となってしまった事は、単に乗り熟せかったパイロット達の弱さだ。こうした機体は過去にも散見されるもので、今に始まった事ではない。恐らくこの相棒(XF-39)も、似たような轍に導かれ、歴史の影に消えていくのだろう。再び復活する日は、
 ——多分、こない。
 出来れば接頭記号のXを取って(正規採用を勝ち取って)やりたかったが。当初から本当の意味での実験機だっただけに、切なさが募るばかりだ。
「なまじ頑丈なだけに、頑張り過ぎたというか。まぁお互い、一休みさせてもらいますよ」
 とは言うものの、既に用済み感が強いような気がしないでもない。これで学園の任務(アンの警護)さえ打ち切ってしまえば、
 ——後は、保秘か。
 極秘プロジェクトに参加し、極秘作戦にまで参戦した傭兵が、一般兵士のように当たり前に除隊させてもらえるとは到底思えない。
「休める訳ないだろう」
「は?」
「日本で姉様(相談役)が君の帰りを待っている」
 そういえば、
「そんな事でしたね」
 手駒にされた、とか何とかだった。
「あれで君にはご執心だぞ、相談役は。君の兄を大事に育てていたってのに、結局実娘(真琴)に横取りされたからな」
 そんな曰くつきは俺のせいではないのだが。まあそれを俺が訴えたところで、どうにもならない事も分かってはいる。
「じゃじゃ馬という渾名もよかったが、私にとってはブラックスワンだった」
「まぁ——」
「ポジティブなイメージでな」
「——そうですね」
 それは時に、血に塗れる物とは思えない粋を感じていた。何かを極めた物が到達する審美性と機能美。その色形が、俺は嫌いではなかった。その比喩が示す外観と指し示す意味を、臆する事なく一言で言い切る紗生子には、不覚にも共感を覚える。
「最後の乗員があなたで、コイツも喜んでいると思います」
 何にせよ、海の藻屑と化す可能性が高かったじゃじゃ馬(XF-39)が帰還出来たのは、聞き分けがない紗生子によるところが大きかったのだ。お世辞ではない労いのようなものが、自然に口から漏れ出た。
「だと嬉しいが」
()で余生を送れるんですから、間違いないですよ」
 このまま廃機になったとしても、無惨に捨てられる事は決してない。損耗の調査が待っている。良くも悪くもそういうところまで研究対象だ。
「どっちみちスクラップにされるんだ。つくづく悪い事をした」
「原寸大模型の可能性が、ない訳じゃありません」
「そうか」
「はい」
 せめて、そう言っておく。何の力もない俺は、それを願う事ぐらいしか出来ない。
「——人は簡単に裏切るが、物は尽くした分だけ応えてくれる。物は悪くない。活かすも殺すも人間だ。この機体が、関係する全てのスタッフの結晶なのだとしたら、いくら私でもネガティブな言葉で片づける気にはなれん」
「そうですね」
 ハンガーの音声は録音されている。それを知らない紗生子ではないが、これを聞かれる事を意識しているようには見えない。真偽はこれまでの紗生子が物語っている。本心なのだろう。
「君もだ」
「何が? ですか?」
「ブラックスワンさ」
「東洋の山猿ですよ」
足枷をつけて(私を乗せて)いながら、要所で見せる機動(マニューバ)には驚かされた。本当の君は、当然あんなモンじゃないんだ。それを嘲笑う連中は、無意識のうちに尋常ならざる敏捷性を揶揄させられているのさ」
「そんな事は——」
「あるんだ。天下の米軍が他国、特に東側諸国に流れる事を恐れた傭兵だからな君は」
「そうなんですか?」
 当然、初めて聞く話だ。
「だから無理矢理引っ張り込んだのさ。米国籍付与を始め、それなりの待遇で君が釣られたような格好になっているが、本音はアメリカが是が非でも君を囲いたかったんだ」
 NATO軍でテストパイロットを務めていた俺をスカウトしたのは、たまたま来欧していたインテリだった。
プロジェクト(新型機開発計画)の今後は私の知るところじゃないが、少なくとも君がいなくてはこのミッション(幽霊作戦)の成功は有り得なかった。公式記録に乗らないのが悔やまれるが、国のために尽くす者を貶める事はない。そんな事をすれば有能な人間が集まらなくなる事を、少なくともアメリカという国は知っている」
 確かにそういった熱量で米国に適う国はない。世界の盟主たる所以だ。
「少なくとも米軍にいる限りは重宝される。心配するな。姉様も目を光らせている。いつの事になるか分からんが、円満退官に導いてくれる筈だ」
「それまで生きてますかね?」
「この作戦で生き残る男が簡単に死ぬとは思えんがな」
「だからこそです」
 作戦レベルがどんどん苛烈になっていく。そうして過去のエースパイロットの多くは死んでいったのだ。
「それは否定しない。昔のアメリカなら、黄色い猿を都合良く使い潰した事だろう。だが今時そんな事をするようなら、さっきも言ったがアメリカの国家としての信用は地に落ちる」
