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文字数 1,372文字
その男は、長い永い時を生きてきた。
いつから存在していたのか定かではないが、気づけば、一面に蒼い空を眺めていた。そこには確かに動かせる手足があり、どうやら、この意識は肉の器に宿っているようだと自覚し、覚束無い足で原始林から抜け出ると、緑青色の海が際限なく、どこまでもどこまでも続いていた。男の最初の記憶だ。
行く宛てはなく、何をすべきかもわからず彷徨い、やがて男は、やはり永い時を生きてきたという魔女と出逢い、ヘレン、という名を贈られた。
「あなたは忌み子なの」
魔女は言った。初めて見た海のような、深い碧の瞳に、髪も肌も真っ白な子供を映して、寂しげに。
「互いを想い合う双子の狼が禁忌を犯して交わった結果、あなたが生まれてしまったの」
原生林の奥に住む魔女は、原生植物に囲まれながら、白い髪を愛でる。
「そうね、人狼 とでも名付けるわ」
魔女は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あなたは永劫、怪物として生きなければいけない、誰からも必要とされない忌み子ですもの、あたしと同じ」
アダムとリリスの娘だと語る魔女は、本当は、呪いをかけたのかも知れない。肉の器に宿った意識は何者でもなかったのに、魔女によって定義されてしまったから、不死の化け物になってしまった。仮にそうだとして、男はそれを悲劇とは思わない。魔女と同じ、強大な厄災としてでも、この器の存在意義が生まれたからだ。
「あなたはヘレン、あたしはxxxx、全き善で全き悪、男であって女、生 であって死 、失楽園 の申し子よ」
漆黒の髪と瞳の子供は、目をキラキラさせて、いつも同じ結末の話を聞いている。
一四三X年、名門F家に名を連ねる辺境伯の下、家庭教師として雇われ、子守りを任されたヘレンは子供にせがまれるがまま、このお伽噺を繰り返すのだ。
「その魔女さんは元気なの?」
羊皮紙を机に広げ、青インクに浸した羽根ペンをそのままに、子供は無邪気に尋ねた。読み書き計算や教養より、途方もない物語に時間を費やしてしまうのは、まだ七歳ほどだからだろう。だからヘレンも家庭教師として煩いことは言わず、子供の興味が赴くまま、答えることにしている。
「さて、もう千年も会っていないから、元気かどうかはわからないな」
わぁ、と子供が感嘆の声を上げた。頬を僅かに紅潮させて興奮気味だ。
「千年、千年ってどれくらい?」
普通に考えれば、そんなの嘘に決まっているのに、この子供の想像力は逞しい。目の前にいる白髪の男が本当に千年以上生きているかどうかは問題でなく、こうして話をしている事実だけを愉しんでいる。
「ヘレンはたくさんのところに行って、たくさんの人を見てきたの?」
ヘレンの答えなど待たず、子供は矢継ぎ早に、
「それとも、ずっと独りぼっちだったの?」
そう尋ねて、とても寂しそうな顔をするから、ヘレンは一瞬、その野性味溢れる美貌に浮かべるべき表情を忘れてしまった。
子供のか弱い手が、机の上で、ヘレンの骨ばった指に触れる。小首を傾げて不安そうな子供に、ヘレンは今にも顎まで裂けてしまいそうな笑みを浮かべて、
「──だとしても、今はもう寂しくない」
子供の手を両手で包み込み、
「ほんとう?」
寂しげに尋ねる子供へ、
「本当だとも、今はこうして君が横にいる」
衒いなく答えると、天使の美貌をくすぐったそうに歪めて、子供がはにかんだ。
「良かった」
いつから存在していたのか定かではないが、気づけば、一面に蒼い空を眺めていた。そこには確かに動かせる手足があり、どうやら、この意識は肉の器に宿っているようだと自覚し、覚束無い足で原始林から抜け出ると、緑青色の海が際限なく、どこまでもどこまでも続いていた。男の最初の記憶だ。
行く宛てはなく、何をすべきかもわからず彷徨い、やがて男は、やはり永い時を生きてきたという魔女と出逢い、ヘレン、という名を贈られた。
「あなたは忌み子なの」
魔女は言った。初めて見た海のような、深い碧の瞳に、髪も肌も真っ白な子供を映して、寂しげに。
「互いを想い合う双子の狼が禁忌を犯して交わった結果、あなたが生まれてしまったの」
原生林の奥に住む魔女は、原生植物に囲まれながら、白い髪を愛でる。
「そうね、
魔女は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「あなたは永劫、怪物として生きなければいけない、誰からも必要とされない忌み子ですもの、あたしと同じ」
アダムとリリスの娘だと語る魔女は、本当は、呪いをかけたのかも知れない。肉の器に宿った意識は何者でもなかったのに、魔女によって定義されてしまったから、不死の化け物になってしまった。仮にそうだとして、男はそれを悲劇とは思わない。魔女と同じ、強大な厄災としてでも、この器の存在意義が生まれたからだ。
「あなたはヘレン、あたしはxxxx、全き善で全き悪、男であって女、
漆黒の髪と瞳の子供は、目をキラキラさせて、いつも同じ結末の話を聞いている。
一四三X年、名門F家に名を連ねる辺境伯の下、家庭教師として雇われ、子守りを任されたヘレンは子供にせがまれるがまま、このお伽噺を繰り返すのだ。
「その魔女さんは元気なの?」
羊皮紙を机に広げ、青インクに浸した羽根ペンをそのままに、子供は無邪気に尋ねた。読み書き計算や教養より、途方もない物語に時間を費やしてしまうのは、まだ七歳ほどだからだろう。だからヘレンも家庭教師として煩いことは言わず、子供の興味が赴くまま、答えることにしている。
「さて、もう千年も会っていないから、元気かどうかはわからないな」
わぁ、と子供が感嘆の声を上げた。頬を僅かに紅潮させて興奮気味だ。
「千年、千年ってどれくらい?」
普通に考えれば、そんなの嘘に決まっているのに、この子供の想像力は逞しい。目の前にいる白髪の男が本当に千年以上生きているかどうかは問題でなく、こうして話をしている事実だけを愉しんでいる。
「ヘレンはたくさんのところに行って、たくさんの人を見てきたの?」
ヘレンの答えなど待たず、子供は矢継ぎ早に、
「それとも、ずっと独りぼっちだったの?」
そう尋ねて、とても寂しそうな顔をするから、ヘレンは一瞬、その野性味溢れる美貌に浮かべるべき表情を忘れてしまった。
子供のか弱い手が、机の上で、ヘレンの骨ばった指に触れる。小首を傾げて不安そうな子供に、ヘレンは今にも顎まで裂けてしまいそうな笑みを浮かべて、
「──だとしても、今はもう寂しくない」
子供の手を両手で包み込み、
「ほんとう?」
寂しげに尋ねる子供へ、
「本当だとも、今はこうして君が横にいる」
衒いなく答えると、天使の美貌をくすぐったそうに歪めて、子供がはにかんだ。
「良かった」
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