第2話 レギーネ(1)

文字数 1,819文字

 三年前、きみは熱烈な恋をしていたね。きみは一方的に熱を上げ、その熱を技巧をもって冷ますように、たくさん彼女に手紙を書いて。既に婚約者もいた彼女の心を、きみはそうして射抜いてしまった。

 婚約指輪も交わし、あとは婚礼を待つだけだった。それなのに、きみは指輪を贈ったその翌日に、もう大後悔を始めた。「踏み誤った! 憂鬱、悔恨、これだけでもう十分だ」と言って。

 そしてきみは、おそらく男女の結婚・婚約にまつわる歴史上、あまり例を見ない婚約破棄を行なった。つまり、指輪を一方的に送り返したのだ。

「結局は、起こらずには済まないことを、そして起こってしまえば、必要なだけの力を注ぐであろうことを、これから先、なお幾度も試したりなどしないために、今、そうすることにします。── ひとかどのことができるのに、ひとりの娘を幸福にできなかった男を許して下さい。
 絹の紐を送ることは、東の国では、それを受け取る者にとって死刑を意味します。指輪を送ることは、ここでは、きっと、それを送る者にとって、死刑となることでしょう」

 ねえ、きみ、こんな謎めいた手紙を添えて、指輪を送り返して。「何より、この手紙を書いている者を忘れないで下さい」とも書いて。
 きみは、どうしてこんなことをしたんだろう? レギーネと出逢って三年の間、ずっときみは、一日たりとも彼女のことを忘れず、慕い、胸を焦がし、想っていたろうに。やっと、大好きな彼女と、一緒に暮らせるはずだったのに。

 この婚約破棄について、「この秘密を解く者は私の思想の秘密を解く者だ」ときみは日記に書いていたね。思想というより、きみ自身の謎そのものだとわたしは思う。
 きみは遺産によって小金持ちになっていたし、教会監督者のミュンスターとの縁故から牧師になって生計を立てる道もあった。婚約を破棄する具体的な理由は、塵一つとしてどこにもなかった。何より、レギーネはきみを愛していたし、きみはレギーネを愛していた。

 わがまま。身勝手。自分のことしか考えていない冷血な男── 狭い町だ、きみの悪評は一気に広まった。きみは逃げるように、この町から離れて行った。彼女はとにかく破棄される理由が分からなかった。傷心するにも、その刃さえ無かった…

 きみは心理学者が定型にあてはめる、言動分析の仕方を極端に恐れていたから、わたしはそんな分析はしないよ。レギーネを傷つけたことへの、きみの自責が如何ほどだったかも、触れない。平坦な、野暮な想像だけをする。
 きみは、34歳までしか生きられないと自分で決定していたね。1人を除いて、他の6人の兄姉たちは皆、33歳以上生きなかったからだ。

 生命には、限りがあることを、きみは実感していた。残りの人生を、愛する人と共に過ごす── きみにとって、それは甘美な夢だったろう。そして離れて暮らす間は、きみはその夢を、まっさらな夢として見ることができていた。素晴らしい時間だった! 部屋にひとり籠り、レギーネへの愛を灯に、創作活動を続ける。もしかしたら、最上の季節の三年間だったかもしれない。

 だが、きみは憂鬱、絶望にこそ、喜福、希望のめばえがあることを知っていた。きみは、憂鬱と絶望によって、きみ自身が立っていることを知っていた。憂鬱と絶望が、まるで自分自身であるかのごとくに。きみの創作活動は、そこから始まっていることを、きみは知っていたんじゃないか?

 自分が何のために生まれ、何のために死んでいくのか。きみという存在、きみはそれを「書くこと」と定めた。結婚は、きみの存在意義を揺すぶらす。きみの魂を揺さぶったレギーネは、ただでさえ大きな存在なのに、これ以上接近してきたら、ひとたまりもない。

 きみは想像力が尋常でなかった。結婚生活を想像すればするほど、その期日が近くなればなるほど、きみは幸福であったに違いない。が、そんな幸福の過剰なふくらみに、きみの豊富な想像の羽毛が落ち着くわけがない。同等量をもって、憂鬱と絶望がきみを身ぐるみ囲った。慣れ親しんだ、きみのテリトリーたる、両の足が着くきみだけの世界だ。きみが育てた幸福らしき鳥どもは、もう飛び立っている。手を伸ばせば届くだろう。だが、きみはそれを見ているだけだ。そう、見ているだけ。これがセーレン、きみの自己であり、本来あるべききみ自身の根源的な立ち位置、場所、でなかったか?
 そうしてきみは、巣帰りするように、きみ自身へ立ち帰っていったんだよ。
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