3-6

文字数 1,415文字

 その後の記憶はまるでなかった。恐らく、復活した人狼の牙が届く前に、逃げ出したのだろうと思う。黒毛の愛馬に跨って駆けたケイズは、途中で部下と落ち合うことも忘れ、隊舎に帰還した。

 普段は動揺を見せない彼が、あまりに憔悴した様子だったから、隊舎の誰もが理由を聞けず、夕暮れに慌てて駆け戻ってきた中堅隊員が事情を説明して、同情を買った。かの勇猛な隊長も、伝説の化け物と対峙してしまっては、為す術もなかったのだろうと。

 麓の街に初夏が訪れた。

 帝都の軍会議や教会の評議会を経て、一般市民の森での単独行動は禁じられ、山越えをする旅人や、森での狩猟、収穫をする住民には必ず警備隊が付けられた。もちろん、伝説の化け物の実在を鵜呑みにする人間ばかりではない。熊や古狼の見間違いだろうと高を括って散策に出かけた人々のほとんどは、二度と戻らなかった。

 ケイズは再び、忌まわしい屋敷の前に佇んで、その異容を見上げる。昼前の明るい時間帯のはずだが、屋敷の周囲は鬱蒼と茂る木立も相俟って、一層、薄暗い。

 不気味な軋みを上げて、観音開きの木戸が内側から開けられた。ケイズが目線をやると、銀髪を黒い外套で隠した青年が、半歩だけ外に踏み出し、虚ろな表情でこちらを見ていた。

「帝都に遣いを出して協議しました」

 ケイズは恭しく跪拝して敬意を示しつつ、

「貴方のお父上の弟君の息子──甥の血筋に当たる侯爵家の者は、どのような経緯であれ、貴方が存命であることを受け入れ、如何様にも善処なさるとのことです」

 受け取った文の内容を偽らずに伝えた。

 人狼に成り果てた青年とケイズがこうして会うのは、屋敷で対面してから三度目になる。

 同じ一族の末席にある者同士、害意はなく、物騒な噂の根本に忌まわしい事件の舞台があったから、真相を確かめに来ただけであると明かしたケイズは、人を狩るのをやめるよう進言しつつ、帝都に住まう一族の本流に繋ぎを取り、その処遇を確認していた。どんな手段を以てしても討伐できない化け物だ、万物を溶かす強烈な酸を浴びせたところで、地獄絵図を見せられて終わりだろう、との忠言付きで。

「私の望みはただ一つだ」

 青年はケイズの言葉を受けて、その重たい口をようやく開く。

「我が父が辺境伯に追いやられた理由が知りたい」

 本来、侯爵家を継ぐべき嫡男が、どういう理由でか、帝都から離れた辺境の地を任されることになった。あの惨劇を生む前から父の気が狂れていたのだとすれば、辺境伯として追いやられる理由に納得はできる。しかし、そこに何らかの策謀があってのことであれば、青年は自らが辿る運命の根源を許すことはないだろう。

 人狼として蘇生してこの方、屋敷に残された日記や往復書簡などを読んで、この青年は何かに気づいたようだった。繁栄を極める一族の末席にいるからこそ、ケイズも何となく、仄暗い気配を感じ取っている。

「……必ず、その様にお伝えします」

 だからケイズは、人狼に成り果てた青年の手足になっても構わないと思った。凶暴で知られる人狼を前にして命が保障されるのであれば、そして彼の魔手から街の平穏が守れるのであれば、ちっぽけな矜恃など投げ捨てても構わない。

 あの日、地下の燃え盛る礼拝堂から生きて帰還したときに決めたのだ。この化け物は何としてでも、命に替えても飼い慣らすのだと。悲劇によって生み出された魔性を抑え、人々の安寧を守ることこそが、ケイズが麓の街にできる、唯一の贖罪だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み