「では、このプロジェクトのパイロット達が全員有色人種なのは偶然だと?」
「そうだ。全員優れていたからに過ぎん。差別的な目が全くないとは言わんがな」
「はあ」
 そんなものだろうか。何か騙されているような気がしてならない。
「私はこれでもそれなりにアメリカ暮らしが長かったが、私に平伏しない男はいなかったぞ?」
「そりゃあなたはそうでしょうが、私は未だによくバカにされますよ」
「つまりそういう事さ」
「はあ?」
「単に人の度量次第、という事だろう。同じ黄色人種の私はバカにされないんだ」
「まぁそうですが——」
 何か論点がずれたような気がするのだが、
「少なくともこの話を聞いた上役の方々は、君にひどい仕打ちをする事はないさ。姉様も言ったと思うが、君の存在は日米間における貸し借りみたいなモンだからな」
「いやちょっと——」
 それを録音されている環境で口にされると困るのだが。
「私はそんなに迂闊じゃない。そういう小物っぽい振舞がバカにされる原因なんだぞ?」
「はあ」
「とはいえ私もそのギャップにやられた口だからな。余りとやかく言えないんだが」
「何ですかそれは?」
「真琴に負けてられんって事だ」
「はあ?」
 また訳の分からない事を。
 そこに艦内放送が入り、ガエータで紗生子が下艦する事を報じた。日本の自衛官として、紗生子こそ極秘の乗艦だったのだ。いい加減引き際、という事だろう。

 翌朝、イタリア時間午前九時。
 作戦行動中であり、手短な補給のみで上陸が叶わないクルー達の殆どが、接舷直後の甲板で整列していた。軍艦における最上位の礼式、登舷礼(とうげんれい)だ。極秘プロジェクトを担う船の事ならばそんな余興はしないものなのだが、その視線の先には俺の先導で舷梯(タラップ)を降りる、例の怪盗ル○ンのようなワインレッドのマントコートを羽織った魔女紗生子。俺が乗艦した時同様、システムトラブルの修理で乗ったエンジニアが降りる体なのだそうだ。が、それならそれで、大人しく降りられないものか。流石に海自の制服で降りる訳にはいかない事は分かるが、
 いくら何でも——
 この私服は目立ち過ぎだ。少なくとも俺は、これ程華やかな美人エンジニアを見た事がない。と言い切ってしまっては、世の女性エンジニアに悪いが。
 ——いる訳ねぇ。
 加えて相変わらずの粋な風采で、つい目が釘づけになるものだから認めざるを得ないのだ。クルーの面々も似たようなものだろう。大方見送りがてら甲板に出たところ、軍艦に乗る者の悲しい習性で片っ端から整列を始めてしまい、結果的に登舷礼になってしまった、といったところか。
「困ったヤツらだ。盛大に見送られたら身分が勘繰られるというのに」
「エスコートは俺だけって事で、大目に見てやってください」
 と、俺に続いて埠頭に降り立った紗生子の少し離れた所には、やはり見覚えのある車が止まっている。イタリア大使館のセダンだ。駐在武官のクソ大佐は紗生子に代わる御目付役で乗艦したらしく、車に乗るのは紗生子だけだった。
「みんな寂しいんですよ」
「懐かれたモンだな私も」
 それは皆が紗生子の労を認めた、という事でもある。
軍監(あのたわけ)には大人しくしておけと釘を刺している。うるさかったら副大統領(アイリス)に報告して下艦させるよう、艦長にも言い含めておいた」
「みんなモチベーションだだ下がりで」
「まぁ後は静観の予定だし、あの男が何事かを献策出来るとも思えんしな。そもそも誰も相手にしないだろう?」
「そりゃそうですが——」
 煩わしいし目障りだ。あれが紗生子の代わりとあっては、
「俺でさえ、もっと居て欲しいと思っちゃいますよ」
「どうだかな」
「いやホントですって!」
 そう思ってしまう。いくらアイリス(副大統領)と腐れ縁とはいえ、同盟国の士官、それもアラサーの女がその名代を務めるなど、異常にも程があったというのに。今ではすっかりお馴染みになってしまっているところが、また紗生子の凄さだ。極秘プロジェクトに携わっている艦の極秘作戦だけに、手綱の必要性を欲したアイリスが下したウルトラCの大出鱈目がこれ程奏功するとは。それどころか紗生子なくしてグリーンベレー経由の情報を共有する事は出来なかった訳で、それからすると後釜のたわけなど。
「じゃあ少しばかりだが、その想いに応えてやらんとな」
 と、またついぐずぐず言っている俺に、紗生子が躊躇なく踏み込んで来た。
「な——」
 一瞬で脳が眩む程の芳烈が鼻に押し寄せる。か思うと、驚いて刮目しているところへ唇を吸われてしまったではないか。
「——え」
 その間、一秒程度だろうか。硬直して動けずにいると、甲板の一角から何やら怒号が飛んで来て
「えっ!? えっ!?
 ようやく我に返ってその発声源に振り向くと、どうやらテックが騒いでいる。
「流石にパイロットは目がいいな」
 と小さく失笑した紗生子が、何事もなかったかのように軽やかに離れた。
別の事(・・・)でもらうと言っていただろう? 相変わらず鈍いヤツだな」
「は?」
「開戦前だ」
「——あ」
 そういえば、開戦当日にそんな事を言っていたのを、混乱している脳の片隅が律儀に思い出す。
「少しはしっかりしろ。偽装婚がバレるだろうが」
「え? いや——」
 浮つく俺を前に言いたい放題の紗生子は、
「別れ際の夫婦なら、これぐらいは嗜みだ。夫婦仲を疑われても困るしな」
 余興だ余興、と相変わらず実に熟れたものだ。
「は、はぁ」
 俺などは半分魂が抜かれかかっているというのに。そもそもが、夫婦仲を疑われて何が困るというのか。
「余り見せつけても悪いな。そろそろ行くとしよう」
 と、俺に構わず車に向かい始めた紗生子の足が、また不意に止まった。
「間違ってもロシアへ攻め込む事はないだろうが、もしそうなったとしても撃墜されるなよ。助けられたロシア女に略奪婚されでもしたら敵わんからな」
 そもそも撃墜されたら普通助からない。何百歩か譲って助ったとて、助けてくれるのが年頃の未婚女性とは限らないではないか。が、色々と言いたい口が、先程の衝撃で痙攣していて思うように動かない。
 思わぬ不意打ちをかましてくれた紗生子は、
「じゃあ先に帰って待ってるぞ。旦那様」
 と踵を返すと、昨日まで纏っていた硝煙の臭いは何処へやら。薄い笑みを浮かべたナイトメアは、颯爽と日本へ帰って行った。

 紗生子が下艦した後のクルーの落胆振りはあからさまだった。といっても、作戦に然程の支障はなかった。ウクライナ軍の反転攻勢が全土に拡散した事で、出番がなくなったからだ。特にキエフに最も肉薄していた北部戦線の反撃は目覚ましく、三月下旬にはついに完全奪還に至った。その元を辿ると、やはり制空権をとられなかった事が功を奏したようで、散発的な砲撃はあるようだが、あからさまな空爆はすっかり影を潜めた。東部と南部も戦線が膠着し始めており、ロシアの短期決戦の目論見は崩れ去ったといえる。
「ホント、お前の嫁さんの偉大さには参ったよ」
 顔を合わせる度にテックは必ず紗生子の事を口にした。女好きの宿命のようなものなのかポリシーなのか知らないが、殆ど挨拶代わりだったというのに、驚く事に毎度小ネタがついているので飽きる事がなかった。それも
「後任のたわけ(御目付役)が愚痴っていたのを耳にしたんだが、嫁さんの所持品の中にどうやら通信妨害(ジャミング)機能があったらしいな。盗聴が出来てないと喚き散らしていた」
 賛美や肯定を示すもので、悪い気はしない。それにしてもあからさまに通話記録を調べるとは。いくら能無しでやる事がないといっても、度が過ぎるのではないか。人の粗探ししか出来ない軍監など。まあ本来の軍監はそうしたものだろうが、少数精鋭を旨とする極秘プロジェクト艦内では、無駄な頭数が増える事は不満や停滞の温床となる。紗生子はあれで、それを理解していた訳だ。いくらアイリス(副大統領)が手綱を欲するとはいえ、紗生子の後任のミスキャスト振りは際立つばかりだった。
「お前も大したモンだな」
「は?」
「俺は恐ろしくて、あんな女なんかまっぴらだ。例え偽装でもな」
「え?」
 やはり、バレていたらしい。
「お前があんな美人と結婚出来る訳ないだろうが!」
 それに現役の他国軍人同士だ。普通結婚は許されない。そんなところからアプローチすれば、
「バレバレだっての!」
 普通の軍人なら当然の見解だ。しかも合わせて、
「いくら日本の自衛隊が人手不足だからって、あの若さで将官はないだろ」
 階級詐称もバレていたらしい。まあ当然といえば当然だ。
「それにしては実に堂々たるモンだった。みんな騙されてやるつもりが、最終的にはまんまと騙されたのさ」
 テックの小ネタがどんどん何かの核心に迫った三月下旬。再びガエータに寄港したタイミングで俺は下艦を許され、日本の現任地へ戻る事となった。
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